うつくしい珊瑚色の髪。
 うつくしい琥珀色の瞳。
 けれどその身は、(くら)い水底の泥にまみれ。

 

 飽くなき美を欲しがる人間によって、夜毎貪られ、貪られ、貪られ。
 それでも人魚は、その傷だらけの腕の中に、いとしい王子を抱きしめることだけを選んだ。

 

 

 


 

 

Aquarium.

 

 


 

 

 

「……次は、どっちだ?」

 

 

海の底にたたずむ黒い国が、つい先刻、夜を牛耳っていた男もろとも焼け落ちた。
国を落としたのは、王子。
真の夜を統べる者。 ―――美しい、夜色の髪の王子。

 

 

「……この道は……まっすぐ……」

 

 

そして焼け跡から一匹の人魚が今、王子の背に負われて逃げている。
故郷の国も、そこに残された仲間たちも見捨てて、敵のはずの王子とともに。

 

 

 黒髪の男は黙って頷くと、周囲の気配に意識を尖らせながら、ふたたび急ぎ足で歩き始めた。
 両脚を抱えなおした一瞬、―――それは慎重な動きであったにも関わらず、背中の男が息を引きつめてすがりついてくるのを感じて、痛ましげに瞑目する。

 

 

王子に会いに行くために、魔女からもらった二本の脚。
…いまやもうボロボロで、歩くたびにナイフの上を踏むように痛むけれど。

 

 

 ぽた。
 ぽた。


 歩を進めるたび、ダッシュウッドの腹や脚をつたい落ちて、終わりの見えない静寂を濡らすもの。
 …ああ、旦那の大切な外套まで、きっと汚しちまってる。
 黒衣の背中を追うように、点々と描かれてゆく赤い軌跡に視線を落として、かすかな溜息をつく。

 

 

人魚の脚から、深紅色の鱗が剥がれ落ちてゆく。
いちまいずつ。 ゆっくりと。 …途切れることなく。
その、美しい鱗が剥がれて失われた分だけ、


人魚自身の、命もまた然り。

 

 

「……寒いのか」
 足を止めずに、黒髪の男の低い声が呟いた。
 不意に現実に引き戻されたダッシュウッドは一瞬、反応を見失う。
「……え? …い、や別に」
「震えている。 ……寒いんだろう」
 急激な失血に奪われていく体温。
 ダッシュウッドは曖昧に微笑んでみせようとして、失敗した。
 細かく震えながら黒衣の背にしがみつくことしかできない体が、情けない。
「旦那の背中、は、…あったかい……ス、よ…」
「…まるで答えになってないな」
 男はひとつ苦笑して、背中の怪我人を落とさないようしっかりと支えながら、器用に黒衣の懐をさぐり、
「―――少し、我慢しろ」
 その言葉と同時に、ダッシュウッドの腕に生まれた小さな痛み。
 伸び上がるようにして覗き込むと、そこには細いチューブが突き立っていて。
 ダッシュウッドが口を開きかけた時には既に、黒髪の男は自分の胸元をくつろげ、もう一方のチューブの先端を躊躇なくそこへ突き刺していた。


 呆然と、それを見つめるダッシュウッドを担ぎ直し。
 黒髪の男はそのまま、何事もなかったような顔で歩き続ける。


「……旦那、ッ…!」
「お前のその怪我は」
 我に返ったダッシュウッドの、泣き出しそうな叫びを遮って、
「本当なら、俺が負っていたはずだった。 …お前が俺のせいで流した血を、俺はお前に返さなくては」


 ―――だから、何も言わなくていい。
 静かにそう語りかけてくる背中。
 たまらなくなって、ダッシュウッドは残った精一杯の力の限り、黒髪の男を抱きしめた。
 …そうしているだけでも、死にぞこないの体が不思議と、熱く火照ってくるかのようだ。

 

 

―――冷たいはずの海が、あたたかい。
王子のぬくもりに酔い、人魚はしばし、すべての痛みを忘れてたゆとう。
遠い世界の、けして相容れないひと。
けれど同じあたたかな血を持つ、同じいきもの。

 

 

 旦那……これでまた、あなたとひとつになれたんだ。
 陶然と目を閉じて、ダッシュウッドはその細い管を通して流れ込んでくる血潮の熱さを感じた。


 ―――ねぇ、こんな風に言っちゃあ不謹慎でしょうけど……アノ時、みたいな感じッスよ。
 しかも、今はあなたのがオレの中に入ってくる。
 なんだかまるで、あなたに抱かれてるみたいな感覚。

 ……キモチイイ、なんつったらあなたは怒ってチューブ引っこ抜いちまいそうだから、絶対言えませんけどね。

 

 

 (………ああ。 今、がいいなァ……)

 

 

 大好きなひとの、広い背中に揺られながら。 優しさとぬくもりに抱かれながら。
 ダッシュウッドの脳裏をふと、願ってはいけない願いがよぎってしまう。
 こんなオレなんかを生かそうと懸命になってくれてる旦那に申し訳ないって、頭では分かってるのに。

 

 

 

 死ぬ、なら、今がいいなァ―――なんて。

 

 

 

胸の底に沈めた真の願いは、王子には言えない。
魔女との契約によって、語る声を封じられているから?
…否。 たとえこの喉が生きていたとしても、言えはしなかっただろう。


愚かしくも傲慢な、人魚のほんとうの望みなどは。

 

 

「……ッシュ、ウッド?」
 いつもと若干、トーンの違う声に呼びかけられて、ダッシュウッドは我を取り戻した。
 外套の肩に頬をうずめたまま何も言わなくなってしまった負傷者は、医者の不安をかきたてたことだろう。 常に怜悧な艶のくずれない男の声が、ほんのわずかながら嗄れている。
 ダッシュウッドは頭部を傾けるようにして顔を上げると、力なく笑みをつくってみせた。
 黒髪の男の双眸が一瞬、見開かれ、―――何かを察したかのように奥歯を食いしばり、

「……っ…!」

 その唇で、肩越しのダッシュウッドのそれを掠めるように、くちづけた。

 

「だいじょうぶ、だ」
 いきなり近づいて、そして離れていった秀麗な(おもて)
 ぽかんと呆けたダッシュウッドに、黒髪の男は少し蒼ざめた表情をぎこちなく動かし。
「俺が必ず助けてやる。 …もう少しだけ、頑張れ」


 もしかしたら、これが最初で最後かもしれない、と思った。
 ―――こんなにも間近で、このひとの微笑う顔。


 (……なんていうか、本当に……あなたって人は……)
 どこまでも、どんなときでも。 ……オレを鼓舞してその気にさせちまうコツ、心得てるんスよね。
 こみ上げてくる笑いをなんとかやり過ごしながら、ダッシュウッドは甘えるように黒衣の肩へと頬を寄せる。

 

 

ここにいるのは、海底の泥にまみれた脆弱な人魚。
 王子を守るために戦い抜く騎士(ナイト)のような強さなど、到底ありはしないけれど。

 

 

 ―――いつの日か、かならず、あなたを救う力となってみせる。
 あなたのお父さんに優しく癒してもらった、この命のすべてを賭して。
 初めてあなたに会った瞬間から、オレは、自分自身にそう誓って生きてきた。

 

 

 

「愛してますぜ」

 

 

 

 ……だから、もう、ひとつの悔いもないんです。

 

 

 

 

 

「………どうして」

 乾いた沈黙の中で、黒髪の男の靴音が止まる。

 

「どうして………今、そんなことを言うんだ」

 

 

 始終ダッシュウッドが囁いている軽口ならば、男も「言ってろ」と肩をすくめて終わりだったろう。
 しかし、今のダッシュウッドの告白は、違った。
 真摯に心の奥の想いを伝えるための、本物の響きだった。


 ―――遺す言葉のように。


 無意識のうちに喉から滑り落ちたそれは、ダッシュウッド自身をも驚かせた。
 そして、はじめて気が付いた。
 地獄への一人旅も、今となっては怖くない。 命を懸ける覚悟はとうにできていたのだから。
 ……そんな、悟りきった騎士気取りの奇麗事などではなくて、本当は。

 

 

 今、ここで、オレが死んだとしたら。
 優しいあなたは、きっとこの先もずっと、オレのことを忘れられないだろう。

 

 

いつか、他の誰かのものになってしまう王子の心。
…せめてその片隅に、いつまでも小さな漣を寄せる欠片となれたら。


愚かしくも傲慢な、人魚のほんとうの望み。
王子の優しさにつけこむ、とても卑劣で……切ない、打算。

 

 

 だってオレにはそれぐらいしか、あなたを繋ぎ止める術がないんだ。
 ……あなたを殺せない、オレにはそれしか。

 

 

王子に会うための脚をくれた魔女が、かつて人魚に言った。
愛は、相手をその手で殺めることによってのみ完成するのだと。
だからお前も愛する者がいるのなら、誰かに奪われる前に息の根を止めてしまうがいい、と。


―――愛しい王子を手にかけてまで、あの溟い水底に這いずり生きて、なんの幸せがあろう。
王子を殺して愛を得るか。 愛を捨てて王子を生かすか。
その、どちらかしか選べないというなら………いっそこんな命、泡となって消えてしまったとしても。

 

 

 ……なあ、人魚姫さんとやら。
 アンタも、こんな気持ちだったのかい?

 

 

「馬鹿野郎……」
 黒髪の男が、震える声で苦しげに唸った。
 ダッシュウッドの内なる戯言を読んだかのごとく。 ―――叩きつけるような、烈しさで。
「必ず助けると言っただろう。 ……俺の言葉が、どうして信じられない!!」


 叫びの残響と、自棄糞のように荒っぽく駆け出した靴音が、死にかけの胸を揺さぶる。
 …信じていないわけじゃ、ないんです。
 そう否定しようとした言葉は、音をなさぬまま、喉の奥にひりついた。

 

 今だからこそ、はっきりと分かることがある。
 リュースのことも、伯爵のことも、結社にひしめく同胞たちのことも―――本当は、嫌いなんかじゃなかった。
 地下の住人だけじゃない、地上で売人とその客として関わってきた、多くの人たちのことだって。
 本心から憎い者など、この世界に一人もいなかったように思う。
 ……けれど。 本気で信頼している者もまた、誰一人として、いなかったのだ。

 

 オレは、誰のことも信じちゃいなかった。
 結社の仲間も、自分自身も、

 

「………すみ…ません」

 

 ―――あなたの、ことでさえ。
 否、世界で一番愛している、あなただからこそ。
 依存することはできなかった。 けっして。

 

「……何を、謝る……!」

 

 すがりつこうと伸ばしたこの手が、いつか、本当の意味で振り払われてしまったとき。
 …自分がここに生まれてきたこと、そのものが、辛くなるだろうから。

 

「―――すみま、せん……。  オレ、なんかの…ために……泣、かせちゃ……って…」
「…誰が、泣いている…と?」

 

 黒衣の襟で、乱暴に眦をぬぐう。
 いつだって誰かのために強くあろうとするあなたが、いとおしくて、眩しい。

 

「汗が目に入っただけだ。 ―――次の道は!!」

 

 

 凛とした声でまっすぐに、前だけを見据える瞳。
 いかな逆境に追い込まれても、あなたは逃げ出そうとしない。 あらゆる可能性を模索し、行動する。
 明けない夜がないように、必ず未来に光を見出せることを……恐れずに、信じて。

 

 それはおそらく、光差す地上の世界で生きる者だけが持ちうる、強さ。

 

 

王子の生きる世界は、果てしなく広がる大地。
人魚の生きられる世界は、限られた水底の空間。


出逢えただけでも、奇跡に等しい。


―――奇跡の上を望んでしまった瞬間から。
人魚自身にも、終焉の時は見え始めていた。

 

 

…だとしても。 まだ、海の底へと沈むわけにはいかない。
 もう使い物にならないこんな脚も、元の尾鰭も、千切れてなくなったってかまわない。

 

 

 ……そうだ。

 オレにはまだ、果たすべき役目が残っている。
 このひとを、光の届く地上へと無事に送り届けるという、役目が。


 ―――最後の役目になるかもしれないが、なんて、今は考えるな。

 


 あと少し。
 あと、ほんの少しで、出口にたどりつく。

 

 

 

…だんだん息苦しくなってきた。 いつの間にか、水がずいぶんと明るい。
水面に近づいてきたのだ。
王子の生きてゆく、…人魚は窒息してしまう、まばゆい地上の世界に。

 

 

 

「…そこ、を、…左に… 曲が、  …て………」

 

 

 

 

光は、もうすぐだ―――。


 

 

 

<Fin.>


 

 後書きです。

 辛くても一度は書いとかないとなぁ…と着手したED関連。
 …最後まできっちり書くのは無理でした…ヘタレですみません。
 タイトルも最後まで悩みました…。<結局、いいのが思いつかなくて仮タイトルのままに。(爆)

 人魚の宮殿は珊瑚の壁と琥珀の窓でできてるんだそうです。(『人魚姫』の童話にありました)
 読んだ瞬間、ダッシュのカラーリングだな…と思ってしまった私は末期。
 
腰から下が魚のダッシュとか、具体的なイメージを思い描くには少々キツイものがありますが。(^-^;)
 (髭面の人魚……というよりもう
半魚人だろうそれは)

 

 本編に沿って書く旦那とダッシュの話としては、これが時間軸の最後になる…かな、と。
 ここまでお読みくださって有難うございました!!
 久々のダシュゲオダシュssがこんな重苦しい内容で申し訳ないです。;

 

 

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