下世話ながら、スミレの葉の精油には、俗に言う媚薬の効果とやらも含まれているらしい。
 幾度か立て続けに熱を交わしあい、意識を飛ばした男の身体がぐったりとシーツに沈んだころ。 流石に情欲の渇きは充たされたものの、急激な運動で今度は物理的な水分の不足を自覚した。 カラカラの喉をなだめようと、傍らのチェストに放置されたままだった酒に手を伸ばした。
 グラスに注ぐのも億劫で、瓶に口をつけて直接胃へ流し込む。
 品行など構うものか。 どうせ誰が見ているわけでも、
「―――Parfait amour.」
 なし。 …と高をくくっていたが、どうやら甘かったらしい。 先刻気をやったものと思っていた男が、ベッドの上へ気だるげに四肢を投げ出したまま、乱れ髪の間からこちらを見上げていた。 揶揄するような声の端はわずかな掠れを残しているものの、呂律は存外しっかりしたもので、激しい情交にも慣れている事実を見せつけた。
「なんだかんだ言って、結構お気に召してくれたみたいじゃないスか。 それ」
「…パルフェ……なんだと?」
「パルフェタムール。 その酒の銘柄ですよ。 なんでも、愛を結ぶって触れ込みのリキュールなんだそうでさ…」
 クスクスと微笑う琥珀の瞳に、まだ少し悦楽の名残が溶けている。 精油のもたらす催淫と催眠、両方の作用にまどろんでいるのだろう。 オレにも一口…、と懲りもせずに巧みな秋波を投げかけてくるのを、理性で黙殺した。 ここで誘われるままに口移しなどしてやったら、十中八九再びなだれ込む羽目になって、日が昇るまでに屋敷へ戻れなくなってしまう。
 完全なる愛(パルフェタムール)。 …なるほどこのやたらと甘い口当たりは、この男の愛とやら、なわけか。

 今一度、深く呷ってからボトルごと男に返し、ベッドを抜け出した。 多少重さの残る手足を叱咤して、のろのろと身支度を始める。 男のほうでもこちらのそんな対応は予想の内だったのか、これといって未練がましいそぶりはなく、ベッドに寝転んだままで器用に瓶の中身の残りを飲み干していた。
 手早く着衣を整え、最後にチェアの背からマントを取り上げたとき。
 ぽと。 …と、何か軽いものが床に落ちる音がした。
 闇に慣れた目でそれを探って拾い上げた時、(ああ……そういえば)と唐突に思い至った。 夕刻、気まぐれに採取したのをすっかり忘れて、マントの内ポケットに突っ込んだままだったものだ。
 だから別にどう、というものでもなかったが……ふと、悪戯心めいた考えが頭をよぎって。
 ベッドの側に歩み寄ると、既に眠りへと意識を委ねかけている男の真上で、ばさりとマントを広げた。

 一瞬、闇を濃厚に染め上げる、甘くドライな芳香。

「………ぅん、…?」
 不意にぱらぱらと身体の上に降ってきた小さな感触と、その香りに揺り起こされたのだろう、男が目を開けた。 寝ぼけ眼でそれらのひとつを摘み上げ、くんと匂いを嗅ぐ仕草は妙に動物じみていて笑みを誘った。
「……花?」
「スミレだ。 …薬の調合に使うつもりで採ったやつだが、面倒になった。 お前にやる」
 この男には説明していないけれど、先ほど散々塗りたくった精油もスミレで。 そして今度は大本ときた。
 よほど自分はこの男をスミレ漬けにしたいらしい、と我ながらうすら寒い嗜好に内心嗤うしかない。

「……これを、オレ…に……?」
 よほど意外だったのだろう。 ぽかんと口を開けた間抜け面が、こちらの顔面と手元の小さな花とを交互に凝視している。 自分でも妙なことをした自覚はあったが、こうまであからさまに不審げな反応をされては、やはりいい気はしない。 いささか不機嫌に言葉を付け加えた。
「要らんなら、それはただのゴミだ。 適当に捨て置け」
「あ、…や、そんな滅相もない! せっかくの贈り物、ありがたく頂戴しますって!」
 男はようやく我に返ったように、散乱したスミレを慌ててかき集めた。 ベッドから身を乗り出し、床に落ちたものまでひとつずつ律儀に拾っている。 ―――暗がりの中でも一切よどみのない動きが、人並みはずれて闇に強いこの男の視力を、改めて雄弁に語っていた。

 ほどなく男の手の中にできあがったのは、こぢんまりとした濃紫の花束。
 どこか眩しげな、くすぐったそうな瞳でそれを眺めながら、男はくつくつと喉を鳴らす。
「紫のシャワーってのも、神秘的で素敵でしたけど。 オレとしちゃ、金色か銀色のが断然嬉しかったかなァ…」
「生憎、これでも一応『義賊』で通っている身の上なんでな。 悪党に施しはできまい?」
 らしい言い草につられて破顔しかけたのを誤魔化すように肩をそびやかせば、そいつぁ然り、と呟いた男の声もさらに笑みを深めた。

「……でもオレ、好きかも。 ―――この花」
 ぽつん、と。
 おどけた声色が不意に弱まり、独り言のように細い響き。 思わず振り返ると、男はこちらを見てはいなかった。 片方の手のひらの中にすっぽりと収まる、小さな小さなブーケ。 伏目がちに微笑んでそれを見つめる琥珀色の双眸は、まるで愛しむかのように優しい色を湛えて。
「夜空の色。 甘い香り。 ……気高くて、綺麗で」
 旦那みてぇ。
 そう、笑いながら、花びらに軽く唇を押し当てた男を。
 「気色悪い戯言はやめろ」と小突いてやれなかったのは、その笑顔が、その仕草が、吐息に近いその声が。
 あまりにも透明で、透明すぎて。 心を、ひどく躁がされたせい。



 悪魔は契約の相手として選ぶ人間を、魂の価値で判断するという。
 不本意ながらそれに選ばれてしまい、実際に契約まで取り交わした身ゆえに、か。 最近は、己にも見えるようになった気がする。 こうして対峙する人間の、魂の質ともいうべき色が。

 たとえば、この男の魂は。
 外皮こそ泥と腐臭と血の匂いを纏わりつかせて汚れているが、その本質は、完全なる無色といっていい。
 夜に生きる下賤、と自分を位置づけて蔑むくせに。 いっそこちらが呆れるほどに、濁りがないのだ。
 美しいと同時に傲慢な純白でも、ましてや、今の自分のような漆黒でもなく。
 …言うなれば、善悪のない幼子そのもののような。 ただただ真水のごとくに澄みわたった、透明な魂。

 しかし今、それと同じだけの鮮やかさで瞳に映るのは。
 この平らかで純朴な魂を、隅からじわりと蝕み始めている……仄暗い染みのような、影。


 (……人間、なのに)

 それを目にするたび、苦い思いが、胸に重く渦巻いた。
 この男は自分と違い、別に悪魔と契約など交わしたわけではない。 人倫にもとるように見える行いもすべて、生きるためのやむなき術であるのは、誰の目にも明らかで。
 ただ、悪魔を崇拝する者の手先として利用されているだけの―――何の力もない、普通の人間なのに。

 さながら月蝕のごとくに。 …或いは月を飲み込んだ、今宵の昏い空のごとくに。
 魂の輝きを覆い潰したとき、同時に闇色の影は、男のすべてを喰らいつくすだろう。


 その、生命までも。




 わかっている。
 本当はとうに、わかっているのだ。

 男の魂をおびやかす翳り。 まだ続くはずの生を理不尽に終焉へと引き寄せる、『影』の正体。
 それは―――この男を不器用に痛めつけながら愛する、血の色の瞳を持った狂人などではなく。


 執拗にスミレの香りを塗り込め、それでも飽き足らぬとばかりに、スミレの花をまぶして敷きつめて。
 男がふざけ半分に、しかし純粋な好意で差し出したパルフェタムールなどよりも、ずっと醜く浅ましい感情。

 果たしてその思惑どおりに、男の魂は徐々に染められつつあるのだ。
 スミレの色に。 己の色に。


 月を飲み込む影のような、闇色に。



 (気高くて、綺麗で………旦那みてぇ)

 どこまでも透明な笑顔が、目に痛かった。




「……旦那ぁ?」

 押し黙ったまま、唇を噛んで立ち尽くしている姿をいぶかしんだのだろう。
 不審と、かすかな不安とを滲ませた声に呼ばれて。 我に返った意識を、そのまま身体ごと男から背けた。


「……これきりだ。 もう、ここへは来ない」
 宣告というよりは、自分自身に言い聞かせる言葉。
 すでに何度目になるのか。 逢瀬の最後に決まって言い捨てては、同じ数だけ違えている、もはや何の意味も成さぬような約束。 これで終わりにしなければ。 幾度なく肌を合わせてきた今、わずかでもこの男に情を感じているのなら、…だからこそ、離れなければ。 頭では、とっくの昔に理解している。
 ……理解している。 のに、心は只、聞き分けの悪い子供のように喚く。 それでも手離したくないのだ…、と。
 唇の端が、かすかに引き攣れる感覚があった。 きっとそこは今、くだらない自嘲に歪んでいるのだろう。

 微笑とも溜息ともつかない、小さな吐息が背後で聞こえて。
 キシリ、とベッドの軋む音。 男がふらりと立ち上がる気配。

 こちらが身じろぐより、何を言うより早く、静かに抱きしめられた。 まだ火照りを残した腕が絡みつく。
 鼻腔を、体温を、胸を充たしてゆくのは、やさしく甘たるい―――闇色の、香り。

「……ねぇ、旦那。 オレが旦那に抱かれてる間、いつも考えてることを教えましょうか?」

 はなせ、の一言が喉奥でわだかまるうちに、抱擁はいっそうのこと強まって。


「―――旦那がもし魔物だったら、このまま身体ごと全部、旦那に捧げちまえるのになぁ……って。
 たとえば旦那の正体が吸血鬼なら、オレの血のすべてを。
 たとえば旦那の正体が人食いの魔狼なら、オレの肉のすべてを」

 そっと、タイの結び目に唇を押し当てられる感触。
 …ああ、この男もまた、おのが香りを残さんとしているのか。
 行き場のない熱を持て余し。 その名残だけでも、と。
 時が経てば薄れてしまう香りを、決して消えることない痕に変えて。 魂に、刻まんと。
 それは、男の躯にちらつく『赤』を剥いでスミレの色に塗り替えようとした自分に比べれば、随分と遠慮がちで可愛らしいとも呼べる行為だったけれど。


「たとえば旦那の正体が………人間の魂を喰らう悪魔の王、だとしても。 …ね?」


 冗談めかして微笑む言葉に、まるで動じなかったといえば嘘だ。
 …しかしそれ以上に、耳に心地よい声が空気なぞに溶けていってしまうのが惜しく、唇を重ねて直に味わった。


 この逢瀬の始まりは単に悦楽を分け合うことだけが目的で、感情はどこかへ打ち捨てられていたのに。
 いつの間にか、すっかり逆だ。 今この時さえ、身体が感情に曳きずられている。
 舌を深く絡め合わせて熱を食んでも、まだ足りない。 もっと感じたい、感じさせたい…、そう心の求めるままに。



 刹那。

 男の後方、黒々と拡がる闇が、ざわりと蠢いたような気がした。
 否、気のせいなどではなく。
 静寂の空気に潜んだ『何か』が、ひたと異形の眼をこちらに据えているのがわかる。
 いくら姿を部屋の暗さに溶かしていようとも、覚えのありすぎる気配でバレバレだ。 …或いはあの性悪のこと、意図的に気付かせているという線も充分ありうるが。

 あえてキスを続けながら、視線にぎろりと力を込めて睨み返す。
 一糸まとわぬ男の腰を引き寄せ、招かれざる客の不躾な目から覆い隠すようにマントの中へ抱き込んだのも、ささやかな牽制のうちだった。


 去ね。
 邪魔をするな。

 こいつの魂にだけは、一切の手出しを許さぬ。
 貴様にも、貴様の主とやらにも。 誰にも、だ。


 心の裡にこみあげるは、冷たく熱く、紫色の焔のごとくに。
 ―――愚かしいまでの、独占欲。




 今一度、目の前の閨へ…との誘惑をまだ振り切れるうちに、しなやかな裸身をそっと押し退け、踵を返した。
 来た時と同じように、斜めに設計された奇妙な窓を開け放つ。
 風をはらんで、ふわりと舞い広がるカーテンと夜色のマント。
 それは一瞬、室内にいる男の視界には、巨大な蝙蝠の翼がはためいたかのように映ったかもしれない。

「また来月……楽しみにしてますぜ。 今度はもう少ーしばかり、旦那を酔わせられるドリンクを用意して……ね」
 気だるげな笑いの混ざった声には振り返らぬまま、窓枠を乗り越え、闇へと身を躍らせた。






 夜霧のような小雨がパラついていた。 纏わりつく細かい水滴に、熱を吸われていく。 家に着く頃にはすっかり冷え切ってしまっているだろう。 それに安堵する気持ちと、惜しむ気持ちとが混在していて、またしても己自身に苦笑せざるを得なかった。
 そも新月の晩を選んで訪れていくあたり、すでに理性で歯止めが効く程度の執着でないことは確かだ。
 朔月―――すなわち新月は、魔なるモノどもの力の循環をゼロに戻し、この身に流れる呪われた血も一時的に鎮めてくれる。 今の自分が、確実に人間としての自我を保ったままであの男と褥を共にできるのは、新月の晩をおいて他にはないのだ。 なんとも皮肉で、情けないことに。

 ―――もっとも。 俺ももはや人というより、闇そのものと呼ぶ方が近い存在なんだろうがな。

 『人』たる男の運命を侵す闇。
 それが分かっていて尚、侵し続ける理由は単純明快だ。
 ……連れ去りたい、から。 こんなもどかしい関係で温めあわずとも、何者にも煩わされない世界へ。
 あの男が自分に向ける好意を人質に、自分はあの男の何もかもを奪おうとしている。

 苦くて甘い後悔のような情念に、全身を貫かれながら。
 きっと次の新月の晩にも、あの狭苦しい屋根裏部屋の窓を叩いているであろう、身勝手な己の姿を想像する。
 スミレの精油をたずさえて。 あるいはその原料もいくらか、戯れに摘んでは贈るのかもしれない。
 新月の闇に溶けてまぎれる、かの夜空色の花を。

 闇に生きる己と、夜に生きる彼奴の目にしか見えない、小さな小さな花を。
 二人だけの秘め事の中で。 何がしかの、誓いの儀式のように。



 「死が二人を別つまで」とはよく言ったものだが。
 死でさえも、今の自分とあの男とは別てまい。 遠からぬ未来、我々が行き着く先はきっと同じ地獄(ばしょ)だから。
 身勝手ついでの、そんな思案に意識を囚われていると、あの男の寄越したリキュールの、やたらと甘い後味がよみがえる気がした。


 (旦那の正体が………人間の魂を喰らう悪魔の王、だとしても)


 願わくば。
 すべてが終わり、そして始まるその時まで、おまえの覚悟が動かずにいてくれることを。

 

 

<Fin.>


 

後書きですー(*゚∀゚*)

新規ER第一期作品として書かせていただきましたゲオダシュss。垂海様とのコラボ作品でした。^^
第一期終了後、己サイトでうpするのをすっかり忘れておりまして…ご指摘ありがとうございました;>垂海さん

初めてゑろシーンもきっちり(一応)書けたゲオダシュということで、自分としても思い出深い作品です(笑)。
ストーリーや設定は拙宅の他の小説と繋がってませんので、ややスピンオフ的な位置づけになってます。

以下、ERサイトに展示させていただいてた時のコメント文。↓


ゲオダシュ…というか、ただならぬゲオ→ダッシュっぷりで自分でもビックリです(おい)。
垂海様の絵を拝見した時の第一印象が「夜空色のマント」でしたので、そこからイメージを構築して
思う存分ゲオダシュにして…(笑) という具合で。
垂海様の男前ゲオリクとセクシーダッシュの魅力あってこそ、思いきったゲオダシュにできたんだと思います。
素敵絵を長らく独り占めできて幸せでした。改めて御礼申し上げます!vV
(「屋根裏部屋」等の設定も垂海様のサイトの某作品から勝手に引用させて頂きました。すみません;)

私の小説に「香り」をモチーフにしたものが多いのは、私自身がアロマオイルに関心が強いせいかと。
余談ですが…旦那がダッシュに贈ったニオイスミレの花言葉は
「秘密の恋」(笑)

…って、ああ!!; 大事なこと書くの忘れてた!!
ダッシュが旦那に贈ったお酒「パルフェタムール」は、
スミレのリキュールです。
ご存じの方も多いとは思いますが、書いておかないと表題の意味がなくなる可能性が…(汗) すみません。;;



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