「……ダ、ッシュ…ウッド?」

 寒暖おぼろな夜気のひりつく、からからの喉を通り抜けたのは、かろうじて目の前の男を示す名だけだった。
 呼ばれたフードの男、ダッシュウッドは微笑を深め、視界を確かめるようなまばたきをゆっくりと繰り返す―――その瞳に恍惚とした、しかし虚ろな輝きを宿しながら。
 尋常ならざる悪寒に怯み、ゲオリクは上体を後ろへずらした。 コツ、と指先に触れる、先刻の刃物の感触。
「…お前が………いや、まさか…な」
 疑念のわだかまりをぎこちなく苦笑でもみ消すと、ひとまず重みを押しのけるべく、男の肩に手をかける。
 ―――途端、ぐいと腕を引かれ、泡を食ったゲオリクの唇が、男の唇によって素早く塞がれた。 一瞬、狼狽に慄えてひらいた歯列を割って、ひどく熱いものが奥へと挿り込んでくる。 逃げる間もなく舌を絡めとられ、執拗に貪りつかれて、ゲオリクは頭の芯にずくりと鈍い疼きを感じた。
「っう、ぅ…ッふ、」
 ダッシュウッドはつかみ取った腕を離さないまま、逃れようと暴れるゲオリクの舌に軽く歯を立て、抗議も抵抗も封じてしまう。 ゲオリクが自由なほうの手を突っ張って抗うと、マントの内側に片手を滑り込ませ、服ごしに胸の突起を探り当てて、分厚い布地の上からもどかしげに、にじり回した。
「…ン……ッ」
 強引な刺激にゲオリクは身をよじったが、ダッシュウッドの指先が次第に這い降りて、下肢の官能の中心へと辿り着くころには、その呻きにも隠せない色が滲み始めていた。
 身体の裡で芽吹いた悦楽が、またたく間に全身へ火照りを拡げ、血を駆り立てていく。
 ゲオリクの大腿部を挟むように脚をひらいて乗り上げ、飽くことなく口付けを重ねてくる男に組み敷かれながら、そのまま惑乱してしまいそうになる意識の隅に、ゲオリクは先刻よりさらにはっきりとした疼痛をおぼえた。
 おかしい―――こんな乱暴なキスではなかった、あのとき……。
 黒ミサの行なわれている地下に、迂闊にも首を突っ込んでしまった夜。 …単なる芝居にすぎなかったにせよ、あのときはこんな気遣いのない、自らの欲の捌け口を求めるだけのような触れ方はしてこなかったはずだ。
 ちりちりと脳裏にくすぶっているのはきっと、最前からのこの、拭えぬ違和感。
 当惑が欲望の熱から意識を逸らさせたとき、ゲオリクはようやく、男の全身から立ちのぼる異臭に気付いた。
 …生々しく淫靡な、牡の汚濁のにおい。 それも、おそらくは―――複数の。
 刹那、煮えたぎらんばかりの嫌悪に弾かれ、ゲオリクは男の頭をフードごとむしるように掴んで引き剥がすと、剣呑に切れ上がった目で、ぎろりと冷たく睨みすえた。

「…ッ貴様…。 俺がここへ来るまで……あの廃墟の中で、何をしていた?」
 ダッシュウッドの口許から、一瞬、笑みが失せた。 口角を引き結んだ無表情の中、虹彩だけが大きく開かれ、ゲオリクの意図を探ろうとでもするように、じっと(まなこ)を凝らす。
 だが、すぐに自らそれを覆い潰すかのような微笑に戻った唇を、男はどこか卑猥な動きで舐めてみせた。
「ナニ、って………気になります?」
「ふざけるな、このケダモノが…!! さっきまで一体何人の男と乳繰り合ってたか知らんが、足りなかったのなら一人で勝手に……ッ」
「乳繰り合っちゃいませんよ。 一方的に輪姦(まわ)されてただけです」
 ―――さらりとおぞましい単語を口にした男を、ゲオリクは思わず怒りも忘れ、唖然と凝視してしまった。
 完全に感情の波の凪いだ、仄暗い双眸でゲオリクを見下ろすダッシュウッドは、やがてその蒼い、まっすぐな眼差しに居たたまれなくなってか、苦しげに瞼を伏せて瞑目すると、フッと翳りの濃い微笑みを不器用に繕った。 それがゲオリクには、今にも崩れそうに、泣き出しそうに歪んだ表情……であるように、見えた。
「―――なんて、ね。 まあ、そう過剰反応しなくたっていいじゃないッスか。
 今宵はバレンタイン、無礼講の夜ですぜ。 ここで旦那と会えたのも、何かの縁てヤツでさあ……」
 するり、としなやかな両腕がゲオリクの首筋をかき抱く。 男の身じろぎのたび、ローブの裾から鼻をつく荒淫の残り香は、ゲオリク自身も解せないほどの胸焼けを起こさせていたが―――先刻の縋るような目がまだ視界にちらついている気がして、その腕を無碍に振りほどくのは躊躇われた。
「…バレンタインだから、何だと…? 親しい者に贈り物をする、ただそれだけの…日、だろ…ッ」
 すると味をしめたようにしつこく唇を近づけられるので、ゲオリクは顔を逸らすことでやんわり避けた。 が、男のほうでもそれは予測の内にあったと見え、堪えたそぶりもなくゲオリクの頬の横に手を添えると、黒髪に埋もれた耳朶を舌先でまさぐり、甘く食んできた。
「地上じゃ、そんなもんですかい? のどかなこった…。 地下ではもう少し情熱的で……過激ッスよ」
 普段のクリアな低音が、今日は声帯を傷めているのか、言葉の端々が危うげに掠れる。 …今の密着した近さではそれすら扇情的に聞こえ、ゲオリクは鼓膜からの刺激に脳髄までも支配されるかのような錯覚に、震えた。
「……ねえ、旦那。 『ルペルカリア』ってご存知ですか?」
「…知、るか……っ!」
「女神の誕生日の前夜祭のことだとかで、バレンタインデーの由来らしいんですけどね。
 この日にはもうひとつ、“血の(ブラッディ)バレンタイン”って愉快な逸話がありやして―――」
 熱い吐息と舌先に耳をくすぐられ、首筋をなぞられて、ぞくぞくと脊髄が粟立つ。 悪寒か、それとも快感なのか……その境界はもはや霞み、入り混じって、ゲオリクにも分からなくなり始めていた、とき。

「昔、なんたらって司祭の男が、拷問のすえに処刑されちまった日なんだそうでさあ。
 結社(うち)ではそのふたつの歴史にちなんで、この日は夜通し、盛大な祭を催すんです。 毎年、厳正な審査のもと選ばれた一人が、そこで司祭役を務め……ほかの団員たちからの拷問、そして乱交の生贄となる……」

「……乱交?」
「あれ、ご存知ないッスか。 …ルペルカリアってのは元々、愛欲をきわめた乱交パーティのことでしてね」
 ひとしきりゲオリクの反応を眺めたあと、ダッシュウッドは黒い外套の肩口に額をうずめ、そっと抱きついてくる。
 目を合わせようとゲオリクが首を巡らしても、男はその視線をこそ避けたいかのように、顔をあげないままで。
「………もう、分かりますよね、旦那。 今年のバレンタインの司祭(いけにえ)は………オレ、なんですよ」
 消え入りそうに掠れた声音。 ―――背に回された腕から伝わってくる、かすかな震え。
 しばしの間、ゲオリクは紡ぐ言葉すら見出せず、じっと男の独白に耳を傾けてやることしかできなかった。


「……それで。 お前は、そこから逃げてきたと…?」
 逡巡のすえにどうにか形をなした返答だったが、腕の中の身体がびくりと怯えたようにこわばり、離れていくに及んで、ゲオリクは言葉を誤ったと後悔した。 …なじるつもりなどなかったのに、ダッシュウッドの話した悪夢のような事情、それに対する敬遠や畏怖が、隠しきれずに露呈してしまったのだろう。
 ゲオリクの口調に含まれたわずかな棘を、責める色と感じてか。 ダッシュウッドはにわかに(おのの)き出す。
「だ、…ってオレ、…あそこにい、たらおかしくな、……て…」
 不規則に揺れ、途切れがちになる声。 廃墟から落ちてきたときと同じように、琥珀色の瞳が澱み始めていた。 抑圧された諸々の感情が、その奥で濁流のごとくに荒れ狂い―――己とは違う、別の何者かに向けられているのだと、ゲオリクもようやく理解に達する。
「…あ、たま痛ぇ……のに、欲しくて、アレが欲しくて。 …死にそうに痛ぇんです、欲しくてたまんねえ、…う……逃げ、たりしません。 ……も……暴れま、せん、から」
「落ち着け、ダッシュウッド! 俺だ!!」
 力の限りの怒声とともに両肩を掴んで、揺さぶる。 浴びせられた叫びの烈しさに男は硬直し、竦みきった眸でゲオリクを見た。 ダッシュウッドの裡にまだ残っているはずの正気に訴えかけるよう見つめ返しながら、ゲオリクは重たく胸に沈む不快感を堪えた。 常軌を逸した行動、尋常と思いがたい目の原因は、これか。 ―――掴んだ肩の異様な火照りもまた、疑惑を確信へと繋いだ。
 この男、薬物を使われている。 …それも依存性と、催淫効力のきわめて強いものを。
 抵抗を削ぐため、そして、狂った儀式の場から逃げられなくするために。 この身体に細工したのだ、何者かが。
「………サンドウィッチ伯爵か」
 びく、と男の全身がおぞけあがって、後ずさろうとする。 ゲオリクは視線を離さず、慎重に言葉を選んだ。
「何をされ……いや、いつからだ? …昨日今日じゃない、かなりの期間……折檻を受けていたんだろう」
「…………」
「俺はお前に危害など加えない、断言する。 …もし辛くなければ、いつから薬を使われたかだけでも話してみろ。 ある程度、毒性を中和する薬くらいなら処方できるかもしれん」
 唇を噛み締め、俯いていたダッシュウッドだったが、黒髪の男の真剣な声音と手のひらの温かさにいくらかの安堵感を得たのか、細い声でぽつぽつと吐露しはじめた。
「……年が…明けてすぐ、ぐらいの時期、に。 …『仕込み』に耐えられなくて、オレ一度逃げ出して……その罰に鞭打ちと、アレを…使われて……それから、ずっと」
「ずっと? …まさか、毎日か?」
「『仕込み』は毎日…、オレは覚えが悪いから。 でも、アレは二日おきぐらい、で」
「…どんな薬だ。 何か、特徴は覚えているか? 色や、匂いは」
「……分か、りません。 いつも……後ろから、直接…中、に入れられて、その後は記憶……が…」
 そこまで打ち明けると、男の表情がサッと色を失い、視線はせわしなく移ろいはじめた。 サンドウィッチの前で尻をはだけさせられていたことをみずからゲオリクに告げるのは、眩暈に近い羞恥をともなったようで、またしても錯乱の翳りが兆す前に、ゲオリクは男の肩をしっかりと掴みなおした。
「…もういい、しゃべるな。 とにかく、いったんうちへ来い。 詳しく症状を診て、それからしかるべき処置をしよう」
 力づけるようにダッシュウッドの背を軽く叩き、支えながら身を起こす。
 ―――しかし、立ち上がろうとした矢先、男は何を思ったか、ふたたびゲオリクの外套を地に縫いとめた。
「! おい、何を……―――ッ!?」
 戸惑う呼びかけが途中で凍てつき、ゲオリクは全身をこわばらせた。 いつの間にかベルトを抜き取られていた上着と脚衣の間から、男の手がすべりこむように侵入し、直に触れてきたのだ。
 明らかに悪戯ではない、官能を煽る動きで握られ、ゲオリクは迸りかけた低い喘ぎをすんでのところで堪えた。
「…こ、の馬鹿…っやめろと言うのが……ッ」
 毒づきながら押しのけようとするが、長い指先にからみつかれ、愛撫されると、罵倒もただの悩ましげな吐息の中へと飲み込まれてしまう。 もがくように身じろぐゲオリクの下半身に圧しかかり、脚も使って押さえつけながら、ダッシュウッドは内なる激情への酔いともとれる、蕩けた瞳を注いだ。
「無理―――ですよ、旦那……」
 陶然とした微笑とは裏腹に、トーンを下げた控えめの声にはどこか物憂げな、あきらめの響きがあった。
「…な、にが…」
「……オレ、見張られてる…んです。 輪姦(まわ)された、ってさっき言ったでしょ? 奴ら、逃げたオレを追ってきて……さっきは旦那が、来てくれたおかげで…助かりやした、けど、…今も多分、そこらじゅうに潜んでる」
 はっと息を凝らして、ゲオリクは周囲の闇を見回した。 ―――粘っこく、気色悪いと感じていた闇。
 が、すぐさま中心を這う指に力を込められ、痺れのように駆け抜ける快感に思考を遮られてしまった。
「だから、…ね、旦那……オレ、薬なんていりませんよ。 いただける、なら……旦那がいい」
 暴行の記憶が引きずり出されたことで、その身に嫌というほど摩り込まれた悦虐までもがよみがえったのか。 ダッシュウッドは衝きあげてきた情動のままゲオリクに挑みかかり、荒々しく雄をまさぐった。
「うッ…、…っ…く…」
 まだ熱をくゆらせているそこを扱かれて、一度は鎮まりかけていた悦楽の火種が息を吹き返す。 艶っぽい呻きが洩れてしまうと、それはもう留められなくなり、ゲオリクの背が弓なりにしなって、黒衣の上でのたうった。
 ダッシュウッドの手のひらの中で、先端がズボンの布を押し上げてくる。 苦しい―――と思った瞬間、留め金の外れるかすかな音とともに、下肢をくつろげられるのがわかった。
 制止する間もなく、衣服の奥から、そそり立ったものを探り出される。
「…! よせッ……お前、気は確かか!」
 だが、ゲオリクを狼狽させたのはその感覚ではなかった。 男が自分のローブの裾をまくり、無数の蚯蚓(みみず)腫れの走る内腿をさらすと、僅かのためらいもなく開いて、押しつけてきたからだ。
 後方の傷ついた秘裂へ、今またわざわざ男を銜え込もうと。
「ど、うして……」
 焦燥するゲオリクの反応が理解できないというように、ダッシュウッドは血気のないやつれた顔に、媚めいた、緩やかな笑みを張り付かせて、見上げてくる。
「突っ込むほうなら、そんなに悪い気、しないでしょう…? 一回きり、の穴とでも思って、ちゃんと、気持ちよく……します、から。 …オ、レもう、我慢すんの嫌だ……旦那がほしい。 旦那ので突いて、オレを抉って……壊して…」
 理性が崩壊したかのごとく、切れ切れに懇願しつづける男を、ゲオリクは愕然と見つめた。
 黒髪の麗人が身動きを止めたとわかると、男は慣れた動作で腰を浮かせ、下腿の窪みにそれをあてがう。
「……やめ、ろ」
 引きつる喉でゲオリクは拒んだ。 このまま、この男と繋がってしまっては駄目だ。 ―――絶対に、駄目だ。
 お願いだから…、と泣きそうに潤んだ金色の双眸が訴えている。 …それでも。
「―――やめろ……ッ!!」
 悦楽の誘惑に耳を塞いで、ゲオリクはすべての気力を振り絞り、ダッシュウッドを突き放した。

 このまま、いっときの欲望に流されて肉体を繋げてしまったら。
 俺はあの男と変わらない。 ……こんなになるまでこいつをいたぶり続けた、汚らわしい男と、同じだ。

 

 

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