気付くとあの面影を追っている。
ともすれば眩暈にすら似た熱さで、『それ』は意識のすべてを絡めとる。
その姿を心の奥深く、深く、灼き付けるように。
片時も見失わないように。
戦慄に急き立てられて胸は騒ぐ。 千々に、そぞろに乱れゆく。
意味にも、理由にも、辿り着けず。 けれどその戦慄の、―――なんという甘やかな、充溢をもたらすことか。
例えば情動のおもむくまま、しなやかな温もりをこの腕に。
決して離すまいと、閉じ込めることができれば。
これまで馴染みのなかった熱が、俺を変えてゆくのだろう。
眩暈は、確かな予感を告げる。
そう………今はまだ、薄靄のごとくにおぼつかない感情でも。
Misty Dizziness.
「―――痛テッ!
…旦那ぁぁ、もちっと優しくお願いしますよぅ……」
「大の男が、この程度で情けない声を出すんじゃない。 …ほら、腕もう少し上げろ」
ぴしゃりと、一言のもとに懇願を退ける。
途端、しゅんと項垂れる犬のようなリアクションの単純さに、ついついつられて誘われかける笑みを堪えるべく、ゲオリクは先刻から何度も表情筋に力を込めていた。
うららかなる午後、天気も上々。 少し傾いてきた日差しは柔らかい。 小鳥のさえずり、微風のざわめき。
草木薫る森の奥、何とも清しい木漏れ陽に包まれて―――いったい、なにゆえにこの男と二人っきりなのだろう。
やれやれと内心ぼやきつつ、ゲオリクは軽い切り傷を負ったダッシュウッドに手当てを施してやっていた。
血を拭き取り、簡単な消毒をし、いつもマントの裏に持っている応急用の包帯を取り出して、腕の傷口に巻き始める。
「旦那の真剣な顔って、ホント綺麗だなぁ。 いつ見ても惚れ惚れしちまいますよ……」
「……黙ってろ」
気分屋の彼らしく、もうすっかり笑顔に戻ってしみじみと見つめてくる。
その緩みっぱなしの頬を一発はたいてやりたい衝動にかられながら、ゲオリクは今日に限ってここへ来た己の悪縁に深い溜息を零した。
―――そもそもの発端は、半刻ほど前にさかのぼる。
ゲオリクは王宮医師としての多忙な職務の合間をぬって、カーマゼン郊外から数時間ほど馬を飛ばした距離に位置する『嘆きの森』へと足を伸ばしていた。
ただし、今回は以前とは違い、旧友のミハエルやサンジェルマンらのような同伴者はいない。
というのも、興味本位の先立ったモンスター退治やら、息抜きがてらのピクニックやらといった遊び目的ではなく、―――また、少しばかり人目をはばかる野暮用というせいもあり。
端的に言えば、ハーブ採集であった。 首だけの状態で生きる妹の生命を維持するために、どうしても必要なのが、錬金術によって精製されるアクア・ウィータ。
先日、その材料のハーブのストックが底を付いてしまい、しかし錬金術禁止令の布かれた首都での入手はご法度である。
そこで、森に自生しているものを自ら採ってくるより他はなく、ゲオリクは先日来た際に密かに目星をつけておいた、手近な入手先へと再び赴いたわけだった。
役人の尋問をうまくパスして関所を抜け、愛馬を駆って目的地へと到着するまでは、特に問題はなかった。
生い茂る緑の中から使えそうなものを見繕い、無事に懐へ収めたときも、別段何事も起こらず、円滑に成せた目的に満足したゲオリクは、陽が沈む前に私邸へ戻って研究の続きをしよう…と森の出口へ向けて馬を進めていた。
事態が急変したのは、その帰り道の途中だった。
あと少しで森を出られるという付近に差し掛かったとき、招かれざる客と鉢合わせたのだ。 それも、大人数の。
見覚えのある、白いローブの集団―――最愛の妹を忌むべき魔女裁判にかけられた怨恨も新しい。
どこから尾けられていたものか、男たちは偶然を装うこともせず、「ゲオリク・ザベリスクだな?」と居丈高に詰問してきた。
「貴様に、異端審問会による逮捕状が出ている。 …おとなしく我々に同行すればよし、さもなくば……」
「……さもなくば、どうすると?」
シニカルな微笑にありったけの憎悪を込めて、ゲオリクは形ばかりの申し出を冷たく撥ね付けた。
おそらくは、元より生かして逃がすつもりなどない男たちは、待っていたかのように色めきたち、めいめいが武器を抜いて身構えた。
こうなればゲオリクにも、正当か否かはともかく防衛という理由ができる。
こんな下衆どもを、王宮勤めの立場に縛られて斬り捨てられないのは憤懣やるかたない―――かえって、ゲオリクには好都合ですらあった。
一触即発の空気が森を凍てつかせる。
が、それを破ったのはゲオリクの剣でもローブの集団の兇刃でもなく、突然の珍客の乱入だった。
「―――ちょっと待った! 待った待ったァ!!」
がさがさと荒っぽく草木の間をすり抜ける蹄の音―――獣道をものともせずに馬を走らせてきた一人の男が、勢いのままにローブの男たちを蹴散らし、その場へ突っ込んできたのだ。
「…うわッ、と……伏せて!!」
手綱を引いた程度では加速が殺せなかったらしい。
言われるまでもなく瞬時に馬を飛び降り、身を屈めたゲオリクの頭上すれすれを、栗毛の馬はかろうじて跳躍でやり過ごす。
それでも止まらず茂みにダイブし、気の毒な植物を滅茶苦茶になぎ倒し、凄まじいいななきが天を突くに至ったのち、ようやくのこと暴走は収まった。
「……ふぅ、間に合った……いやぁ、お久しぶりですゲオリクの旦那。 驚かせてすみませんね」
「………ダッシュ、ウッド…」
どんな身体能力を保持しているのか、驚異のバランス感覚で落馬を凌いでみせた男は、未だ興奮状態の馬を宥めつつ、愛想良くゲオリクに挨拶した。
―――いつもながら、人騒がせ極まりない。
迷惑な来訪者ばかり増える日だ…、と頭を抱えたくなるゲオリクを背にして、赤銅色の髪の男はローブの集団の前へ、立ちはだかるかのように馬に乗ったまま、場を取り成す口調で喋り始めた。
「や、お楽しみのところ邪魔しちまって悪ィなぁ。 こちらの色男の旦那は、オレの大事なお客人でね。
すまねぇがあんたら、ここはひとつオレに免じて、その物騒な銀光りをしまってくれねぇかな。
これでも平和主義なんだ、刃傷沙汰はなるべく勘弁してほしいのよ」
な? と人懐っこい笑顔を向けられて、男たちがざわざわと顔を見合わせる。 一悶着はそこで、収拾が付くかに見えた―――のであるが。
「……貴様、何者だ?」
「…へ? オレは……」
「ゲオリク・ザベリスクの手の者か!」
喚いた法衣の一人の手から、突如、投げナイフが一閃した。
咄嗟に身を躱そうとしたダッシュウッドだったが、馬上の不安定さが災いして完全には避けきれず、刃は彼の左腕を浅く掠める。
「痛ッ…! ―――ンの、クソ野郎が!!」
堪忍袋の緒が切れたとばかりに、ダッシュウッドは腰の得物を捌いた。 空を裂く蛇(のごとく襲いかかる鞭は、あやまたず粗忽者の顔面を打ち据える。
白い集団に悲鳴とどよめきが広がった。
「このくそったれども、揃いも揃って新入りかよ、あぁ!? オレはれっきとした“地獄の火”の一員だっての!!
そこの旦那に今みてぇな真似してみやがれ、てめえら、五体満足で帰れると思うなよ!!」
「…ッ、し、しかしその男は…!」
「……ああ、言っとくがこの仕事はオレの管轄だ。 つまんねぇ横ヤリは遠慮した方が身のためだぜ」
不穏にトーンの落ちたダッシュウッドの声は、これ以上余計なことを喋るな、との有無を言わさぬ響きを帯びていた。
食って掛かろうとした初老の男は出鼻をくじかれ、生意気な小僧め…と忌々しそうに睨めつけながらも、不利を悟ったのか、周囲の同胞へ退却の合図を出した。
「……こたびの件は、きっちり上に報告させてもらうぞ」
「密告(ってか、怖いねぇ。 せいぜい組織内で孤立しねぇよう、身の振り方に気をつけますわ」
脅しにもさしたる動揺を見せず、ひらひらと手を振って見送りのジェスチャーをするダッシュウッド。
やがて法衣の後ろ姿が完全に木々の向こうへ消えるまで、ゲオリクは一連の成り行きを無言で凝視していた。
「さてと……とんだ騒ぎに巻き込んじまってすみません、旦那。 怪我とかは……ないみたいですね、良かった」
身軽に馬を飛び降りたダッシュウッドの、気遣わしげな笑顔が近づいてくる。
それにはあえて応えず、また、何故貴様がここにいる、とも訊かずに、ゲオリクはずっと押し黙っていた口を開くと、低い声で詰め寄った。
「……あの連中と貴様は……グルなのか」
―――リリスを襲った、白いローブの集団。
返答如何によっては……という敵意むき出しの、今にも剣の柄へ手を伸ばしそうなゲオリクの冷徹きわまる眼差しに、ダッシュウッドは面食らった表情で心外だと首を振った。
「とんでもない。 あいつらとは仕事の関係上、行動を共にすることがあるだけで、個人的には何の関わりもありゃしませんよ。
大体オレぁ、大勢でツルむのは性に合いませんのでね。 できればあんまり面も拝みたくねえ、いけ好かねえ連中ですよ。
血の気は多いわ、何考えてんのかさっぱりだわ」
むくれたように呟きながら、かすかに赤く滲んだ傷口を舐めようとした。 が、肘に近い位置のためか、どうやら舌が届かないらしい。
諦めて鐙(に足を掛けたダッシュウッドは、再び馬の背へ跨りざま、この近くに水場はないかとゲオリクに問うた。
刺々しい瞳のまま、沈黙を守るゲオリク。 それに男は困ったような苦笑と会釈を寄越すと、「それじゃあ旦那、お気をつけて……」と暇を告げ、馬の頭を森の深みへ向けて歩き出す。
「………。 そっちじゃない。 向こうだ、ついて来い」
「…え?」
溜息交じりの声にきょとんとして振り返る男の視界に、愛馬に飛び乗ったゲオリクが、ダッシュウッドの向かおうとする先とは異なった方角へ進み始めるところが映った。
「…怪我をしたのは、お前の方だろう。 手当てしてやる。 さっさとついて来い」
「……え……えぇ!?」
背中で驚愕の叫びが聞こえる。 無愛想な後ろ姿を向けたまま、ゲオリクはローブの男たちと対峙していた先刻のダッシュウッドの、怒りに満ちた横顔を思い起こしていた。
―――ぶつけたい文句は山ほどある。 あんな逃げ口上じみた言い分を、全面的に信じたわけでもない。
だが、例えこいつがあの連中の一味であれ、…この自分を庇い立てて傷を負った。 それだけは、事実だから。
「…ま、マジですかぃ…? 本当にいいんですか? 旦那、帰り道だったんじゃあ……」
「つべこべ言うな。 手当てして欲しいのか、欲しくないのか、どっちだ」
「そ、そりゃぁして欲しいに決まってますって!!」
おろおろしつつもダッシュウッドは、降って沸いた幸運に歓びを隠しきれない声色だ。
「…でも旦那自ら、わざわざオレの手当てしてくれるだなんて……。
うわぁ……どうしよオレ、心の準備が……」
「お前みたいな胡散臭い奴相手に、借りを作るのがまっぴらなだけだ。 妙な勘違いはするな」
冷たく釘を刺しておいたが、もはや感動の面持ちで悦に浸っている男の耳には届いていないようだ。
ゲオリクは軽い溜息をつくと、どうせついて来るであろう患者はその場に放置し、森の奥の泉を目指してかぽかぽと馬を歩かせるのだった。
―――かくして、今の数奇な状況に至る。
幸いダッシュウッドの怪我は大した深手でもなく、泉に到着して傷口を洗い流した頃には、出血もあらかた止まっていた。
悪運の強い奴だと肩を竦めてやれば、「そりゃ、旦那が見守っててくださったからでさぁ」とか何とか、理解に苦しむ主張を返され、ゲオリクの呆れはますますもって募る一方だった。
「へへ……それにしても今日はラッキーだったなァ、旦那直々の手厚い看護が受けられるなんて。
たまには怪我もいいもんですねぇ」
いつでも生傷の絶えない奴が何を言っている、と揚げ足を取るのはやめておいた。
そんな老婆心を見せれば、調子のいいこの男はここぞとばかりに目なんぞ潤ませて、「気付いてたんなら、手当てしてくださいよぅ。
医者が患者を選ぶんですか?」と、仔犬よろしく擦り寄ってくるに決まっている。
長い睫毛の奥の瞳を医師のそれに戻して、ゲオリクは黙々と患部を包帯で巻いていく。
…時折、物欲しそうに患者が黒髪の房に指を絡めてきたりするのを、きつい目線で制しながら。
「…ほら、終わったぞ。 とっとと離れろ」
どうもすみませんねぇ、とそれはそれは感激もあらわに礼を述べるダッシュウッドの、躾の悪い手を肩からすげなく払い落とすと、ゲオリクはもう用はないとばかりに踵を返した。
当然、背を向けて一歩踏み出すよりも早く、微笑む男に片手をやんわり取られて、捕まったが。
「相変わらず、つれねぇお人だなァ。 どうせ旦那の行き先もカーマゼンでしょ? 一緒に帰りましょうぜ。 手当てのお礼もしたいですし……」
「いらん。 それより、気色悪いからくっつくな。 …先に忠告しておいてやるが、こんなところで悪ふざけは程々にしろよ。 怪我人だろうが、遠慮なく殴るぞ」
既に口説きモード全開の甘い囁きとともに肩を抱き寄せられて、ゲオリクの眼光がいよいよ険しくなる。
「へいへい…旦那はシャイなんですねぇ。 『こんなところ』がお嫌なら、せっかくだし、どうです?
今夜は旅すがら宿でも借りて、続きはそこでゆっくり………痛テッッ!!」
結局、遠慮のない拳骨の洗礼をその頭上で受け止める羽目になるダッシュウッドだった。
*****************************************************
「…ついて来るなと言ってるだろう!」
「だからァ、向かう先が同じじゃ仕方ないんですって。 そう邪険にしないでくださいよ〜」
泉を後にして、本日二度目の帰路。
肩越しに睨みをきかせてみても、もはや慣れっこらしい男はどこ吹く風で、とことこゲオリクの後を追従してくる。ゲオリクとともに歩く時間が楽しくてたまらないらしく、やれ立派な馬ですねぇ、だの、研究の方は軌道に乗ってきました?
だのと、どうでもいいような世間話からゲオリクの身辺の話題まで、相手の返答の有無にもこだわらずひたすらにこやかに喋り続けながら。
―――まったく頭が下がる神経の太さだ、とゲオリクはうんざり嘆息する。 これだから、この男と一緒にいるのは疲れるのだ。
今すぐ置き去りにして馬を飛ばしたい気分でいっぱいだったが、この鬱蒼たる森の中ではそれも叶わない。
どうしたものかとゲオリクが頭を悩ませていると、流石に無視がこたえてきたのか、一方的な雑談を切り上げたダッシュウッドの苦笑する気配が漂った。
「奥手だなぁ、ホント………あ、そうだ旦那。 こういうのはどうです?」
「……今度はなんだ」
不意に悪戯を思いついた子供のように双眸を輝かせ、ダッシュウッドは森の出口の方角を指差して、胡乱げなゲオリクの眼差しをそちらへ向けさせる。
「旦那も日暮れ前には首都に着きたいクチでしょう。 森さえ抜けりゃあ後は野っ原ですから、どうせなら早駆けで一勝負といきませんか?
旦那がオレを撒けたら、もう追っかけません。 …その代わり、もしオレが旦那を抜かせたら、きっちりお屋敷までお送りさせていただくってことで。
どうスか?」
「……そいつはまた随分と、お前に有利な条件だな……」
持ちかけられたその案を検証する限り、ダッシュウッドは別にゲオリクの馬を追い抜かなくとも、ぴたりと並走か追走さえすれば、結局はカーマゼンまで同道できることになる。
はなはだ無意味な勝負だ。
もっとも、この男にしてみれば重要なのはゲオリクと少しでも共にいられる方法であって、早駆けの優劣など端からどうでもいいのだろう。
目的のためには手段を選ばないこいつらしい。
―――なめられたもんだな……。
この上なく楽しんでいるに違いない男の瞳を、しばしゲオリクは睨み返した。 まさか、オレごときに勝つ自信がないわけじゃありませんよね?
と、余裕の琥珀色がありありと物語っている。
…安い挑発とは分かっているが、嫌になるほど分かりきっているが、―――それでも、癇に障るものは障るのだ。
「……いいだろう、乗ってやる。 その悪条件も、今回だけは手負いの誰かに花を持たせてやろう」
「そうこなくっちゃ。 しかもご親切にハンデまで、いやぁ、嬉しいお気遣いをどうも」
ありがたく全力出させてもらっちゃいますよ?
望むところだ、と言葉のスパーリングを繰り広げながら、いよいよ前を歩くゲオリクの馬の鼻先が、森と荒野との境界の手前まで差し掛かる。 ―――と、
「…行けっ、ラビカン!!」
視界を遮る最後の木の横を通り過ぎた刹那、ゲオリクはふっと笑うと、いきなり愛馬にスタートを切らせた。
「―――あぁッ! ひ、卑怯ッスよ旦那ァ!!」
「馬ー鹿! 誰が、正々堂々と勝負すると言った!」
フライングで出し抜かれたダッシュウッドの抗議の声に、してやったりとゲオリクは振り返って叫んだ。 悔しかったら抜いてみろ!
と言わんばかりに意地の悪い笑顔を残し、巧みな手綱さばきでみるみる距離を開けてゆく。
―――ついぞ拝んだことのない、満面の笑み。 放心したかのように男は数瞬、どんどん遠ざかる馬影を眺めていたが、
「……くっそ、上等ですぜ!」
やがて破顔一笑、馬の腹へ拍車をくれて猛然と追走し始めた。
|