悪徳オルフェウス
それは、遥かいにしえの時代の話。
世にも稀なる美しい音色を紡ぎ出す、ひとりの竪琴弾きがいた。
竪琴弾きには、想い交わした女がいた。 しかし彼女と結ばれて間もなく、毒蛇の牙が妻を奪い去ってしまう。
悲しみに暮れる竪琴弾きは、愛しい妻をもう一度その腕にと願うあまり、死者の国まで乗り込んでゆく。
竪琴弾きの奏でる悲哀のしらべが、忘却の川の船頭や地獄の番人、ついには冥府の王の心までも動かした。
念願叶って再会を果たした竪琴弾きとその妻は、手に手を取り合い、死者の国の出口を目指す。
そして………―――
「……で。 最後、どうなったんスか?」
「『妻を返す代わりに、地上へ出るまでは決して後ろを振り返らない』。 それが冥府の王との約束だったんだ。
…だが、地上の光が見えてきて、あと一歩で冥界を抜け出せるというところで、竪琴弾きは振り返って妻の姿を見てしまった。 ―――結局、妻は冥界へ連れ戻され、二度と会うことはままならなかった」
「…なァんだ。 やっぱ世の中、そう甘い話は転がっちゃいねぇってね」
くつりと笑った男が頬杖をついたまま、軽く肩をすくめた。
見る影も無く乱れたシーツに並んで寝転がり、かろうじて毛布だけをかき寄せて、蜂蜜のように甘たるく蕩けた時間。 擦れあう手足はいまだ火照ったまま、時折、飽くこともなく情欲の種をくすぶらせる。
長らくの牽制とわだかまりを経てひとまずの収束を見、ついでに一足飛びに辿り着いてしまった、その涯ての形がここにはあった。
つくづく奇妙な縁だ、とは思うが不快ではない。 むしろ、この体温が傍にある今に安堵を覚える―――そう、こんな自分こそが一番変わったといえよう。
ともかくも。 幾度目かの熱を重ね終えて、互いにようやく呼吸が落ち着いてきたころ。
余韻もそのままに男が言い出したのは、
「ねえ、なんか昔話でも聞かせてくださいよ」
―――という、いつもながら唐突な『お強請り』だった。
かすれ気味の低い声に軽い渇きを誘われながら、けれど自分ばかりががっついていると笑われるのも癪で。 茹だった頭と身体を冷ますにはちょうど良かろうと、男の要望に応えるにやぶさかではなかった。
…語り部は、まったくもって得意とは言いがたい。 (どちらかといえば、男のほうが向いていそうだ。)
訥訥たる口調で、むかし本で読んだ曖昧な記憶を頼りに、神話の一節などを持ち出し、話し始めた。
男が本当に聴きたかったのは、違う意味での『昔話』だったのだろう。 だが、あえてとぼけた振りをした。 男もまた、否を唱えようとはしなかった。
抱き寄せた枕に顎をうずめて目を閉じ、さして面白くも無いだろう『昔話』に、子供のように熱心に耳を傾けていた。
ひょっとしたら、母親が絵本を読む声を聴きながら眠りにつく、幼子の気分にでも浸っていたのかもしれない。
「オレが思うに、その王様とやら。 端っから奥さん返してくれる気なんざ、さらさら無かったんでしょうねェ」
「俺もそう思う。 だからわざと意地の悪い条件を出して、男が勝手に自滅するのを待っていたんだろうな」
神話なんて単なる作り話、御伽噺。 それをネタに交わす議論だって、たわいのない戯言の応酬だ。
だが男の表情が甘えるように和らいで、くすくすと微笑う揺らぎが肌越しに伝わってくるのは、心地好い。
ならばこんな“夜伽”も悪くないな―――、そう思えば、自然と口角が緩むのを感じた。 今の己の顔は、とても鏡で見られたものではないだろう。 …男の笑顔につられただけだと思っておくが。
女のおしゃべりのような、要領を得ない会話は苦手なはずなのに、不思議と満ち足りた気分だった。
もしかしてこれが世に言う、ピロートークとかいうやつだろうか。
などと改めて意識するのは非常にこそばゆいけれど、満足しているものは仕方ない。
この男との初めての同衾は、合意ではなかった。 少なくとも、途中までは。
飼い主の話題を持ち出された男が急に焦燥をみせたかと思うと、「オレが愛してるのは旦那です!」みたいなことを訊いてもいないのに勝手に口走りはじめて、しまいには強姦まがいの暴挙に……否、むしろ告白のほうが後だったか。 よく覚えていないし、今更どうでもいいことだが。
思えばあのときから、…いやもっとずっと以前から、この男に触れられるのが嫌ではない自分に気付いていた。
いつかはこうなるのだと、予感めいた何かを朧に感じていた。 だからこそ組み伏せられ、さんざ無礼な言動で辱められたあげく女にされても、即座に斬り捨てるどころか、このように親密な関係を築けたのだろう。
(最近では自分の方が抱く側に回る夜が多いのは、ほんの少しだけ、報復の意図を兼ねてもいるのだが。)
最初から、愛していると喚いていた男。
最初の時とは明らかに違う、温かく穏やかに流れる時間。
当然、男もこのぬくもりに酔っているものとばかり思っていたから、男の瞳にふと翳りがよぎったのを、すぐにはそうと把握できなかった。
「……なんで、振り返っちまったんだろうなァ」
一瞬、なんの話かと訊き返しそうになる。
確かに腕の中にいるはずの男は、いつも時折そうするように、こちらを見ながらもこちらを見てはいなかった。 まるで男の立つ大地がどろりと融け出し、男の足首を掴むかのように。
もともと黒い土の下の住人である男は、身体(と、おそらくは心も)がいくら温んでも、生命そのものに嵌められた硬い枷の冷たさにやがて我を取り戻してしまうのか、けして意識の末端まで溺れきることはできない、らしい。
―――所詮、この男は自分のものではなく、『最初の時』に横槍を入れてきたあいつのものなのだと。
思い知らされるのは、こんなときだ。
「たとえば、こんなふうに」
するり。 と、男のしなやかな腕が伸び、わきの下から背中へと回ってきた。
そのまま、きゅっと力を籠められる。
「……ぎゅうって抱きかかえたまんま歩けば、わざわざ振り返って顔なんか見なくたって、安心してられたのに」
愛する人と一緒に地獄を抜け出して、光の世界へ。
そんな夢みたいなチャンスがまさに目の前まで降りてきていたのに、むざむざ棒に振ってしまうなんて。
「信じらんねぇーぐらい、バカですよね。 オレが言うのもなんですけど」
もし現実でもそんなことした奴がいたら、正真正銘の馬鹿だよなァ、そいつ。
独りごちて、男はまた微笑った。 先刻よりも乾いた笑い方、のように、聴こえた。
ようやく、気付いた。
男の言う『地獄』とは、どこのことなのか。
暗に誰のことを指して話題にしているのか、ということにも。
「……抱きかかえたままだと、剣が振るえまい?」
心に浮かんだ思いを口にすると、男が「え、」と顔を上げた。 完全に虚を突かれたような、ぽかんとした表情は存外可愛くて、髪を撫でてやりたくなる。 …その衝動にはあえて逆らわずに動きながら、言葉を紡ぐ。
「さっきの、竪琴弾きの話だがな。 俺はむしろ、彼の失敗は冥界の王との約束を破ったことじゃなく、そもそも剣をとらなかったことだと思うんだ」
「どういう……意味ッスか?」
「俺に言わせれば、『詰めが甘かった』ということさ」
実は、これはたった今パッと頭に思い浮かんだ考えではなくて、ずっと昔―――この逸話をはじめて耳にした子供の頃にも、竪琴弾きの行動にやはり同じような疑問を抱いたのを覚えている。
母が急逝し、すぐ後を追うように父も身罷った。 次々に肉親を喪ったことで、大切な人を亡くす痛み、悲しみがどれほど根の深いものかを身に沁みて知ってからは、そうした考えを持つ傾向がより強くなったと思う。
そう。 冷静な目で見れば愚かでしかなくとも、人の感情とは理屈では説明のつかないものなのだ。
…なんて、理屈に合わないことを嫌う愚直な幼なじみ(驚くべきことに、いまや騎士団長の栄誉を拝している男だ)あたりに聞かせたら目を剥いて説教されそうだったから、今まで他人に話したことはなかったけれど。
「確実に妻を取り戻したかったのなら、冥府の王に阿って条件を飲む前に、いっそ王を斬るべきだった……とは思わないか?
妻を死に追いやった毒蛇を斬るのは当然としても、その王とて妻の魂を勝手に管理し、取引のための条件を一方的に突きつけてくるんだ。 妻を想う男からすれば、誘拐犯も同然だろう。 俺ならその場で敵と判断する」
生者たる竪琴弾きにとり、冥界は戦場、それも敵地に等しい。 文字通りの『死地』なのだから。
力で完全に制圧するのは無理だとしても、少なくとも冥界の守人や亡者たちすべてを敵に回してもやむなし、位の気概は必要だったはず。
竪琴弾きに足りなかったものは妻への愛よりもむしろ、そういった強固な戦意や、覚悟の類ではないだろうか。
戸惑いながらも聞き入っている風情の男と、まともに視線を絡ませた瞬間。
どこか胡乱げだった双眸がはっとしたように見開かれ、息を呑む気配のあと、まじまじとこちらを凝視めてきた。
今の言葉の意図を確かめようとでもするかのような仕種に、ああ、ちゃんと伝わっているな。 と安堵して、不敵な(ように見えてほしいが、実際男の目にどう映ったかはわからない)笑みで応えてやった。
いかに御伽噺とはいえ、神にまつわる逸話を例えに展開するには、随分な暴論だったと自分でも思う。
ただ、男が核心に触れるのを恐れて避けているような口ぶりだったから、こちらも調子を合わせたまでの事。
『大切な者を奪い返す為ならば、王に牙剥き冥府を潰すも厭わず』。 暗号のようなそれらの意味するところを、機微に聡い男はほぼ正確に拾い上げただろう。 先刻の反応を見れば一目瞭然だ。
男はしばらくの間、何かを言おうと唇を開いては思い直して閉ざし、と見える所作を繰り返していた。
告げたい言葉があるが、どう言えばいいのか、それ以前に口にしていいのかという葛藤に遮られている……そんなところだろう。
金色の眼にいくつもの感情が目まぐるしくよぎっては消え、再び生まれてゆく。
本心を隠すことに長けた男が滅多に見せることのない、動揺の色。
湖面に揺れる月のような、不安定な色彩が美しい―――場違いにも、素直にそう感じてしまった。
やがて、男はゆっくりと。
知らず知らずのうちに詰めていたらしい息を、長く長く吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
「たかだか一介の竪琴弾きごときが、そんな大それた期待をされちゃァ気の毒ってモンでさ。
それほどの自信があって、尚且つそれに見合うだけの力も持ってるような人間なんて、そうそう居ませんぜ。 ……旦那のほかには」
苦笑する顔が、どこか泣き笑いのように見えたのは、気のせいだろうか。
「ま、おかげで旦那が顔に似合わず、とんだ無茶をやらかす熱いお人なんだってことはよぉく分かりましたんで。
……この先、もしも旦那の身に危険が迫るようなことがあったら、オレが旦那の背中をお守りしますよ」
無鉄砲な旦那が、余所に気を取られずしっかり前だけ見て、心置きなく闘えるように…ね。
そう続いた言葉こそおどけた調子だったが、「背中を守る」と言った瞬間の表情、声の重みは真剣そのもので。
―――軽口のオブラートに紛れ込ませて、この冗談だらけの男が、本心からの覚悟を口にしたのだと。
告げられた言葉の中身以上に、そのことが単純に、自分でも驚くほど単純に嬉しかった。
胸の内にぽぉっと熱い、波紋が拡がってゆく。 向けられる真摯な感情の、なんとくすぐったく、心地好いことか。
誰かからの好意なんて煩わしいばかりでしかなかったのに、今では男の声を永遠に聴いていたいとさえ思う。 何が己をこんなにも変えたのだろう。 …それとも、この男だからこそなのか。
俺の背中は、こいつが守ってくれる。
だから俺は、ただひたすらに目の前の敵だけを見据えて、剣を振るえばいい。 元より、敵に背を向けて逃げるつもりはないのだから。
背後はこいつに任せて、あとは『地獄』の悪魔どもの屍の山を築きながら、こいつの前に立って先へ進むことだけに専念していればいい。
―――では、こいつの背中は。 ……一体、誰が守る?
ふと、内なる声が囁いたそれはまるで、何かの予感のような。
せっかく凪いだ胸を一抹の不安に波立てる、そのざわつきを無視して、男をそっと抱き寄せた。
…その『波』に耳を塞いで意識に入れようとしなかったことを、遠からぬ未来に死ぬほど悔やむことになるとは、この時の自分はまだ知る由もなく。
頭の中にあったのは只々、男の示してくれた覚悟に応えたい。 その想い、一点のみだった。
木石もいいところの自分が言葉にすると陳腐になってしまいそうで、代わりに行動で返した。 言葉よりも雄弁に心が伝わるようにと、祈るような気持ちを込めて抱き締める。
ああ、やはり自分はこの男が―――という確信に辿り着いた刹那、ぬくもりを通じて感情が直接触れ合いでもしたのか。 ふてぶてしい男の笑みに、うっすらと朱が差して見えた。
引き寄せられるように、自然と重なった唇。
おずおずと差し出された舌先を捕まえて、誘うように軽く吸ってやると、安心するのか少しずつ大胆に求めてくるようになる。
ほどけては絡まる舌に時折歯を立てながら、互いの熱さと、その奥に息づく鼓動を静かに感じた。 欲望に突き動かされての烈しいものでもなく、かといって、肉体の一部が擦れあうだけの軽いものとも違う。
例えるならば、それは一種の誓いのような。
欲しくてたまらないという熱情を孕んでいながらも、どこか厳粛な匂いがした。
「…おまえの覚悟を信じて、万が一の時は背中を預けてやる。 だが、おまえもあまり無茶はしてくれるなよ」
―――今だって充分、生傷が絶えない身体のくせに。
照れもあって、最後だけ苦笑交じりに小突いてやれば、「旦那こそ!」と悪戯小僧のような笑顔を返された。
俺が『地獄』から取り戻したい相手は、俺の妻でもなければ、喪った両親でもないけれど。
……きっとそれと同じくらい、今では大切なもの。
他者に興味の薄い俺が肉親以外ではじめて、理に逆らってでも救いたいとまで思うようになった相手。
約束しよう。
俺は地獄の王にまつろわぬ。 燃え盛る火から逃げるより、正面からまるごと火を消し飛ばす道を選ぶ。
おまえがすべてから解放された後、光の世界で怯えることなく、みずからの生を堂々と貫けるように。
―――そしていずれ、今この腕の中にいるおまえを、本当の意味で俺のものにしてみせよう。
この先いかなる敵が目の前に立ち塞がろうとも。
必ず、ここへ帰ってくる。 その時はおまえと共に、だ。
密かな誓いをそれとなく伝えたかったが、騎士の礼よろしく手の甲に口付けるのはさすがに躊躇われたので、緋色の髪をかきわけて額に唇を押し当ててみたところ、
「…そーやってオレをガキ扱いしてっと、また痛い目に遭っても知りませんよー」
と拗ねられてしまい、やはり言葉での意思疎通は重要だと、我が身の要領の悪さをちょっとだけ反省した。
<Fin.>
要領が悪い…というか、手癖が悪いというか往生際が悪いというか…(笑)
後書きもいらないような短文ですが、言い訳的に一応補足。
時間軸は入団のちょっと前。この時点ですでに二人が出来上がってたら?という前提の下での半パロです。
コンセプトは「薔薇ジャムよりもベッタベタしてて甘ったるいダシュゲオダシュ」
私の書く文章は悲恋モノくさい展開に走りがちなので、甘々な恋人同士の練習を兼ねて。
…ちゃんとクリアできてますでしょうか。できてることを祈るしかない(笑)。
タイトルは最初、「闇色オルフェウス」とかそんな感じのニュアンスでした。
でも「闇色」だとなんとなく誰のことだか読む前に分かっちゃいそうだし、それに「悪徳」なる単語の退廃耽美のかほりに前々から憧れが…(笑)
ってことでそっちに変えました。結構物騒な発言かましてますしね、ゲオ。^^;
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