思いっきり機嫌は下降したものの、やはりゲオリクも医者であり、つい数時間前まで生死の淵をさまよっていた―――献身的な看護もあってか、今やそれが信じられないくらいの回復ぶりではあったが―――患者を、無情に追い出したりはしなかった。 少なくとも丸一日以上ほぼ空だったはずの胃を刺激しない、食べやすいメニューをティモシーに用意させ、昼食とも夕食ともつかない食事を共にする。 その頃には病み上がりでふらついていた体調も持ち直したらしく、ダッシュウッドはすっかり普段の饒舌に戻ってうきうきと喋り続けていた。
 この分なら何の心配もいらんな、とゲオリクはいつものごとく呆れ果てながら食事を済ませると、「後は適当に馬でも拾って帰れ」と素っ気なく命じたのち、リリスに血を与えてやるために地下室へ向かった。
 昨日はどうして来てくれなかったの? と可愛らしく唇を尖らせる妹を、急な仕事が入ったんだ、と苦しい言い訳で宥めつつの輸血を終え、無邪気にせがまれるまま近況報告や談笑に付き合ってやり……やっと解放されたと思えば、既に2時間ほど経過していた。
 一呼吸入れるべく、昨日のブランデーの残りを取ってきてリビングへ入ると、そこにはとうに帰ったと思っていた男が、所在なげに腰かけて新聞を読んでいた。
「お前…まだいたのか。 帰れと言っただろうが」
「あ、旦那。 へへ、いや今回は色々世話かけちゃいましたし、一言ちゃんとお礼が言いたくて」
「…そんなことのためにわざわざ待ってたのか? 暇な奴だ…」
 理解できないといった表情であさってを仰ぎ、カウチソファに腰を下ろしたゲオリクの手にあるものに気付いて、ダッシュウッドは「酒ですか、いいッスねぇ」と口笛を吹いた。
「残念だが、お前には飲ませないぞ。 一応、病み上がりなんだからな」
「分かってますって。 貸してください、オレが注ぎますよ」
 断ったところで、そんなこと言わずに〜、としつこく食い下がってくるのは目に見えている。 やれやれとボトルを手渡してやると、ダッシュウッドは何を思ったのか、カウチの側を通ってゲオリクの背後へ回り、首の横から手を伸ばして、ボトルをグラスの上へ傾けた。
「……もう少し普通に注げないのか、お前は」
「まぁまぁ、固いことは言いっこなしですよ。 ささ、どうぞ」
 笑顔で杯を勧めながら、どさくさに紛れてゲオリクの黒髪を指先で弄んできたりする。 ―――飢えているのはスキンシップか、…人の温もりか。 目くじらを立てるのにも疲れて、ゲオリクは好きにさせておくと、グラスの中身をゆっくりと喉へ流し込んだ。
 顎を上向ければ、ダッシュウッドの顔が間近にあった。 しなやかな肉食獣を思わせる金色の瞳が、じっとこちらを見つめている。 ゲオリクが目を伏せ、白い喉を上下させるさまを、じっと。
「…そんなに欲しいのか?」
 これが、と空けたグラスを揺らして、笑うゲオリク。 相手のいつになく真剣な眼差しが可笑しくて。
「……ええ……でも、…酒じゃなくて……」
 そんなゲオリクからグラスを掠め取り、ボトルと一緒にカウチの脇へ置くと。
 男は不意に、背後からゲオリクを抱きすくめた。


「ねぇ……旦那。 オレ、旦那に触るの好きですよ。 いつも、…もっと、触れたいって思う。 こんな風に、抱き締めたいって……思うんです」
「…何、を…言って……」
「……ですからね、旦那……」
 ダッシュウッドはそこで一度、迷うように言いよどみ、言葉を途切れさせた。 …そして苦笑すると、
「―――下半身の処理とかに困ったときは、いつでも呼んでくだせえ。 オレ、謹んでお相手させて頂きますから」
「な……」
 品のないジョークで笑われてゲオリクは気色ばんだ。 ―――また、からかってやがる。
 首に回された腕を引き剥がそうと手をかけた瞬間、

 

「…前にも一回言いましたけど。 ……オレ、旦那のこと……愛してます。 本気で……」

 

 低音が囁く。 耳の奥へと、厳かに響く声。
 抱き締めてくる腕に、意図を持った力が篭もるのを感じた。 耳朶に押し当てられた、熱い唇の感触とともに。


 どくん……、と、思考をかき乱される。 ―――それはまるで、形なき眩暈のごとく。


 その心の疼きを認めたくなくて、…悟られたくなくて。
 ひとたび受け入れたら、何もかもが変わってしまう。 その熱は、ゲオリクをひどく怖れさせた。
 

「………結構だ……俺にそんな趣味はない!」
 力任せに振りほどくと、男は「またまたァ」と口癖の軽口を叩いたが、それ以上は絡んでこようとしなかった。
 …一瞬の翳りを押し潰して(こしら)えたような、ぎこちない笑みはなぜか、ゲオリクの胸の奥に小さく(こご)りを残した。

 


 短い静寂に、唐突な時計の鐘の音が滑り込む。 気づけば宵の口もとうに過ぎ、外は闇色の帳が下りていた。
「やべ……じゃあオレ、いいかげん帰りますね。 今回はホントに有難うございました、旦那」
「…ああ……」
 まだ鮮明に残る、動揺の色。 ゲオリクは努めてそれを押し殺すかのように、患者を案じる医師を振舞った。
「一人で帰れるか…?」
「大丈夫ですって。 いいですよォ、そんな気を遣ってくれなくても。 …それとも何、送ってくれるんですかぃ?」
「いや。 …今晩までは泊まっていくか、と訊こうとしたんだが…」
 その言葉にダッシュウッドの悪戯っぽい眼差しが、呆気に取られたように二、三度まばたいた。 何か妙なことを口走っただろうか、とゲオリクがしかめっ面で己の科白を反芻しているうちに、吹き出したのはダッシュウッド。 クックッ…と肩を震わせながら、喉の奥で噛み殺しきれない笑いの混じった声を絞り出す。
「いえいえ旦那、お構いなく……せっかくですが、結社のほうへ一旦、言い訳に戻らなきゃいけねぇんで」
「…そうか。 じゃあ、今度は途中で行き倒れずに家まで辿り付けよ」
 かなり遠回しにではあったが、『気をつけて帰れ』の意の込められたゲオリクの言葉に、ダッシュウッドは芝居がかった仕草で大仰な会釈を返すと、やや小走りに部屋を出て行った。
 先刻のように無理に繕ったものではない、自然体の笑顔だった。 …少なくとも、ゲオリクの目にはそう映った。
 ―――その笑みに心のどこかで安堵している自分がいるのを、理由の分からないまま、漠然と感じながら。

 

 

*****************************************************

 

 

 月の見えない夜だった。 染みわたる冷ややかな空気が肌に、少し滅入った頭に心地いい。
 ゲオリクの館を出てからはのんびりした足取りで、ダッシュウッドは夜の路地を歩く。 明日の仕事には障るかもしれないが、急ぐ気分ではなかった。 結社で待つ主への弁解を考えつつ、闇色の空を見上げれば、ゲオリクのいつも不機嫌そうな美貌が脳裏をよぎる。 艶めく黒髪や、玲瓏たる声色や、静謐に見えて甘美な危うさをいくつも宿した瞳や。 つくづく夜の闇に似た人と、会うたびその印象は募りゆく。
 ―――あんなに謎めいた美男だってのに、どうしてまた、中身はああも可愛いのかねェ。
 ひとしきり思い出し笑いに浸った後、ダッシュウッドの苦笑はにわかに複雑な、陰を帯びた。

 

 好意が一方的なものときっぱり告げられたその口で、泊まっていけなどと言われたら、相手はどのように感じるのか。 それほど深く考えずとも、10代の子供でも分かりそうな、単純なことなのだが。
 ―――ま、その辺はあの旦那だからなあ…。
 あれも彼なりの好意の表れなのだろう。 その意味合いがこちらと異なるからといって、責められようか。


 (俺にそんな趣味はない!)


 もう迂闊に手を伸ばすことはできまい。 何気なくちょっかいをかけるのが容易いのは、冗談のうちだけだ。 それが本気に変われば、振り払われる怯えがたちまち自縄自縛となって、ダッシュウッドの身動きを封じてしまう。
 ―――いつの間に、ここまでマジになっちまったのかなァ。
 ゲオリクの拒絶が今更のように苦しい、自分自身にいっそ(わら)えてきた。
 己の裡にあるその感情を認めたときには、もう諦めていたはず。 初めから、見返りも何も求めてはいなかったはずだ。
 それが今や、自身に言い聞かせるばかりの必死の響きで。
 ダッシュウッドは唇の端を微笑の形に歪めたまま、静かにひとつ、嘆息した。
 …いつまでも消えない胸苦しさを、そんな気休めでもいいからやり過ごしたくて。

 

 月はもう見えない、昏い夜。 知らず、仰いだ視線は東の空へと注がれていた。
 夜明けが待ち遠しいとさえ思う。 ―――明けてしまえば、また夜が恋しくなるだけだとは分かっているけれど。

 

 

<Fin.>


 

 後書きです。

 男前なダッシュが好きなんですが。本当に好きなんですが。これじゃど こ の ヲ ト メ …!(⊃Д`)
 前半で男前を目指した分のツケが来ました。所詮私の中では旦那に恋する23歳・漢女(をとめ)ですよ彼は。
 今作、時期は旦那が錬金術を始めてそんなに経ってない頃…かな…(だいぶ適当)
 この時点ではとりあえずすれ違いラヴで。旦那はまだまだ自分の気持ちに無自覚です。
 ダッシュはフラれたわけじゃないんですヨ! だとしてもタフな彼はめげないと思いますが(笑)
 かなり先になるとは思いますが、いつかは恥ずかしいくらいのラブラブバカッポーにしたいですね!(え ー)

 あと…ストーリーとは全然関係ないんですが。
 貴族の家とかホテルのスイートとかで、ボーイさんが「お食事をお持ちしました」ってガラガラガラ〜と押してくる料理を乗っけたあの台車っぽいの(?)。
 
正式名称、なんていうんですか? ご存知の方は是非教えてください〜!<無知
  →後日戴いた情報をもとに調べてみると、英語ではwag(g)on、日本語では移動式配膳台というそうで。
    情報をくださった春臣苗様、蜜様、どうも有難うございましたー!<(_ _)>


 さて、ここまでお読みくださり、有難うございました!
 次はダシュゲオダシュで、も少しエロっぽい表現を…入れても…大丈夫でしょうか、ね…(デクレシェンド)

 


 

 

+ Back +

+ Quit +