Vanilla.


 

昔むかし、あるところに、一人の美しい魔女がおりました。
彼女は、とても不思議な存在でした。
どんな花やお菓子よりも甘い、とろけるような香りをまとう唇は、
その香りからは想像もつかないほど、まるで毒のように、苦いのです。
数多の男たちが、彼女の香りにたちまち魅了され、
彼女とのキスを試みては、
その苦味に驚き、困惑する。
浅はかな男たちの腕を、下心をするするとかわし、
気まぐれな魔女はただ無邪気に笑いながら、すべてを誘い、すべてを拒むのでした。

そんな彼女の本当の心を覗き見ることは、誰にもできませんでした。
彼女は何を求めるのか。
彼女は誰を愛するのか。
―――彼女は、果たして、愛の本当の意味を知っているのかさえも。

 

甘い甘い香りをまとった、ひとりぼっちの魔女。
彼女はその名を、Vanillaといいました。

 

 

 

「……9、10、と。 ―――へい、300万ゼク、確かに頂戴いたしやした」
 薄暗い診察室の扉をぼんやりと暖める明かりの下で、シャラシャラと規則的に続いていた金属音が止んだ。
 どんよりと鈍色に沈む床や壁に、鮮やかな彩りを添える無数の血痕。 ―――それらとよく似た色の髪を持つ男が、慣れた手つきで数え終えた金貨をまとめ、袋へと収めながら、にんまりと部屋の奥へ向かって呼びかけた。
「旦那ぁ、領収書はどうなさいます?」
「いらない。 …金を確認したら、さっさと帰れと言っただろう。 手術の邪魔だ」
 診療台の傍らから応えが返った。 低く冷たいその声の主は、商人の存在になど構っていられないとばかりに、一瞥すら寄越してはこない。 『手術』の準備に余念がないようで、執刀に用いる器具の各種と『商品』のチェックを、こちらも慣れた手さばきでこなしていた。
 「へいへい…」と男は麻袋を大事そうに抱えると、客の逆鱗を撫でる前に立ち去るが賢明、と踵を返す。

 …が、暇を告げるべく振り返った視界に、医師の表情へ切り替わったゲオリクの端正な横顔が映り、ダッシュウッドはつい足を止めて魅入ってしまう。 いつもながら、単調なビジネスの応酬だけで別れてしまうにはあまりに名残惜しい、愛しの美貌。
「…なんだ。 まだ、何か」
 一向に出ていこうとしない男に―――されど手は休めることなく、不審のまなざしだけを一瞬向けるゲオリク。 その冷ややかさすらも今では、どこか心地よく。 緋色の髪の男は相好を崩すと、会話を伸ばすためだけの、唐突きわまる喩え話を持ちかけてみた。
「いやぁ。 …旦那って、つくづくオレの知ってる魔女に似てるなァ…と思いましてね」
「……魔女…?」
「えもいわれぬ甘い芳香が、ことごとく男を誘う。 …それと裏腹の苦い唇が、キスを仕掛けてくる男をかたくなに拒む。 思わせぶりで意地悪な―――ヴァニラって名前の、それはそれは魅力的な魔女ですよ」
 黒髪の医師の手がそこで初めて、ぴたりと止まる。 一分の隙もなく整った鼻梁を、これでもかと顰めて。
「……俺がいつ、お前を誘った」
「旦那はいつだって甘ァ〜い、イイ匂いをさせてるじゃないですか。 旦那ご自身の自覚がなくたって、誘われねぇ男なんかこの世にいやしませんよ。 不能でもない限りはね」
「………俺がいつ、お前と、キスしたと?」
「おぉ、怖い目。 キスなんて、軽い挨拶みてぇなもんでしょ? しようと思えば、今ここでだって―――」

 パリィン!

 咄嗟に男は首をひねって避けた。 飛来した硝子の矢は、一瞬前には男のにやついた顔があった位置を通過し、壁と接吻して粉々に砕け散った。
「……ただでさえ苛ついてるんだ。 これ以上、俺を怒らせないうちに出ていくことだな」
 声の温度はいつもと大差ないものだったが、涼やかな双眸までもが今は剣呑に眇められている。
 これは失礼しやした、と肩をすぼめて恐縮するそぶりを振舞いながらも、男は終始楽しげな笑顔のままだった。 ―――退室の前にもう一度、扉から顔だけをひょっこり覗かせ、思い出したような口調で付け加える。
「でもねぇ、旦那。 同じように甘い匂いさせてても、旦那の唇が苦いわけねぇって確信してますぜ、オレ。
 むしろ、極上の甘さに違いねぇって……いつか、本物のお味にありつけたら最高に嬉しいんですけどね?」

 二発目の試験管が飛んでくるより先に、商人の頭はすばやくドアの向こうへと引っ込んで、消えた。
 …もっともゲオリクとて癇癪持ちの子供や婦女でもなし、流石にふたつもの器具を一瞬で昇天させるような愚は冒さなかったけれども。

 

 

 ―――……まったく、胸糞の悪い…。 なにが『魔女』だ。
 後ろ暗いゲオリクの立場をあてこすったわけではなかろうが、だとしても気分よく聞けるような単語ではない。
 いくぶん疲れの混じった溜息を吐くと、無礼な取立屋のことはひとまず頭から締め出して、仕事に没頭した。

 

 (―――むしろ、極上の甘さに違いねぇって……)

 

 今度、ヤツが訪ねてくるときには、あらかじめ『極上』に苦みばしったコーヒーでも飲んでおくことにしよう。
 そう、固く心に誓いながら。

 

 

 

<To be continued?>

 


 

 私にしては珍しく、本当に短いショート・ショート。
 これ一本だけだとだいぶ意味不明な感じですが、次にアップ予定の小説の前座というか、伏線になります。
 そちらの作品にはキーとなるアイテムやテーマが多く、ごちゃごちゃしそうだったので先に小分け。(^▽^;)

 ちなみに場面は「事件のつめあと」で、最初の500万ゼクの死体の後に買ったどれか。←そんなアバウトな…
 この直後の「地獄の火クラブ」の章で、旦那は本当にダッシュにキスされたり触られたりしちゃった、と。(笑)

 

 

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