薄暮の黄金色に色づき始めた荒野を、烈風のごとく疾走する二つの影。
先頭を行くゲオリクは、うっかりすると容赦なく叩きつける風に持っていかれそうな帽子を押さえながら、目的の方向を鋭く見据えていた眼を、一瞬だけ背後へと向ける。
まんまと出遅らせてやったはずの男は、既にその表情がうっすらと目で捉えられるまでの後方につけていた。 その距離、およそ十馬身ほど。
このペースでいくと、リードを覆されてしまうのも時間の問題だろう。
ゲオリクと目が合った瞬間、ダッシュウッドが何か叫んだように見えた。
蹄の音にかき消されてこちらの耳まで届かなかったが、その上気した頬から察するに、どうせろくでもない牽制か揶揄に違いない。
―――…ふん……思ったより速いじゃないか、こいつ。
少なからず侮っていただけに、こうなれば子供じみた意地がむくむくと頭をもたげてくる。 絶対に抜かせてやるものか。
手綱を強く握り直すと、ゲオリクは前方へ神経を集中させた。
だが、…その口元には無意識の微笑があった。 諸々の雑念を振り払い、ただただ純真に貪欲に前を見つめ、走り抜く爽快感。
こんな感覚は、とても久しぶりだ。 …考えることのあまりにも多すぎた、ここ最近の鬱屈を吹き飛ばすほど……それは純粋に、楽しくて。
たまには、こういう時間も悪くない。
いつの間にやら状況を満喫している自身に気付かずに、ゲオリクはひたすら愛馬を飛ばし続けた。
―――後ろを追走してくる男を、暗澹とした異変の影が襲うまで。
(……?)
森を後にしてから、三十分ほど馬を走らせた頃だろうか。 ゲオリクはふと背後に違和感を感じ、手綱を引いて馬の速度を緩めた。
一定のリズムでついて来ていた蹄の音が、急に途絶えたのだ。 今まで距離を詰めていたのに、まさか撒いたのか?
と懐疑の思いで振り返れば、遠くにダッシュウッドを乗せた栗色の馬が止まっていた。
その姿に目を凝らしたゲオリクは怪訝を深める。 男はその場に立ち往生したまま、ぴくりとも動かないのだ。
潅木すらまばらな見晴らしのいい平原で、行く手を阻む障害物などどこにもないにも関わらず、再び走り出そうとしない。
どうしたのだろうと様子を窺おうにも、顔が深く俯いているために表情は見えなかった。
―――……もしかすると、作戦か?
先駆けるこちらを油断させて、一気に追い抜こうという魂胆だろうか。
あの男の性格からして充分にありえそうな考えが意識を掠め、その手は食わないと再び手綱を握りかけたが、…どうも、気になって出発できない。
ゲオリクはもう一度振り返り、じっと観察してみたが、やはり動く気配は感じられなかった。
―――…まあ、いいさ。 こちらも一杯食わせてやったんだ。 罠だとしても、また抜き返してやればいい。
俺も大分ヤキが回ったかな、と苦笑しながら、ゲオリクはラビカンに指示し、男の下へと進路を引き返させた。
「どうした、カーマゼンはまだまだ先だぞ。 早々に降参か?」
カツカツと蹄を鳴らして栗毛の馬に近づいていったゲオリクは、徐々に男の常ならぬ気配が把握できるにつれ、揶揄いに満ちた微笑をにわかに引っ込めた。
精彩を欠いた頬や額にびっしりと冷汗を浮かせて、ダッシュウッドは苦痛を堪えるかのようにじっと俯いていた。 ひどく息が上がっている。
遠乗りの疲労というには若干度を越した様相に、呼びかけるゲオリクの声色が微かな労わりを帯びた。
「…ダッシュウッド。 まさか、傷が痛むのか…?」
「……旦那……いえ、…へへ……」
馬を並べて止まったゲオリクに眉をひそめられ、ダッシュウッドは顔を上げ、力なく微笑んでみせた。
喘ぐ肩をなんとか抑えようとでもするかのように苦心しながら、切れ切れの声を発する。
「…怪我は、…もう、何とも…ねえんスけど。 ……なんか、急に…暗くなっ…て来やしたし、…休憩しません? 月が……出るの、…待、ちましょうぜ。
夜道の早駆け、は…危険……ですから…」
―――冗談を言っているようには、聞こえない。
ゲオリクの渋面がいっそう濃くなった。 言い知れぬ不安のような靄が、心に影を落とし始める。
「……何を……言っている? 今は夕刻だぞ。 陽もまだ高い……明るいじゃないか」
「…え…? だって、…真っ暗で………あ、…れ?」
男は幾度かかぶりを振り、睫毛をしばたいた。 それでも違和感が消えないのか、ごしごしと目を擦る。
「……ダッシュウッド?」
「…あ、れ……変、だな、…オレ、…夜目利くはず、なのに。 ……さっきから、全然…旦那が……見え………」
ぐらり、と、不意に大きく世界が傾ぐ。 急速に遠ざかる、感覚。
その中でダッシュウッドは、聞いたこともないほど切羽詰まった声に、遠くで名を呼ばれた気がした―――。
「―――ダッシュウッドッ!!」
馬上から崩れ落ちる男を、咄嗟に支えようと伸ばした腕はわずかに遅く、後ろの襟首だけをかろうじて掴む。
落馬の衝撃は半分ほどしか吸収しきれなかったが、それすら間に合わなければ、ダッシュウッドは固い土壌へ側頭部をまともに打ちつけていたはずだった。
慌てて馬を飛び降り、抱き起こすと、腕の中の男は既に完全に意識を失っていた。 服越しに伝わる身体の熱さと脈の速さにゲオリクは息を呑む。
これは、乗馬による運動効果などでは絶対にない。
異常な発汗、体温・脈拍の上昇、そして視界の収縮―――これは……。
(……しまった……毒か!)
心当たりにはすぐに行き着いて、ゲオリクは思わず歯噛みした。
―――あのローブの集団は自分を殺す気だったはず。 刃に猛毒が塗布されていた可能性を、どうして今まで失念していたのか。
…否、軽傷を甘く見て消毒をないがしろにした自分が悪い。 医師として重大な過失だ。
傷口から血を吸い出してやるべきか、との考えが一瞬よぎったが、今からそんなことをしても、既に身体の奥を巡り始めた毒は抜けまい。
無理な運動が急激に負担となり、遅効性だったに違いない毒の回りを早めたのかもしれないが……おそらくはダッシュウッド本人も気付いていなかったのだろう。
医者の自分が一緒にいながら、自ら命を縮めるような真似をさせてしまったのか。 なんという愚かな……!
苦い思いでゲオリクは、先刻巻いてやった包帯をもどかしげに外すと、傷口を短剣の刃で浅く裂いた。
少しでも毒が体外へ流れ出るように、故意に傷は縛らずにおく。
そして、ぐったりしているダッシュウッドを自分の馬の背に乗せ、彼が乗っていた栗毛の馬の手綱を解いた。
どうせ辻馬か何かだろうとは思うが、ここに放っておくのも気が引けて、先に主人の下へ帰るように、と言い聞かせて荒野へ放す。
「…すまないな、ラビカン。 かさばる荷物が増えた上に飛ばすことになるが、我慢してくれ」
愛馬を気遣いながらその背へ跨ったゲオリクは、雑言とは裏腹にそっとダッシュウッドの身体を懐に抱き、馬の腹を蹴って全速力で駆け出した。
浅い呼吸を繰り返す男は、かたかたと小刻みに四肢を震わせている。
時間と共に体温のいや増す身体には、勢いよく肌に当たる風が冷たく、耐えがたいのだろう。 一刻も早く薬を飲ませてやらなければ……命に関わる。
ダッシュウッドと死。 想像だに結びつかなかったそのフレーズが、なぜか底冷えのするような恐怖をもたらす。
―――……死なれて、たまるか。 こんなところで……こんな形で……!
ゲオリクは血に汚れるのもいとわず、守るようにその身体をマントに包むと、抱き締める腕に力を込めた。
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畢竟、数時間にわたって馬を駆り、ようやく首都の入り口が見えた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
例によって立ち塞がろうとした関所の役人に「急患連れだ!!」と一喝して道を開けさせ、そのまま屋敷へと直行すると、愛馬への労いもそこそこにダッシュウッドを抱え、もどかしく鍵を回して玄関へ飛び込んだ。
「うわっ! …お、お帰り、ゲオリク。 どうし……」
「話は後だ、今すぐ氷水とタオルの用意を。 急いでくれ!」
呼び鈴を鳴らす時間も惜しんで駆け込んできた家主に、部屋を掃除していた使用人の少年は面食らいつつも、ゲオリクの厳しい表情に一刻を争う状況を悟ったのか、無言で頷いて厨房の方へと走っていく。
「それと、研究室の鍵を開けておいてくれ! この男をベッドへ運んだら、すぐに薬の調合に取りかかる!」
「わかった!」
廊下のティモシーの背へ畳みかけるように叫びながら、ゲオリクは大股で階段を駆け上がると、二階のもっとも手近な客室のドアを蹴飛ばす勢いで開き、窓際に備えつけられた寝台に患者をそっと横たえた。
カーテン越しに差し込む、あえかな月明かりの下ですら、その苦悶の表情が見て取れる。
背筋を伝う嫌な汗に顔をしかめつつ、ゲオリクはダッシュウッドの身体に毛布と羽根布団を掛けてやると、
「……すぐ薬を作ってきてやる。 それまで……絶対、生きてろよ」
汗で頬にまとわりつく男の髪をかき上げ、訴えるように耳元へ低く囁いてから、足早に部屋を出た。
研究室へ向かう途中、水を張った桶を抱えて階段を上がってきた少年に「悪いが、あいつの看護を頼む」と言い含めて。
「―――ティモシー、ダッシュウッドの容態はどうだ?」
「…あ、ゲオリク! それが……」
半刻ほど後、完成したての解毒剤を手に戻ってきた主人へ、絞ったタオルで患者の額を拭ってやっていた少年は、待ちかねたような瞳を上げた。
「……腕の怪我の方は、とりあえず、おれが持ってたアクア・ウィータの残りで塞いだんだけどさ。 …毒がかなり回っちゃってるみたいで、熱が引かないんだ。
早いとこ、解毒剤飲ませないと……」
「分かっている。 …ご苦労だった、後は俺がやろう」
機転の働くティモシーの対応に感謝しながら、ゲオリクはベッドに横たわる男の顔を覗き込む。
アクア・ウィータの効能だろうか、先刻よりは顔色に幾らか回復の兆候が見られたが、まだ峠を越しているとはいえない状態だ。
ゲオリクは手の中の、薄いオリーブ色の薬の収められた細いガラス器具の蓋を外した。
―――ここの所、ずっと錬金術の研究にばかりかまけていて、本業の一環であるはずの薬草の調合は正直、かなり勘が鈍っていた。
万一のことがあるかもしれない。 …そのときは―――透明な管を握り締めて、ゲオリクは腹をくくる。
「……おい、いつまでいるつもりだ。 …そろそろ気を遣ってくれないか」
傍らで固唾を呑んで見守っていた少年は、バツの悪そうなゲオリクの溜息に一瞬きょとんとしたが、すぐに合点がいった顔になって、「ああ、ごめんごめん」と緊張をそがれたように笑いながらその場を離れた。
ドアの向こうに小柄な姿を消す直前、ティモシーは一度振り向いて、「でも、ゲオリク……」と主人を見上げる。
「そいつって確か、こないだの嫌味なオジサンだよね。 …ちょっと意外だったなぁ。 ゲオリクがそこまでして…」
「俺だって本当は不本意だ。 だが、今回は……少しばかり訳ありでな。 他意はない」
「ふぅん……」
仔猫に似た双眸に、どこか思うところありげな、大人びた含み笑いを宿した少年はそのまま階下へ去ってゆく。
意味深な素振りは気になったものの、今はそれどころではない。 即座に頭を切り替えて、ゲオリクは患者の方へ向き直った。
上気した男の顔と解毒剤とに、交互に視線を落とす。
先ほどの、医師としての覚悟とは異なる、刹那の躊躇い。 ……しかし、迷っていられる猶予はなかった。
―――……今、もし起きやがったら………殺すからな。
せめてもの、苦しまぎれの悪あがきのように、先刻の言葉と矛盾する悪言を胸に抱いて。
ゲオリクは一息に薬を口に含むと、苦しげな呼吸を紡ぐダッシュウッドの唇に、重ねた。
「………ん……」
噎せさせないよう、ゆっくりと液体を口内へ流し込んでいく。 ―――感じる息遣いと、唇が焼けそうに熱い。
男の顎を僅かに持ち上げ、こくん……と最後の雫を喉が嚥下するのを確かめてから、ゲオリクは唇を離した。
後は己の腕を信じて、薬の効果を待つばかりだ。
一息ついて、ゲオリクが温くなった水を替えさせてこようと、桶に手を伸ばした……そのとき。
「……、……」
ほとんど声を成さない呟きが、かすかに聞こえた。 瞠目するゲオリクの、上着の裾をしっかりと握っている手。
起きたのか、と思いかけたが、瞼は相変わらず閉じられたままだった。 弱った身体と心が、無意識の中で温もりに縋りついたのだろう。
寒いのかもしれないな……、と、かすかに痙攣する手を擦ってやった。 ―――と、
「………だ…ん、……な……」
ダッシュウッドの喉から漏れた、吐息のような譫言。 ゲオリクは一瞬の驚きに目を開いて、それから苦笑した。
なにも熱に浮かされてまで、俺の夢なんぞ見なくともいいだろうに。
しばらく動くことを諦めて、ゲオリクは男の枕元に腰を下ろすと、安心させるようにその髪を撫で続けた。
その日の晩は、暖気爽やかだった昼間の反動のごとくに冷え込んだ。
小康を保ちかけている患者も、なかなか下がらない高熱のためか、歯の根が合わない様子で広い背を丸めていた。
氷嚢だけでは寒かろうと、ゲオリクはぬるま湯で絞ったタオルで身体を拭いてやり、毛布を掛け直す。
「……寒……ぃ………」
「…まだ寒いのか?」
男の夢うつつの低い呻きに、参ったな…と溜息が零れた。
暖炉に火は入れてあるし、毛布も布団も数枚ずつかき集めて被せてやっているのだが、それでも今夜の冷気はこたえるようだ。
震えの止まらない肩を毛布の上から撫でながら、他の部屋からも掛け物を引っ張り出してくるか…とゲオリクが思案していたとき、ノックの音が遠慮がちにドアを叩いた。
「ゲオリク…、食事できてるけど、どうする? こっちに運んだ方がいいかな」
廊下のひんやりした空気が入り込まない程度にドアを開けて、ティモシーが目線だけを覗かせている。 食事、の単語に、ゲオリクの思考はひとつの妙案を導いた。 …あまり、気の進まないものではあったが―――。
「一応、その人の分も作ったんだけど。 …今は無理そうだね」
「ああ、俺の分だけでいい。 悪いが、運んでくれ。 ただしこの部屋じゃなくて、回廊の突き当たりの客室の方へな。 鍵に蔦と狼の紋章がついた部屋だ」
「あ…、うん。 …でも、あんなとこで食べるの?」
「ああ。 この男ごと移動する」
不思議そうに首を傾げる少年を余所に、ゲオリクは暖炉の火を消すと、毛布にくるんだダッシュウッドをよいせと抱え上げた。
ティモシーの横をすり抜けて廊下を歩き出しながら、思い出したように振り向いて付け加える。
「あと、食事に酒を一本つけてくれるか。 ワインでもブランデーでも、何でもいい」
お酒? とティモシーはますます怪訝な表情をしたが、ゲオリクの背中は説明をくれることなく、宣告した部屋に向かっていった。
「お待たせ〜、旦那様……って、うわ」
夕食を運んだ後、注文の酒を見繕うのに手間取ってしまった少年は、慌てて指定の部屋のドアを開けた途端、思わずまごついた声を上げた。
「ああ、ご苦労。 …なんだ、その顔は」
「…あ、ごめん、ちょっと吃驚したもんだから。 …そのカッコ、寒くない?」
ティモシーの指摘はもっともだった。
既に食事を終えたらしい家主は、ゆったりしたガウン姿だったが、胸元が開いたデザインの上に袖も裾も七分の長さで、身を切るような寒さの夜を凌ぐにはやや心もとない。
自分の姿をちらと見下ろして、しかしゲオリクは肩をすくめただけだった。
「昔のだから、ちょっと丈が短いかもな。 …まあ、今日はこれでいいのさ。 それより、酒はあったか?」
はいこれ、と少年に差し出されたブランデーのボトルとグラスを受け取り、ゲオリクは礼を言うと、食器を下げてくれるように頼んだ。
「それを片付けたら、お前ももう寝ろ。 …今日は、色々手伝わせてすまなかったな。 明日の朝は、俺を起こしに来なくていい」
「……なんか今日のゲオリク、妙に人がよくて怖いなあ。 心境の変化でもあったの?」
「馬鹿。 いいから、早く寝ろ」
は〜い、とどこか楽しげな返事を残し、食器を載せたワゴンをがらがらと押してティモシーは部屋を後にした。
その足音が遠ざかるのを確認してから、ゲオリクは一応の用心を考えて鍵をかける。
「…やれやれ……」
暖炉にもう一度、薪をくべた。 勢いを増していく炎を尻目に見ながら、グラスにブランデーを注ぎ、一気に飲み干した。 そのまま二杯、三杯と、立て続けに呷(る。
―――元々、あまり体温の高い方ではない。 これで少しでも身体が火照ってくれればいいのだが。
ボトルに蓋をすると、ゲオリクは長い黒髪を気怠げに払い、患者の寝ているベッドの横へ、静かに潜り込んだ。
「……ほら。 こっちに寄れ」
傷跡に触れないようそっと、縮こまった身体を抱き寄せ、その手を握ってやる。 ゲオリクの腕を感じると、その温かな人肌に安堵を得たのか、うなされるダッシュウッドの表情が僅かに和らいだ。
握り返してくる手は、いつかの狂乱の宴の席でゲオリクを組み敷いてみせた男のそれとは思えなかった。
…まるで母親の抱擁を逃がすまいとする幼子のように、必死で、けれど頼りなく。
―――そういえば……この男には、身寄りはないのだろうか。
プライヴェートに踏み込む類の会話は、ついぞ交わしたことがない。
どころかゲオリクは、ダッシュウッドが普段見せる営業用の愛想のほかには、彼をほとんど知らないのだ。
例えばどこで生まれ、どのように育ったのか、今はどこに住んでいて、誰と暮らしているのか。 ……知りたいとも思わず、その必要もなかったから。
けれど、この男は仕事以外では独りで日々を送っている、その点だけは、何とはなしに奇妙な確信があった。
千年王国の栄華を謳歌できるのは、ごく一部の富貴な階層だけだ。
―――この男も、人並みに家族がいて、人並みの生活が許された家庭に生まれてさえいれば、今頃、こんな裏稼業に足を突っ込んでいなかっただろう。
もしも、肉親の情をひとつも知らないままに、あの澱んだ世界でずっと生きてきたのだとしたら。
……それは、とても。 とても、淋しいことだと思う。
人として、あたりまえに与えられるはずの愛情に恵まれない命ほど、悲しむべきものはないと思うから。
いつも疎ましいばかりの男と、こうして肌を触れ合わせていても、常のような嫌悪の念が沸き起こらないのは、心によぎった一抹の憐憫のゆえなのか。
戦慄(き続ける男の、頭に乗せた布を少しの間だけずらし、ゲオリクは甘える子供にそうするように、その額へと軽く唇を落としてやった。
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―――嗚呼、夢の続きだ……、とまどろみながら、男は隣の愛しい相手をかき寄せる。
陽は既に高く、淡い模様のカーテンに和らげられた光が、優しく空間を包んでいた。 すぐ横で寝息を立てている男の美貌、シーツを流れる艶やかな黒髪。
なんと贅沢な夢だろう。 これなら一生、目なんか覚めなくてもいい。
―――ホント、天国にでもいるみてぇ…。 よっしゃ、ここはひとつ、贅沢ついでに……。
眠れる美男に覆い被さると、そぉっと、唇の先だけで口付けてみる。 …いつか触れた本物を思わせる柔らかな感触は、最高だった。
溢れ出しそうな愛しさのままに、今度は深く唇を重ねていく。 同時にガウンの襟元から、きめ細かな肌へと指を這わせて―――
「……ぅぐっ」
どすっ、とくぐもった衝撃とともに、ダッシュウッドのうたかたの至福は終わった。
素晴らしく長いゲオリクの脚線美が全貌を現したかと思うと、不埒な客人は楽園もかくやという寝台から、豪快に毛布ごと蹴り落とされた。
「…痛っ、てテテ……。 な、何するんスか…」
「こっちの科白だ、うつけ者!! 起きたのなら、寝ボケてないでさっさと……!!」
至近距離で膝の直撃を受けた脇腹と、したたか床にぶつけた臀部(をさすりつつダッシュウッドが身を起こせば、自分自身の怒鳴り声で頭痛に見舞われたのか、枕に突っ伏して呻いているゲオリクの姿があった。
「だ、旦那。 大丈夫ですかぃ?」
「……くそったれ……俺はこれでも血圧低いんだ、起き抜けに大声出させるな。 ……それより、熱は?」
鈍い疼きを堪えながら、ゲオリクは目線だけを上げて訊ねる。 その表情の壮絶な艶っぽさに、ダッシュウッドは一瞬、どぎまぎさせられて返答に窮した。
「…熱、ですか? …いや、今旦那に触った感じだと普通でしたが…」
「俺じゃない、お前だ! 何のために人が暑苦しいのを我慢して、添い寝してやったと思っている!」
低血圧の頭に響くのを嫌がって、ボソボソと小声で罵倒するゲオリク。
遅れること、数秒。 ―――ようやくダッシュウッドは我を取り戻し、ゲオリクと周囲とを呆然と見比べた。
「……旦那。 ひょっとして、本物ですか?」
「当たり前だろうが。 俺の偽者なんて奴に会ったことでもあるのか」
「………ここ、どこッスか?」
見渡せば、そこはめくるめく異空間であった。 白を基調に、視界に優しい落ち着いた色合いで整えられた壁。
精緻に織られたタピストリーのような、鮮やかなカーペットを敷き詰めた床。 純金や輝石をふんだんに取り入れた装飾、照明、上質の家具や調度品の数々。
そしてひときわ目立つ巨大なベッドは、美しい天蓋の下にふかふかの羽根枕がこれでもかと並べられ、極めつけは黒髪の麗人。
最高の寝心地を提供してくれそうな豪勢さだ。
…確か自分は『嘆きの森』からの帰路の途中、荒野で馬を駆っていたはずなのだが。
いつの間にこんな、魅力あふるる環境に……と思考の整理が追いつかずに混乱しまくる男へ、見かねたゲオリクが助け舟を出した。
「俺の屋敷の客室……というか、客人用の寝室だ。 父の代から医者だからな、何かと人の出入りが多くて……いや、そんなことは今はいい。
―――お前、倒れたことは覚えてるか?」
「……言われてみりゃあ……おぼろげには。 …もしかして、旦那のお手を煩わせちまいました…?」
「ああ。 どうもお前を切りつけたあのローブの連中の刃に、毒が仕込まれていやがったらしい。
気絶したお前に応急処置を施して、馬でここまで運んで、解毒剤を調合して……まったく、とんだ重労働だったぞ。
おまけにお前ときたら、一晩中寒い寒いとうるさいから、仕方なくでかいベッドのある部屋に移動して、一緒に寝てやったんだ」
「…そ、そうッスか……」
色々すみません…、と居心地悪げに俯いたダッシュウッドは、置き所に困ったらしい目線をうろつかせながら、ふと思い出したように「オレの乗ってた馬は…」と訊いた。
「放ったらかしにするわけにもいかないからな、手綱を解いて逃がした。 …まさか、大事な馬だったのか?」
「い、いえ、ただの辻馬ですけど…」
「なら、さしたる問題はないな。 ……ま、今回はお前に借りもあったし、乗りかかった舟だったから助けた。 それだけのことだ。
二度目を期待されても困るが……一応は患者だ、食事くらいは出してやる。 取ってから帰れ」
「…へ、へい。 …有難うございます…」
男は慌てて頭を下げたが、先刻からなぜかゲオリクと目を合わせようとしない。
不審に思ったゲオリクが表情を覗き込むと、やはり落ち着かない様子で視線を外された。 その頬に、僅かな赤みが差している。
「…どうした。 まだ熱でもあるのか…?」
額へ伸ばされた手に、やや怯んだように男は身を引く。
それにいよいよ眉をひそめるゲオリクの気配を感じたのか、ダッシュウッドは困り果てた瞳で「あの……」と口を開いた。
「あの、…脚…」
「脚?」
反射的にダッシュウッドの下肢へと目線を落とす。 別に目に付く外傷などは見当たらないが。
「……脚、しまってくれます? ……さっきから、何か、…キワドイとこまで見えそうで。 ……その、…どうしても、そういう気分に……なっちゃうんで」
言いにくそうに口ごもり、顔を背けつつも男がちらちらと何度も一瞥をくれているのは―――ゲオリクの両脚。
派手に毛布を蹴りどかした影響もあり、めくれた夜着から惜しげもなく零れているその白皙は、病み上がりの視界をちかちかさせるような、ちょっと眩しすぎる光景だ。
特に、床に座っているダッシュウッドの目の高さからは。
「なっ……」
一瞬ぽかんとしたゲオリクは、次の瞬間、憤怒と羞恥に頬を紅潮させてガウンの裾をかき寄せると、無礼者の赤毛をむんずと掴み、力の限り引っ張った。
「貴様は…! 貴様というケダモノは……ここまで親身になって看病してやった俺を、よっくもそんな目で…!!」
「痛デデデ…、やめてくだせえハゲるから! 仕方ないじゃないッスか!! 旦那の脚が真っ白で綺麗すぎるのがいけないんですよぅ!!」
「逆ギレするなぁッッ!!!」
腹の奥底より罵声を浴びせてしまってから、後悔したがもう遅い。
忘れていた頭痛が津波のごとく襲ってきて、再び枕に沈み込んだゲオリクは、横でおたおたするばかりのダッシュウッドを弱々しく睨むしかなかった。
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