闇が世界を食む宵も、人はその暗中に立ち尽くすことなく、生き抜く意志を光と変えては歩み続ける。
それが人なる生き物の強さなればこそ。
やがては闇の腑にさえ一条の光を灯し、月や星を成すのではないだろうか。
星の散らばる闇空を、人は美しいと謳う。 宵闇を照らす月を仰いでは、心囚われるようだと。
されど、それは真に非ず。
人が闇に囚われるのではない。
―――闇こそが人に惹かれ、囚われるのだ。
なんと騒がしく、せせこましい街か。
つい先刻まで自身も飛び回っていた夜の都を眺望しながら、開いたグラスをふたたび酒で満たした。
淡い紫の、神秘的な色をたたえたリキュール。
こんな洒落た代物が自分に似合うとは、到底思えないのだが。
あの男は余程のロマンチストで、この自分にたいそう繊細な理想を抱いているらしい。
今宵は、新月。 そのうえ密雲が幾重にも垂れ込め、ただ黒々と濃い闇ばかりが連なる夜。
地上に横たわる星空のようなカーマゼンの街の灯を、手の中の薄紫に透かしながら苦笑していると。
きし、きし、と傷んだ階段の軋む音が、どこかしら軽やかに聞こえるリズムを伴って近づいてくるのを察知した。 妙に調子っぱずれな鼻歌もついてくるので、人の足音とわかる。
ここは屋根裏部屋。 したがって階段の先に廊下やドアはなく、即座に部屋全体を見渡せる。
案の定、階段を上がりきったところで歌は途切れた。
窓際のアームチェアで偉そうに足を組み、ベッドサイドのチェストにあった酒瓶とグラスを勝手に拝借し、夜景を肴に手酌なんぞ決め込んでいる、不審そのものの人影に気付いたのだろう。
「…今回はまた、随分とお早いお見えで。 待たせちゃいましたか?」
笑み混じりに声をかけられた。 口調こそ謙虚に繕っているものの、歓喜を抑えかねたようなその声。 わざわざ振り向いて確かめるまでもなく、窓の外へ双眸を投げたまま、「…否、」とだけ応えた。
声の主が、音もなく部屋に滑り込んでくる気配があった。 靴音もない。 もしかしたら、裸足なのかもしれない。
二、三歩程度の距離にまで近づかれて、ようよう視線だけを寄越してやると、男は質素なガウンのような夜着を申し訳程度に羽織り、金色の瞳に研ぎ澄まされた艶を乗せて、こちらを観察していた。
「明かりは。 つけなくていいんスか」
「必要ないだろう」
分かりきったことを今更。 と、こちらも肩をそびやかす。
夜目が利くのだ。 この男も、そして今は自分も。 異常とも呼べるほど。
暦も変わろうかという深夜、月明かりすら借りず、薄笑みを浮かべた互いの表情まではっきり見えるほどに。
まるで夜行性のけだものだ。
…否。 まるで、ではなく、真実そのとおりなのかもしれない。
チェアから腰を浮かせ、カーテンを引いた。 そんな微々たる時間でもただ待つのは暇なのか、男の手が横からグラスを掠め取り、わずかに残っていた中身を舐めるように干した後、上目遣いに尋ねてきた。
「如何でしたかねぇ? 今回のウェルカムドリンクは」
「…アルコールが弱いな。 この程度では、いくら飲んでも酔えん」
酔えない本当の理由は別にある。 だが、それをこの男の前で口にするつもりはない。
素っ気ない答えでやんわりと突き放せば、耳のすぐそばで、小さく笑う呼気が鼓膜をくすぐった。
「そいつは失礼。 旦那には生易しすぎましたか……」
けど。 と、背中にじゃれついてきた体温は、常よりも少し高い。
湯浴みを済ませてきたのだろう、この男にしては品のいい香りを漂わせていた。
「お身体のほうは……それなりに温まりやしたでしょう?」
甘えるように、肩の後ろに頬をすり寄せてくる。 ―――かと思うと、湯上がりの火照りを残した指がおもむろに下腹部を這い回ろうとするのを、冷静に手首を掴んで制した。 そのまま軽く背中側に捩じ上げて、身体ごと壁に押しつける。
瞬く間に形勢が入れ替わっても、男は小さな呻きで痛みを訴えた程度で、後は黙ってされるがままになっていた。
手荒にしているつもりはまったくないのだが、あまりの容易さがいつも何かしら、胸をざわつかせる。
この男はこんなにも非力だったか。 端から抵抗の意思がないのか。 …或いは己のこの腕が、肉体が。
人ならざる力を備えた、『何か』のものに変貌しつつあるという証なのか。
―――どうでもいいことだ、と自身に言い聞かせ、それきり目の前の獲物に没頭することで頭を切り替えた。
「せっかちな男だな。 もうその気になってるのか」
「…旦那が…、変に焦らすから……です、って…」
押さえ込まれながらも、男は終始楽しげだ。 肩越しに見上げてくる眸は爛々ときらめき、唇には不敵な笑み。 その余裕を間近に見るたび、いつも少しばかり突付いて、崩してやりたくなる欲が頭をもたげてくる。
空いた手を回して夜着の上から胸を撫でると、悦楽に飼い慣らされている肉体はその程度の軽い刺激さえ、溜息のような低い喘ぎに変えてよこした。
「…焦らされるのが、嫌だとでも?」
これで、と揶揄しながら、背中から抱きしめる形に腕を絡めた。 自分より一回りほど低い位置にある男の頭に、自然と顔がうずまる。
まだ幾分しっとりと湿った柔らかい髪が、アルコールの入った頬にちょうどいい冷たさで、無意識のままに深く息を吸い込んでいた。
「っ……旦那、こそ……随分、せっかちじゃ…ないスか」
感じたのか、男は一瞬声を上擦らせたが、すぐにいつもの調子を取り戻したようにみえた。 抱き込まれた体勢から首をねじって、器用にキスを仕掛けてくる。
だが、男の唇はこちらのそれを軽く掠めたのみで離れていくと、にっと見慣れた笑みに取って代わった。
「行きましょうぜ、ベッド。 オレの身体……診てくれるんでしょ?」
センセ。
そう、ふざけたウィンクでしなだれかかるのは、ひょっとして媚びのフリなのか。 はっきりと募るのは苛立ちだけで、可愛くもなければいじらしくもない。
…ないのに、おどけて自分を呼ぶ声の、舌足らずな響きとは裏腹の甘い艶に、滑稽なくらい煽られている。 その自覚ばかりは、ありすぎるほどにあった。
発端は何だったか、そして、いつだったのか。 今ではもう、それすら明確には思い出せないけれど。
成り行きで『義賊』の真似事を始めたばかりの頃か。 あの日も確か新月で、ただでさえ闇の密度の濃い夜を、分厚い雲がいっそう暗くしていたように記憶している。
折悪しく降り出した通り雨を一時凌ぐつもりで、空き家とおぼしき古い建物の軒下を借りていたら、信じがたい奇縁と鉢合わせた。
同様に雨に降られたらしく、ずぶ濡れで駆けてきた男が、事もあろうに我が家の玄関先へいつも不愉快な商談を持ち込んでくる、馴染みの借金取りだったのだ。
互いに驚愕のあまり、「あ」という顔のまま声もなく、きっかり数秒間見つめあい。
ふと我に返った男は慌てて、ごそごそと懐から鍵らしきものを引っ張り出し、
「……とりあえず、上がっていきます? ここ、借家ッスけど、屋根裏だけは一応オレん家なんで」
と、のたまった。
奇縁というより腐れ縁か。 その建物の屋根裏部屋は本当に男の名義だったようで、結局、雨が止むまで失礼させてもらった。 通り雨と思った土砂降りはなかなかにしぶとく、時間潰しと雨宿りの礼を兼ねて、あまり体調が芳しくなく見えた男を診察してやった。
それだけの些末。 ごくごく単純な、いつもの触診で終わるはず…、だった。
はじめに誘いをかけてきたのは男のほうだ。 だが、それはきっと日頃の悪趣味な冗談の範囲を出てはおらず、いつもの己ならば、唾棄すべき戯言として相手にもしなかったろう。
…あのとき何故、あれほどの情欲が発作的に……まさに発作的としか呼べない唐突さで沸き起こったのか。
自分自身、いまだ図りかねている。 その夜はたまたま思っていた以上に気が昂ぶっていたのか、はたまた、よほど人肌に飢えてでもいたのか。
世界を閉ざすような激しい雨に物音はどうせかき消されるからと、肉体はあっけなく、しがらみを放棄し。
―――衝動のままに喰らった躯は、感じたこともないほどの熱さで。
理性ごとその熱に熔かし尽くされてしまったに違いない、と思うのはたいそう勝手な責任転嫁なのだろうが。
それからは月に一回程度の頻度で、なんとなくふらりと、この屋根裏部屋の住人の『回診』に訪れていた。
重病を抱えた患者でもなく、しかも己の風体は黒ずくめの『義賊』。
回診もへったくれもないものだが、他にどう言えばここへ通う建前になろうかと苦笑するしかない。 それでも、今やこの関係が自分にとり、そしておそらくは男にとっても心地よく、手離せないものとなっていた。 道楽の合間に立ち寄っては、常に絶えない男の身体中のほころびに薬を塗ってやり、…ときに戯れのように肌を合わせる。 如何とも名づけがたい、この曖昧な関係。
時は新月の晩、昨日と明日の狭間ごろの夜更け。 所は古びた屋根裏部屋。
暗黙の了解だけが、落ち合うためのよすがだった。
「……相変わらず、いいご趣味をしているらしいな。 お前の主人は」
半分は呆れ。 …半分は、理由の定まらぬ不快。 溜息をひとつ吐いたら、苦い悪態も一緒くたに転がり落ちた。
男はうっすらと相好を崩して、これも仕事の一環ですからね。 と、事も無げにうそぶいてみせた。 虚勢なのか、本心から何とも感じていないだけか。
枕に半ば埋もれた声はくぐもって、男の感情を読ませるには少しばかり、足りない。
いつ見ても痛々しい生傷だらけの肌は、しかしよくよく見れば毎回、傷が増減と移動とを繰り返していることに気付いたのは数えて三度目の『診察』の時だったろうか。
旧い傷が癒えるたび、…時には癒える間すら置かず、新たな傷がいくつも重ねられていく。 そんな異常さえ、日常として気にも留めない世界に生きる身体。
―――胸を塞ぐ黒い不快は、この身体にそれを強いている者に対してか。 あるいは、困ったような苦笑と共にそれを許容している男本人に対して、なのか。
生憎と自分でも判断つきかねて、深く考えるのはやめた。 今は手を動かすことに集中するほうが、よほど建設的というものだろう。
軽い消毒処置の後、チェアの背にかけたマントの裏打ちの奥を探り、あるものを取り出す。
ごく最近から医療器具とは別に忍ばせるようになったもの。 それは、スミレの葉を原料とする精油だった。
鎮静・殺菌作用に優れ、皮膚の創傷や炎症を抑える効果も期待できるらしいと、かつての職場では少しばかり持てはやされていたものだ。
もっとも、男には馴染みがなかったのか、初めのうちこそ戸惑いを見せていたが、最近では特に躊躇もなく肌を任すようになった。 この精油を薬代わりに男の全身に塗ってやるのが、ここ何回かの日課…ならぬ「月課」となっている。
ベッドにうつぶせた男の背中へ、深緑色の液体を塗り広げてゆく。 首筋から肩、腕、指先……と傷の見当たる限り、隈なく。
中には打撲の痣や鞭打ちによる傷とは明らかに違う、薄紅の小さな跡もおびただしく散っており、それらを掠めるたび、男の肌がぴくりとさざめいた。
「……ん、…」
跡のついた箇所はおそらく、感じやすい部分なのだろう。 その上へ意図的に刻み込まれた、無数の所有印。
わざと執拗に指先をなすりつけてやれば、切なく洩れる吐息が温度を増した。 ほのかに浮き始めた汗が精油と交じり合い、匂い立つような艶をおびる。
熟れすぎた果実や枯れ草に似た、甘たるく繊細で、ドライな芳香。
常にどこか頽廃的な淫靡を巻き散らかしている男そのもののようで、妙にしっくり似合っていると感じた。
「……っ最近、…ねぇ」
とっくに触診の域など通り過ぎ、脚の内側をなぞり出している手から意識を紛らわそうとでもしてか、男は息を上げながらも、あくまで薄笑いと平静な声を取り繕ってみせる。
「『お勤め』のたんびに、…ッ叱られ、るんスよ。 …感度が、悪い、とかって……」
「…これでか?」
精油で濡れそぼった片手を胸の方へ滑り込ませると、男の身体がひときわ大きく跳ねた。
―――そういえば、乳首のヒビを癒す効能もあるとかいう話だったか。 …などと言い訳にもならない豆知識をまたひとつ思い出して、捏ねくるように潤いと刺激を加えてやる。
男はふるふるとかぶりを振って身悶え、嬌めいた喘ぎと声で、それでも会話を試みた。
「ふァ…ッぁ……い、まはもう、旦那、しか…。 …旦那で、なきゃ、オレ……っ」
感じない。 達けない。 溺れ、られない―――。
熱っぽい瞳にそう告げられているような感覚に、興奮がざわつく。 男の下肢に這わせていた指で後ろの窄まりを探り当てるや、精油の滑りをいいことに、一気に三本ほど捻じ込んでやった。
一瞬、男はびくりと竦みあがったが、連動してきつく締まったのは入り口の付近だけで、中は意外なほど柔らかく蕩けていた。
事前にどこぞで男を銜え込んできたか。 それとも今宵、自分との房事に備えて、風呂場でみずから耽ってでもいたのか。 …どちらにせよ、想像すれば己の欲望はいっそう猛りを増すだけなのだから、世話はない。
「…ん、く……、…は、ぁっ、…ッ」
卑猥な水音とともに、閉ざされた闇を濃密に濡らしてゆく、切れ切れの声。
圧し拡げるようにぐるりと奥をかき混ぜてやれば、それは悲鳴じみて高くなり、浅黒い背をしならせた。
ずくり、と。
本能的な渇きに酷似した衝動を、脳が訴えてくる。
少し前に王宮医師の職を退いてからはずっと研究室に篭もりきりで、熱を発散させる機会らしい機会もない。
先の新月の晩から、丸一ヶ月。 溜まりに溜まった欲望が、生半可な理性で抑えの効くはずもなかった。
「……ンぁっ、…ッあ…ぁ……!」
緩やかに悦楽と泳ぎ続ける細腰を捕らえて、抽き出した指と入れ替わりに自身を押し当て。
ゆっくりと襞の中へ潜り込んでいくとすぐに、侵入を待ちわびていたかのような、熱い歓迎が食い締めてきた。
心地よさに陶然と眩暈を起こしそうになりながら、腰を引いてゆるゆると抜け出ては、また一息に奥まで貫く。 そうして発情しきったけだもののごとく、幾度でも交わりを繰り返してしまうのを止められなくて。
「ぅあ……っ、ぁあッ、…ん、ァッ、」
やがて境界をなくし、滅茶苦茶に溶けて混ざり合いはじめる、体温と体液と吐息と意識と。
だが心臓の芯までも溺れきるには、いつも疎ましいほどの『赤』が邪魔をした。
視界いっぱいに揺れる男の髪。 否が応にも目に入る、男の肉芽にまで刻み込まれた烙印のような傷たち。
髪に唇を寄せると、そんなところにも性感帯があるのか、小さくはない反応が返った。 続けて、精油をたっぷり吸わせた傷口のひとつひとつを辿る。
細かい痛みなど容易に快感とすり替えてしまえる男の身体は、真新しい生傷に舌を這わされても、ますます狂ったように善がり啼くばかりだった。
それにつけこんで闇雲に内奥を荒らし、全身の至るところを食んでは貪りつくす。
赤く爛れた別の男の影のすべて、…いっそそのからだのすべてを、闇色に塗り替えてしまえたなら。
暗闇の中でさえ色艶やかに咲く、緋色の華のような髪の一筋までも。
―――そうすれば、きっと……。
「……―――、」
昇りつめる寸前、日頃はけして呼ぶことのない男のファーストネームを、鼓膜へ注ぎ込んでやると。
極まったような嬌声とともに、肉襞がぐっと狭まった。 男の指先がシーツを千切らんばかりに握りしめる。
闇が、晴れた……と錯覚しかけたほどに白んだ刹那の中で。
己もまた、浮遊感に近い一瞬の解放に、酔った。
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