孤独に惑いし人の子よ、
 汝が眼を暗闇の(ひし)ぐとき、その手に我が名を翳せ。
 苦患(くげん)を担いし人の子よ、
 汝が身を絶望の挫くとき、その胸に我が名を灯せ。

 

 恥じることなく、怖じることなく。
 唯、求めよ、無垢なる心をもって。
 ―――さすれば我が祝福、既に汝とともにある。

 

 

 


 

 

Goddess bless you.

 

 


 

 

 

 ――ただいま、リリス。 何を作っているんだ? いい香りだな。
 (あ、おかえりなさい兄様。 今ねえ、チョコレートを作ってるの)
 ――チョコレート? …なるほど、この甘い匂いの正体はそれか。 しかし、お茶請けにしては甘すぎないか?
 (…あっ、ちょっと兄様、勝手に食べちゃ駄目っ! これはお茶請けじゃなくてプレゼント用なんだから!)
 ――プレゼント、って……誰にだ?
 (サンジェルマンに決まってるじゃない。 …もう、兄様ったらバレンタインデーも知らないの?
  大切な人への想いをこめて贈り物をする、特に恋人たちにとっては重要な日よ)
 ――……で、なんでチョコレートなんだ……。
 (チョコレートはね、魔法のお菓子なの。 一番好きな人に贈ると、その想いが片想いなら、それは成就する。
  両想いならお互いの愛がより深まるといわれているわ)
 ――…もし、相手が甘いものの苦手な男だったら?
 (まあ、女の子の心が篭もった手作りの贈り物なのよ! 食べられないなんて言うのなら、その男に彼女の愛を受け入れる資格はないわね)
 ――手厳しいな……ところで、お前のチョコレートをもらえる資格があるのは婚約者だけなのか?
 (もちろん。 バレンタインのチョコレートは愛の証なんだから、ほかの男性にも贈ったりしたら彼に失礼じゃない)
 ――つれないですねぇ、姫……。 この最愛の兄にはひとかけらたりとも分けてくれないと?
 (当然じゃ! ……なーんて冗談よ、ちゃあんと兄様のぶんも作ってあげるわ。
  でも兄様はさっきつまみ食いしたから、罰としてプレゼントは後回し!
  明日は私、彼と二人っきりで過ごしたいし。 兄様へのチョコレートは明後日までおあずけねv)

 

 

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 ―――どこかで、風が()いている。

 

 (………?)
 カラカラと規則的に続く振動の中でまどろみかけていたゲオリクは、ふと瞼を押し上げ、外へと視線をやった。
 王宮からの帰路。 アイオナ区の骨董品店で研究に使えそうな物を二、三選りすぐった後、行きしなにもう一軒の馴染みの店にまで足を伸ばした。 その甲斐あって戦利品が増えた分、大幅に今夜の研究時間と体力をロスしたが、まあそれも致し方のないこと、必要に迫られてから店へ駆け込んで品切れでは元も子もない。
 前向きに結論づけて、ゲオリクはとりあえず体力の方だけでも節約すべく、辻馬車を拾った。 今夜、店を複数巡る予定は始めからあったので、ラビカンはザベリスク邸の厩舎の中だ。 たまにはブラッシングでもして構ってやらんとな。 最近、少し食欲が落ちてるようだし。 そういえば今夜の夕飯は何だろう……諸々、疲れにたわんできた思考と背中を馬車に揺られながら、睡魔に抗うべきか委ねるべきか、夢と現の狭間で漂っていた。
 そのゲオリクを現の側へ呼び戻したのが、先刻の……音とも声ともつかない、奇妙な風だった。
 一瞬、あの趣味のよくない悪魔の戯れだろうかと、ゲオリクはまず周囲の気配に意識を尖らせた。 しかし、彼が姿を現すときの、赫い闇のような眩暈は感じない。 何よりあの悪魔ならば、ゲオリクのすぐ耳許で囁いてくるはずで―――今のように遠くから、おぼつかない音で気を引いたりと面倒な真似はしないだろう。

「……すまん、止めてくれ!」
 迷うより先に、ゲオリクは声を張り上げていた。 馬に鞭をくれていた馬丁の少年が、驚いて手綱を引く。
「ここまででいい。 ご苦労だったな」
 しきりと訝しむ少年に銀貨を握らせて馬車を降りると、そこはうらぶれた路地と隣接するゆえか、大通りにしては人気に乏しい場所だった。 轍と蹄の音とが遠ざかっていけば、もはや人どころか、およそ動くものの気配すらない。 ただ冴え冴えと冷たい冬空に、時折吹き抜ける夜風の滲んでまたたく、静かな星々と月があるばかりで。
 ―――だが、確かにこの路地の奥からだった。
 不安定に哭く、風が自分を呼んだのは。
 帽子のつばを軽く上げ、ゲオリクは黒い虚空へ挑むような瞳を向けながら、じっと聴覚を研ぎ澄ます。
 …やがて、再び『それ』が聞こえた。 凪いだ闇をかすかに、ごくかすかに揺らすだけの、ゲオリク自身の息遣いにもかき消されそうな、脆弱なものだったけれど。
 聞こえるのだ。 …ほら、今も。
 華やかな都会(カーマゼン)の片隅にぽっかりと、虫食いのように沈む、この裏通りの闇の向こうから。

 ゲオリクは帽子を深く被り直し、ばさりと外套を翻すと、『それ』が発せられる方向に見当をつけて歩き出した。
 単なる空耳と片付けてしまうのが容易いし、まともな判断だ。 一時の好奇心や胸騒ぎに任せて行動しようなど馬鹿げている。 もし無用な危険につきまとわれ、最悪の事態を迎えたとしても、さもありなんと諦めるほかない。
 しかし。 ―――今、踏みとどまって踵を返してしまっては、絶対にいけない気がするのだ。
 第六感、とも少し違う、それよりもっと微細で濃い……身体中の神経としか表現できない感覚がざわめいて。


 得体の知れぬこの『風』は、自分を呼んでいる。


 本能が告げる確信に促され、ゲオリクは薄い月と星明かりを頼りに、躊躇なく昏い路地裏へと踏み込んだ。

 

 

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 カツン……カツン……。
 自身の靴音がやけに高く響いて聞こえるほどの、不気味な静寂。
 生ゴミや吐瀉(としゃ)物の散乱する、饐えた悪臭のひどさは普段のゲオリクならば閉口していたろうが、今、その眉をひそめさせているのはそんな瑣末ではなかった。 身体の芯に重たい疲れは残っているはずなのに、一歩一歩踏み出してゆくにつれ、意識だけが皓々と冴え渡ってくる。 眠気もとうにどこかへ飛んでしまった。
 時折足を止め、謎の『風』をはらんだ闇を嗅ぎ分けて感覚を収束し、届いてきた音を辿ってまた歩み始める。
 それを繰り返しながら、四半刻ほど進んだころだろうか。
 『風』がだんだん強く、はっきりしてくる。 …不規則で途切れ途切れのその音は、風、というよりは生き物……獣の呻き声に近いようにも聞こえた。
 (…否、獣ではないな。 ……これは、人間の)
 苦悶の、声。

 ―――いや、すすり()く……声?

 無意識に、右手が剣の柄へかかっている。
 ゲオリクは仮に不穏な現場に遭遇したらすぐにでも対応できるよう、警戒という鎧をまといながら歩を速めた。
 場末にも届かない瀕死の明かりが洩れてくる酒場の横を抜け、角を曲がり、さらに暗い、(くら)い路地の奥へと。

 …しかし。
 ゲオリクはそこでふと立ち止まると、眉間に怪訝の皺を刻んで辺りを見回した。
 先刻の『風』―――『声』が、いつの間にか途絶えていたのだ。
 表情をより険しいものへ変えてゲオリクは、ゆっくりとその場の気配を探った。
 道脇には黒々とそびえ立つ、歪な形のシルエット。 元は何に使われていた建物だったのか、いまや壁は崩れ窓は傾き、かつて住人がいたであろう面影はどこにもない、荒れ果てた廃墟があるのみだった、が……
 この辺りに足を踏み入れた途端、『声』はまるでゲオリクの接近に気付いたかのごとく、不自然に途切れた。
 獣か人か、…はたまた生者か亡者かはともかく。 なにものかが潜んでいるはずなのだ、この近くに必ず。
 ゲオリクはしばらく付近に目を光らせたが、五感が空気の動く兆候を捉えることはなかった。
 ―――ねっとりと四肢に絡み付いてくるかのような、どこか濃密に湿った闇が気持ち悪い。
 …出てきやがらない気ならいっそ大音声(だいおんじょう)でも張り上げてやるかと、軽く仰のいて息を吸い込んだ、

 刹那。

 廃墟の二階の高さにある、朽ちかけたベランダとおぼしき庇の部分に、黒い影がゆらりと蠢くのが、見えた。

 

 咄嗟にゲオリクは剣の柄を握りしめ、いつでも抜き放てる態勢に構えながら、睨めあげた。
 どうやら人影で、大きさから察するにおそらく、男。 まさしく影としか表現しようのないほど真っ黒なのは、半分以上が薄暗い月明かりの逆光に隠れているせいもあるが、それだけではないようだった。 全身を闇色のコート、もしくはローブか何か……と思われる布で包んでおり、顔も体つきも判然としない。
 だが、その視線がまっすぐゲオリクを捉えているのは明らかだ。
 ふら、と影は妙に危うげな足取りで、ところどころ木材が腐って落ちたらしい、ぼろぼろの手すりを掴む。
 掴んだ、かと思うと―――

「……ッ危な、っ…!!」

 考える前に、ゲオリクは地を蹴って飛び出していた。
 人影はしごく自然な、澱みない動作で手すりを乗り越えるや、あっと思う間もなく、ふわりと落下してきたのだ。
 己に害をなす敵かもしれぬ。 助ける義理はない。 その思考が意識に上るより早く、目の前で人が落ちてくるという事実に身体が動いていた。
 間一髪で影を受け止め、ゲオリクはその勢いと重みに潰されて地に転がった。 しこたま打ちつけた背が軋みを訴えるが、腕の中で圧しかかる重さはちゃんと血の通った人間の男のもので、ゲオリクは自殺まがいの奇行を未遂に食い止められたことにほっと息をつく、と同時に、当然の権利として憤怒に声を荒げた。
「……お前なぁ、何のつもり……っ!!」

 ―――叫びは半ばで途切れた。
 先にその腕を掴むことができたのは、ほとんど本能のなせる業だったかもしれない。
 振り上げられた手首を捕らえて強くねじると、黒ずくめの男は苦痛におめき……カシャン、と、その手から零れ落ちたなにかが地面を叩く。
 大ぶりのナイフだった。 刃の部分が暗闇に紛れさせるように黒く塗られた、物騒きわまりない代物だが―――柄には黄金の、豪奢で美しい装飾が施されている。
 それを見極め、ゲオリクはハッと双眸を(みは)った。
 いつかの王宮で、幼なじみに受けた忠告が脳裏によみがえる。

 (―――最近、夜の路地で若い女性が惨殺される事件が相次いでいてな。
  犯人の男は黒ずくめの服装で、凶器のナイフは…貴族の所有としか思えんらしい、豪華なつくりの―――)

「……貴様……」
 男の手首をねじあげる手に力を込めながら、ゲオリクはゴクリと喉を鳴らし、上に覆い被さった男を睨めつけた。 自由なほうの手で頭部を隠すフードを跳ね除けて素顔を拝んでやりたいところだが、降って沸いた極度の緊張が身体を縛りつけているのか……右手が動かない。 どうにか声だけでも戦慄で揺らすまいと、慎重に搾り出す。
「……貴様が……巷を騒がせている、あの…“ウィスラー・ザ・リッパー”とやら、か」
 もがきながらゲオリクの苛みに抗っていた男は、その言葉と睥睨とを受けて、きょとんとしたように力を抜いた。 つられて思わずゲオリクも手を離してしまったが、それが再び、すぐ傍らに転がっている得物に伸ばされる様子はなく。
「……ウィ…スラ………切り裂き魔(ザ・リッパー)……?」
「…!」
 ふと、夜の闇と布地の影になって見えない男の唇から囈言(うわごと)のような呟きがもれたとき、ゲオリクは息をのんだ。
 覚えのありすぎる声だったのだ。 ひどく掠れて弱々しく、聞き取りづらくなっているが、それはまさしく―――


「ち、が…う……… お、れ……オレ は……… 司  祭(プリ ー  スト)―――」


 熱に浮かされたようにそう言いながら、男がふるふるとかぶりを振った拍子に、それまで逆光になっていた顔の部分が、月に照らされてあらわになる。
 慄然として、ゲオリクは視線を逸らすことすらできないまま、それを凝視(みつ)めた。
 フードの奥から熱っぽく見下ろしてくる、―――ぞっとするほどの暝い愉悦に濁った、金色を。

 

 

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