それほど力まかせに突き飛ばしたつもりはなかった、にも関わらず―――或いはそれだけ消耗していたのか、ダッシュウッドの身体はあっけなくよろめき、傍らの石塀に叩きつけられた。
ずる……と背中が崩れ落ちたかと思うと、壁にもたれて座り込むような体勢で動かなくなる。
「……おい……ダッシュウッド?」
力なく項垂れたままの男に不安をかきたてられ、ゲオリクは思わず肩を軽く揺すって、呼びかけてみた。
長い沈黙をおいてようやく身じろいだダッシュウッドは、しかし乱れた赤毛の奥の顔を上げようとはせず。
「………す、よ…ね」
ふと、虚ろな声が独り言のようにこぼれ落ちたとき、その髪の切れ間にかろうじて、口許だけが覗いた。
「……やっぱ……嫌、ですよね。 …こんな……汚ねえ身体、抱、くなん…て」
深く俯いたまま、自嘲を湛えて―――小刻みに震える、唇が。
「ちがう」
ほとんど声になっていない呟きをさえぎり、ゲオリクは無意識のうちで、男の肩を掴む手に力を込めていた。
「そうじゃない。 ダッシュウッド、…今のお前は」
正気を失っているんだ。
静かに言い含めるよう、可能な限りやわらかい医者の声音をまといながら、そっと持ち上げた手のひらで優しく髪を撫でてやる。
その間、ほのかな温もりに身を任せたかったのか、単に振り払う気力が残っていなかっただけなのか……ダッシュウッドは睫を伏せ、ただぼんやりとした様子で、されるがままだった。
「………女神、様」
だから、しばらく経ったのちに男の喉からそんな単語が発せられても、ゲオリクは目の前の相手が、いまだ薬におかされた夢想の海を漂っているゆえのものと冷静に考慮し、愛撫の手を休めずに相槌を打った。
「お、願いが……あるん…です。 女神、さ…ま…」
「…なんだ……言ってみろ」
「―――を、」
「ぅん…?」
端の掠れた声がよく聞き取れず、検める代わりにダッシュウッドの、俯き加減の表情を覗き込もうとしたとき、男が思いがけず面をあげてゲオリクを見たため、視線が交わった。
「………洗礼、を………最初で、最期の」
―――ぎくりと、宥めていたゲオリクの手が止まる。
琥珀色の双眸のどこにも、先刻までの暝い澱みはもはや、見つからなかった。
まどろみの中で戯言を口走っていたわけではない。 ダッシュウッドはゲオリクを認識したうえで、ゲオリク自身に向かい、みずからの望みを訴えかけているのだ。
そう、今も。
「女神様………ご慈悲を、どうか。
……あそこに戻って、何百人かの股座(這いずり回らされるぐらいなら……」
今、この場で、あなたへの………供物に。
そう言って、慕わしげな破顔とともにゲオリクの手をとった男は、そのまま、ゲオリクの左腰へと手を導いた。
―――左腰に下げられた、長剣の、柄へと。
たとえば病魔は取り憑いた人間の身体を蝕みきってしまうよりも先に、その人間を死に至らしめることがある。
たとえば……絶え間なく苛みつづける苦痛が、生への渇望までも食い荒らし、枯渇させてしまったとき。
想像を逸した恐怖、そして―――絶望。 併発するそれらの『病』を越えられない患者にとって、終末すら見えぬ苦患(に襲われる生と、安らかな死と。
どちらが救いであるか、どちらに手を伸ばすかは明白で。
今のダッシュウッドの瞳は、そうした末期の死病をわずらう患者のそれに似ていた。
(………何故、だ。 何をどうすれば、ここまで)
もはや言葉などひとつも出てこず、ゲオリクは茫然自失の境地でダッシュウッドを見つめた。
自分が記憶している限り、この男ほど、生に対して貪欲な執着をもっている者はいない。
いつでも傷だらけの身体を引きずって闇を渡り歩き、社会の裏側のもっとも醜い汚辱にまみれ、…それでなお平気なそぶりを装い、何食わぬ顔で日々を乗り越えている。
汚れても這いつくばっても、そのたびに泥の中から立ち上がって。
そのダッシュウッドが、斬り捨ててくれと自分に乞うてくるのだ。
……年が明けてすぐのころから、と言っていた。 今は二月の半ばだから、日付にすればひと月半弱。
ものの五十日足らず―――それでもこの男にしてみれば、気が遠くなるほど永い時間だっただろう―――で、いったいどれほどの陵辱を加えれば、ここまで恐懼(の淵に追いやることができるというのか。
こんなにも必死に生にしがみついてまで、生きてきた男を。
何故―――……。
ゲオリクはこめかみが痛むほどに愁眉を寄せて、瞼を閉ざした。
そうでもしなければ、ふつふつと心が煮えたつ激情をもてあまし、衝動的に抜剣してしまいそうだった。
この男を気絶させるかして無理やりにでも連れ帰り、ほとぼりが冷めるまで匿ってやるぐらいは、簡単だ。
……あるいはこの男の望みどおり、今ここで息の根を止めてやるにしても、特段難しい相談ではない。
―――だが。 そんなことでは、こいつは……。
(…どう、したら)
いったい、どうしたら。 闇の沼底に沈もうとしているこの男を、本当の意味で救い出してやれる―――?
永劫にも感じる狂おしい刹那の中、めまぐるしく思案を巡らせていると、ふと手の上の感触に意識が及んだ。
ゲオリクの片手を剣に添えさせるかたちで、遠慮がちに握ってくるダッシュウッドの手のひら。
あんなにも熱かったものが……今はすべて燃え尽きたかのように、いつのまにか温度をなくしている、それ。
そのとき、いがみあういくつもの理性のうち、忘れかけていた一つが突然、弾けとんだ。
「……女神様、だと……?」
ゆらりと身を起こし、目の前で仁王立ちになった長身の影に引かれて、ダッシュウッドの虚ろな視線が上向く。
…そこへゲオリクは指先を伸ばし、二度と俯くことができないように顎を捕らえると、
「っ、…ぐ…ッ!」
驚愕に凍りついている唇の奥へ、情欲の余熱を残す雄を、強引にねじこんだ。
「…しゃぶれ」
短く、それだけを命じたゲオリクは、反射的に後ずさりかけた男の頭を石塀との狭間に追いつめながら、あやすかのように髪を撫ぜ、先端が喉の奥まで到達しない程度に加減して腰を揺らした。
初めこそ、口の中いっぱいに押し込まれた質量に苦しげな唸りをたてていたダッシュウッドも、やがてそれがゲオリクのものなのだと思考が追いついてきたようで、自分から積極的に舌を使いはじめた。
ゆるゆると穏やかに絡み合う熱が、互いの息を弾ませていく。
「ッハ、…ん、……は…、っ」
あたたかな蜜壷と舌の感触に、否応なく高まる性感。 石塀に縋って崩れ落ちそうな膝を堪えていたゲオリクが寸前で抽(き出そうとした瞬間、ダッシュウッドはゲオリクの両腿にかきつくと、口淫を愛咬へ変え、貪っている熱を逃がすまいとした。
「あ……っく、ッ…!」
ずきん、と強烈な悦楽が衝きあがるのと同時に、ゲオリクは奥歯を噛みしばり、精を解き放っていた。
それに噎せかけながらも、のけぞった男の喉が幾度か動いて、吐き出された蜜を当然のように体内へ落とす。
そこからまた舌を蠢かされる気配を感じてゲオリクは、抑制の効くうちに芯を抜き取った。
あ…、と切なげに声を洩らした唇が、離れていく熱を惜しむような銀糸にぬらついている光景を見下ろすうち、身体の奥の深い部分に認めたくないざわめきが沸き起こるようで、ゲオリクはひとつ深呼吸してから着衣を正した。
確かにこいつには、男の加虐性を異常にそそる何かがあるのかもしれない。
思うがままに嬲り、喘がせてやりたい……と感じさせる何かが―――。
「……最初に、不埒な真似をしてきやがったのは…お前だからな。 これで、おあいこ(と…思え」
ろくでもない劣情が手をつけられなくなる前に、蓋をして思考の外へ押しやると、まだ気の抜けた、くたりとした居住まいの男に右手を差し出した。
「…ほら。 ダッシュウッド」
首をかしげて見上げてくるダッシュウッドに、手を取れと促す。
困惑にまばたいて、おずおずと重ねられた手を強く握り返すが早いか、ゲオリクは男の身体を引っ張り上げるようにして立たせた。
ばさりと広げたマントに包み込んで、抱きしめ………先刻、ダッシュウッドがしてきたのとまったく同じ要領で、ゲオリクの唇が男のそれと重ね合わされた。
「ん、……ンッ…」
舌を差し込んでやると、男は驚きに白黒させていた目をぎゅっと閉じて、しがみついてくる。
自分から仕掛ける時は大胆すぎるぐらいのくせにな、と少し微笑ましい気分になりながら、舌先で無造作に歯列や内腔をなぞり、荒らしまわった。
…時折、自身の白濁の苦味らしきものを感じたが、それがこの男の体内に溶けていったのだと思うと、不思議な昂揚が心地いい―――。
陶酔の一瞬から自我を引き戻したゲオリクは、そっと口付けを解き、熱情にそぼつ琥珀色を覗き込んだ。
「……さっきので五分(、だから今のは…『貸し』だ。 …いいか、ダッシュウッド」
よく聴けよ、と前置いて、ゲオリクは伝えたい意思のひとつひとつを男の意識へ焚き染めるかのように、やおら言葉を紡いでゆく。
「返してほしかったら……その宴とやらが終わった後で、俺の屋敷を訪ねてくるんだ。 急ぐ必要はない、ゆっくり身体を休めて、動けるようになってからでいい。
……明日以降に俺のところへ、祝いに来い」
「……明日、以降……祝、いに…?」
ダッシュウッドの怪訝の表情。 それにゲオリクは一旦、言いづらそうに口調を濁し、
「…『女神の誕生日』の『前夜祭』、なんだろう。 今夜は」
吐き捨てるようにそう告げる。 と、流石にバツの悪さから仏頂面に戻ってそっぽを向き、身体を離した。
「――――――」
離れる、直前。
周囲に息を潜めているという慮外者たちに、…否、ダッシュウッド以外の誰にも決して聞こえない小声で。
ぼそりと耳打ちした。 その言葉により、目の前の男が表情を変えてくれることを願って。
「…マ、ジすか…? ど、…どんなもの、でも…?」
「ああ。 だから……」
「行きます。 絶対、行きます…!」
「…その意気だ」
果たして男の目に、やっといつものふてぶてしい生気が戻ってくる。
そんな目を見て安心してしまう己に対しての苦笑も兼ねていたが、―――ゲオリクは今夜ここへ来て初めて、まともに微笑ってみせることができた。
「…あ、旦那。 プレゼント、何がいいッスか?」
ゲオリクの発破が絶大な効果を発揮してか、すっかり落ち着きと普段のペースを取り戻したダッシュウッドに、ひとまずもう案じる必要はあるまい、と胸を撫で下ろしたところへそんな脈絡の見えない声がかかり、ゲオリクは帽子の砂埃をはたいていた手を止めて、胡乱なまなざしを向けた。
「や、だから……誕生日プレゼント、ですよ。 手ぶらでお邪魔すんのもなんですしね。 …女神様のご所望は?」
にい、と悪ふざけ半分のにやついた笑顔を浮かべながら、男は応える。
―――そんなもの、別にいらない。 お前がちゃんと無事な顔を見せに来れば、それで充分だ。
そう言えば済むことなのだが、口に出すとなにやら途方もなく気障りな口説きまがいの科白になりそうで、やや気が引けた。
なにか適当なものは……と記憶の引き出しを漁ったところ、先刻の馬車の中でうたかたの夢路に見た、妹とのかつてのやり取りがよぎる。
(―――……はね、魔法のお菓子なの。 一番好きな人に贈ると、その想いが片想いなら―――)
「……『チョコレート』」
へ? と間の抜けた疑問符込みで、ダッシュウッドがゲオリクの発した単語を復唱する。
「チョ、…コレートって、菓子のアレですよね…? …そんなもんで、ホントにいいんですかい?」
「…ああ」
ゲオリクはとりあえず、肯いておいた。 単に否定したら代わりの要望を考えなければならないわけで、それが億劫なだけだったのではあるが。
実際、本物の誕生日というのでもなし、贈り物など本当にどうだっていいのだ。
…この男が、闇の泥濘を踏み越えてでも前へ進むための目的。 力。 そのきっかけとなりさえすれば、それで。
「じゃあ、俺はもう行くぞ。 ―――本当に、薬はいらないんだな?」
「ええ。 …どのみち今いただいても、無駄なんで。 後日、改めて旦那のお屋敷を訪問したときにお願いしやす」
「…わかった。 こちらでも準備を整えておく」
無数の医療器具が仕込まれたマントを元どおり纏い、踵を廻らそうとして、ゲオリクはふと思い出したように手を伸ばすと、男の手をとって、そっと握りしめた。
「……温かくなったようだな」
「え?」
手袋を介してもちゃんと、確かな温もりが伝わる手のひら。
安堵のため息にダッシュウッドは不可解そうな面持ちだったが、「…なんでもない」と誤魔化すように深く帽子を被りなおしたゲオリクは、ばさりと外套の裾を捌くと、元来た道を戻るために踵を返した。
「旦那!」
数歩踏み出したところで、ダッシュウッドの弾んだ声に呼び止められる。
「…オレ、やっぱ明日にでも伺いますよ。
旦那をお待たせしたくねぇし……何よりもオレ自身、一刻も早く旦那に会いたくて、きっと傷が治るのなんかのんびり待っちゃいらんねぇ。
…祭りが終わったら、その足で直行します。 もちろん、とびっきり美味いチョコレートを携えてね!」
「……意気軒昂なことだ。 無茶をするのは勝手だが……これだけは言っておく」
あふれる期待を抑えかね、興奮気味にまくしたてる男に釘を刺すような声音で、ゲオリクがゆっくりと振り返る。
―――ダッシュウッドは思わず、顔面の緩みを収めた。
ぞっとするほど真剣な蒼眸に、まっすぐ射抜かれて。
「俺は、幽霊からの贈り物は受け取らん。 ……必ず、生きて訪ねてこい。 必ずだ」
美しく、苛烈なまなざしが男の魂を揺さぶり、魅了する。
ダッシュウッドはうっすら口角をあげた。 今度は締まりのない浮かれ笑いではなく、どこか獣じみた不敵さで。
「仰せのままに…、女神様。 今ならオレ、どんな目に遭わされようが、耐えきって生き延びる自信ありますぜ」
―――あなたが力をくれたから。
大丈夫だ、と。 その目を爛々と輝かせる金色の光に、ひとつ頷いたゲオリクもまた鋭利な微笑を返すと、今度こそ男に背を向けて歩き出した。
「約束しますよ、明日には絶対、五体満足で旦那のもとへ辿り着くってね。
…なんなら、合言葉でも決めときましょうか? 言質みてぇな、何か」
張りつめる緊張感をむしろ楽しむかのような口ぶりで、おどけてみせるダッシュウッド。
黒衣の長身はそれには振り返らなかったが、一瞬だけ相好を崩したかに、外套の肩が揺れた。
「―――“Goddess bless you”」
小さく独りごちた、…しかし冷たい夜半の空気に通りのいいゲオリクの美声は、はっきりと男の耳まで届いた。
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