闇夜に溶けるように小さくなっていく黒い背中を名残惜しげに見送っていたダッシュウッドは、その影が遠くの角を曲がって完全に見えなくなるや否や、音もなく伸びてきたいくつもの腕に羽交い絞めにされた。 両手両脚をそれぞれ数人がかりでがっちりと押さえられ、首を上向かされて、視界をそむけることすら赦されなくなる。
「……あの男と何を話していた?」
 乱暴に顎を獲らえている手の持ち主が、闇色のローブの奥から低く詰問した。 応える代わりに唾でも飛ばしてやりたい心境をこらえながら、ダッシュウッドは吐き気をもよおさせるその顔を睨みつけた。
「…お前らに関係ねぇ……離せよ」
 言った途端、ダッシュウッドの身体は裏返され、背後にあった石壁に荒々しく押しつけられる。 束縛を免れようと彼はもがいたが、すかさずローブの裾からもぐりこんだ指が双丘の谷間へ押し入ってくると、「うッ…」と下腿を引きつらせて目を剥いた。
 奥でまだくすぶり続けている肉欲を、嫌でも思い出させられる、粗暴な触れ方だった。
「往生際の悪い司祭殿だなァ。 この期に及んで、まだ自分の立場を理解してないとみえる」
「この様子では折角の祭りをも台無しにしかねんな。 やれやれ……」
 飢えに黄ばんだ目つきで、思い思いに獲物の肌をまさぐっては哄笑しあう男たち。 殺さない程度に痛めつけて連れ戻せという党首の命を笠に着ている彼らは、嬲る手にいささかの遠慮も加減もなかった。
「儀式の刻限までまだ一刻半は優にある。 …それまで、もう少し灸を据えてやるとするか」
 後孔を弄り回していた男が指を引き抽きながら目配せを送ると、ダッシュウッドの両脇を左右で抱える二人がにんまりと頷き、『司祭』を引っ立てて歩き出した。 周囲を囲むほかの者たちもまた、色めきたってそれに続く。
 朽ちかけた、しかし闇の要塞のようにそびえる廃墟を目指して。
 ―――あの中に連れ込まれたら、また……。
 ()きずられ、否応なく歩かされながらダッシュウッドは、戦慄に眩暈がよみがえるのを感じた。

 

 サンドウィッチに連れられ、初めて結社の『ルペルカリア』に出席させられたのは二年前。
 その年の『司祭』が壮絶な責め苦で嬲り殺しにされた光景は、今も鮮烈な記憶として脳裏に灼きついている。
 …そして去年の男はどうにかそれを乗りきったものの、ほとんど虫の息だったところへ、無数に群がる男たちの獣欲を次々と受け止めさせられ、悦楽と苦悶のはざまで果てていた。
 地獄の火クラブのバレンタインデーは、歴史崇拝の名を借りた大々的な私刑(リンチ)の執り行われる日なのだ。
 その『司祭』―――すなわち貴族や役人たちの退屈と欲望を満たすための供物、に抜擢されたことを知るや、即座に罷免を乞うたダッシュウッドだったが、サンドウィッチがそれを聞き入れるはずもない。 その日から早速、苛虐に身体を慣れさせる『仕込み』が始まり、連夜の暴行に耐えかねたダッシュウッドが主の目を盗んで逃走をはかると、今度はどうあがいても自身の意思では逃げられぬよう、あるものを体内に入れられるようになった。
 中和剤を服用しない限り、半永久的な依存性をもたらす……奇しくも『chocolat(ショコラ)』と称される、強力な媚毒。
 あられもない場所からそれを注入され、執拗な淫佚(いんいつ)に悶えさせられているうちに、ダッシュウッドはあんなにも 苦手だったはずの、受身の肉欲……雄刃で貫き、抉り回してもらわねば収まらない衝動、が身体の裡に巣くいはじめたことに、心底から慄えあがった。
 このままでは、ここにいては―――自分は気が()れる。 なにか別の、異質な自分に作り変えられてしまう。
 そんな恐怖が日々、黒い染みのように胸いっぱいに拡がっていき、宴の当日を迎えて理性を覆いつくしたとき、ダッシュウッドは無駄なあがきと痛感しながらも、結社を抜け出そうとする足を止められなかった。
 ほどなくして、追っ手が放たれた。 ただでさえ衰弱しきっている『司祭』に、党首の差し向けた屈強な男たちを振り切ることなど不可能で―――数刻と待たず、ダッシュウッドはこのスラム奥の廃墟の中へ追い込まれた。
 それでもサンドウィッチの部屋をすり抜ける際、一度目の逃亡の頃から没収されている鞭の代わりにと、適当に掴んできたナイフを振りかざして抵抗した。 気色ばんだ男たちは、血走った目でダッシュウッドを押さえ込み、しまいには伯爵に渡されたのであろう『chocolat』を持ち出して、容赦ない強硬手段に訴えた。
 死に物ぐるいで抗っても、その媚毒を後ろへ塗り込められると、数を頼みに無理やり犯される恥辱も、苦痛も、眼も眩むほどの快感へと変わってしまう。 …猿轡の奥で咽びながら、幾度となく極め、やがて意識までもが白みはじめたころ……ずっと抑圧されてきた心が、深層の(らち)を越えてあふれ出したのか。
 声にならない声で、ダッシュウッドは世界でもっとも愛しい、かの人の名前を叫んだ。


 ―――最初にゲオリクの心を(さわ)がせた、呻き声のような『風』。
 それは、なすすべもなく幾人もの男に蹂躙される男の、魂が発した悲鳴だったのだ。


 幾度目かの絶頂へ追い上げられ、気を失う寸前―――不意に、響いた靴音。
 闇を従えて現れた、艶やかな姿は、邪淫にふけり夜を穢す愚者たちを律するべく降臨した、暗黒の王のごとく。
 ……否。 王というより、あれはむしろ―――……。
 ダッシュウッドは己の唇を舌先でひと撫でした。 …そこはまだ、あの甘い薔薇色の唇の余韻に浸っている。
 そして……心臓の深奥は、離れざまに鼓膜へ囁かれた、甘美な声に。

 

 (お前の望むものを用意して、待っている。 …どんなものでも、くれてやるから)

 

 あの美しい黒髪のひとは、本物の女神様に違いない。
 だって、あんな一言で。
 心も、身体も萎え果て、いっそ死んだほうが楽だとすら思い始めていた自分を、あんな子供騙しめいた一言で。
 絶望の闇から、引っ張りあげた。 希望という導を、目の前に刻みつけた。 …いともたやすく、救ってみせた。


 それも、このうえなく彼らしい方法で。


 (……わかって、たんだよな。 旦那も、…否、オレ自身にしたって……きっと)

 オレが結社の一員である限り、どこまで逃げ回ろうと同じこと。 旦那に泣きついて一時凌ぎの逃げ場を求めたところで、その後に待っているのは無関係の彼をも巻き込み、さらに根を深めた悪夢のスパイラルだけ。
 これはオレの問題。 オレが自分で、自分の足でもって立ち向かい、踏み越えなくてはならない現実だから。
 だからあのひとは、あえて回避策を用意してはくれなかった。 オレに自力で血路を開くことを示唆するように、先にゴールへ行って待っている、と言った。 …そう、「待っている」と言ったのだ。
 まるで、最初からそここそが目指すべき地だと。 ―――お前の帰る場所は『ここ』なのだと、告げるように。


 さながら、彼という人格そのもののような。 不器用で、冷たくて厳しい………やさしさ。

 

「ふ、……クク、」

 腐臭の漂う廃墟への扉をくぐろうとした、まさにその直前。
 曳きずられるままにぐったりと垂れ下がっていた『司祭』の足が、にわかに力を得たかのごとく、踏みとどまる。
 つられて立ち止まった男たちの、訝しげな視線の中央で、ダッシュウッドは細かく肩を痙攣させていた。
 ―――(わら)っているのだ。
「クッ…、ハハ、…ぁッはは、ハ!」
 こうべを俯けた体勢で、低い、噎せるような笑い声を上げつづける男を見て、ぐるりと取り囲む狩人たちの眼が、次第に煩わしげな、それでいて暗い満悦の色をたたえたものに変わっていった。 精神の臨界点を越えた獲物がこうなるのは、彼らにとって珍しくもなんともない慣れた日常だ。 軟弱な、との嘲りと、狂気の発露しかけている者をたっぷり()かせてやれる歓喜とに、闇の住人たちは背徳の欲情をつのらせる。
 だが、

「やめとけよ」

 ぴたりと嗤笑を収め、面をあげて、そんな彼らの思惑を返り討った『司祭』の眼光は。
「今からこんなとこで呑気におっぱじめてみろ、間に合わなくなるぜ。 お楽しみの本番はもうすぐだろ?」
 狂人のそれなどではなく。 ―――獰猛な野生の狼さながらに、たった一匹で狩人の群れを、射すくめた。

「心配すんな。 頼まれたってもう、どこへも逃げやしねえから。 ……絶対、逃げねェ、二度と」
 言葉尻はおのれの胸に、そして目に見えぬなにかに誓うかのごとく、清冽な声で『司祭』はつぶやく。
 辿り着く先には、彼がいる。 こんな自分を、待ってくれている。
 …降りかかった災難ではない、あの黒髪の女神の与えたもうた試練なのだと思えば―――乗り越えられる。


「…ルペルカリアまで、もうちっと待ちな。 まとめて相手してやるよ。 何度でも……夜が明けるまでは、な」


 つい先刻まであれほど弱々しかった男の、突然の変貌にすっかり気圧された追っ手たちの腕を鬱陶しげに振り払い、ふらついた足取りで迷わず結社への道を歩き出しながら、ダッシュウッドはふと空を仰いだ。
 あの月が天の中央に君臨するとき―――宴の始まりまで、あと一刻半。
 だがその胸には、不思議な昂揚がある。 先ほどまでの抑えがたい肉欲の疼きではなく、もっと清々しいもの。 例えるならば武者震いを抑え、意気揚々と戦場へ赴く、年若い兵士のような……とでも言おうか。
 背後で、憮然たる面持ちからようやく我を取り戻したローブの男たちが、慌ててぞろぞろと付いてくる。 祭りへの期待にそぞろ浮き足立つ彼らの、生臭い視線を腰の後ろに感じながら、しかしダッシュウッドの唇は、不敵な微笑を形作っていた。
 恐れるに足らない。 もはや今宵の狂った宴など、無意味な座興だ。 …真のバレンタインデーは、明晩。


 (…“Goddess bless you”―――)


 今ならば、どれほど苦いチョコレートだろうが、笑って噛み砕ける気がした。

 

 

<Fin.>

 


 

 後書きです。

 「Goddess bless you」=「女神のご加護あらんことを」
 2月15日は神々の女王・ユノーの誕生日で、それを祝って前日の14日には、かつて「ルペルカリア」という乱交祭りが大々的に行なわれていたんだとか。
 …ちろっと聞きかじった程度の知識なんで、どうぞ深くは突っ込まずに…!<そんなものを引用するなと;

 チョコレート云々に関しては完全に日本オリジナルの習慣なわけですが、ハードランドはわりと日本人に親しみやすい国(通貨レートが1ゼク=1円ですし。笑)だったりするので、バレンタインっぽさを強調する架空の設定の一つとして取り入れてみました。どうせこのssも日本語で書いてるんですしね!(笑)
 結社のバレンタインは…流石にこんな血生臭くなかろうと思いますが、あの結社ならありうるのでは、と(爆)
 …ちなみに序盤の「ウィスラー」は話題に出したかっただけで…ストーリーには無関係です。 すみません;;

 ともあれダッシュは翌日、旦那への愛と根性でゴール(ザベリスク邸)へ辿り着きます。
 そして約束どおり、ご褒美に旦那としっぽりですvV 2月15日、女神の誕生日が彼らにとっての本番。
 
…どうせならそっちをssにした方がよっぽどバレンタインっぽくなったかもな、と今更思ってみたり…(^-^;)


 と、ともかく、最後まで読んで下さって有難うございました!!
 賞味期限切れすぎの上にやたら生臭いチョコになりましたが(汗)、この後の旦那とダッシュの甘い夜に想像を馳せていただけると幸いですvV(*´∀`*)

 

 

+ Back +

+ Quit +