たとえば 網膜に映るものでもなく
たとえば 鼓膜を震わすこともなく
たとえば 戯れに指先を伸ばしてみても
掴むことはかなわない 触れることすらも
されど この胸を静かに 確かに 焦がす
あなたと交わしあう温もりや
甘くやわらかな睦言は
時を経て燻る 残り香に似ている
Last Note.
王宮を彼方に望むカーマゼン郊外に、うっそりと聳える大邸宅。
贅を尽くした荘厳たる存在感を放ちながらも、不思議と夜の帳にしっくり馴染んだその館の前で、控えめな轍を従えた辻馬車が一台、止まった。
「お帰りなさいませ」
馬丁が客に到着を促すため、馬車頭を降りようとしたところで、屋敷の正門の傍らに待機していたオレはすいと片手を上げて、その動きを制した。
うやうやしく進み出て、中の人物に深々と頭を下げながら馬車の扉を開ける間、胡乱げな視線が降り注ぐのを感じた。 今オレがお辞儀してる相手からじゃなく、馬丁のおっさんから。
「……あのぅ…」
遠慮がちではあるが、はっきりと勘ぐってくる声音。
…ち、せめておっさんじゃなくてガキとかなら、何も怪しまれずに済んだろうに。 とにかくさっさと乗車賃を払って追っ払わねぇと、ここで時間を費やして待ってた意味がねぇってもんだ。
オレは対貴族用に柔和や知性を盛り込んだ営業スマイルに切り替えて、慇懃に応対した。
「ああ、お疲れ様です。 私どもの主人がお世話になりました。 少々お待ちくださいませ、ただいまお代を…」
「…あ、ぁいえ、お代は先に頂戴してますんで!」
すいません、と頭をかきながら馬丁は視線を外した。 思いのほか柔らかいこっちの物腰が疑念を拭ったのか、ある程度緩和しただけかは知らないが、とりあえず穿ってくる気はなくなったらしく、世間話の口調になる。
「最近からこちらでお仕事を?」
「ええ。 若輩ながら、旦那様のご厚情で庭園のお手入れを任せて頂いております。 夜目が利くもので、宵のうちに一仕事をと…」
適当にぺらぺら方便を並べているうちに、馬車の中でのそりと、でかい人影が腰を上げたのがわかった。
噂の旦那様のお目覚めか。 今のを聞かれてたかもしれないが、彼にしたってオレとの本当の関係を第三者に知られるメリットは皆無だ。 あえて反論もしてくるまい。
オレは再び車内に向かって頭を垂れながら、降りてくる『旦那様』の道を遮らないように横へ退く。
ややあって、殊更にゆっくりと、階を踏みしめる長い影。
―――影、と同じく黒々とした、長い外套の裾が風にはためいて。
「ッ危ね、っ……!」
ぐら、と前のめりに倒れてきた、オレよりタッパのある身体を咄嗟に支えることができたのは、瞬発力の賜物か下心の成せる業か。
今は前者のはずだと限りなくどうでもいい考えに囚われながら、はからずも抱きとめる形になった黒髪の主を軽く揺さぶって、呼びかけてみた。
「ちょ、旦那………さま。 ……ゲオリク、様ー?」
おっさんの手前、うっかり忘れた「様」を遅れて付け加えるも応答なし。 流石にちょっと心配になり、名前の方が意識に届きやすいかと思って呼んでみたんだが、無反応。
…否、反応は、あった。
だらんと身体の横に垂れ下がっていた両腕が持ち上がって、オレの背中に回された。そのままぎゅう、と力を込められ、頭は逆に弛緩してオレの肩口へ沈む。
漆黒のマントとお揃いの高そうな帽子が、さっき体勢を崩した拍子に足元へ滑り落ちたにも関わらず、至って気にも留めてない様子。
「……あ、…の……」
思わぬ情熱的なハグに、オレはすっかり固まってしまった。 思考も身体も、完全停止。
ぴったり密着した体温は服越しでも充分すぎるぐらいあったかくて、オレの顔面は夜目の利かねぇカタギのおっさんにもバレるぐらい、耳まで茹で上がってたんだろう。
馬丁のおっさんは軽い会釈だけ示した後、黙って馬に馬車を引かせて、来た道を引き返していった。
去り際に(若いなぁ…)とでも呟きそうな、妙に下世話な笑みを噛み殺していたように思う。
ひょっとしたら、ザベリスク家の若当主と新任の庭師は身分の違いを超え、きわめて親密な間柄にあるのだ…とか、ダイナミックに誤認されたかもしれない。 ……おおぅ、悪かねぇ……じゃなくて。
ガラガラやかましい辻馬車の騒音が虚空に薄れたころ、遅まきながら我に返ったため、宵の口とはいえ一応は夜という時間帯をはばかって、「あのー…」と問いかける声もなるべく潜めがちに。
「…ここ、往来ですぜ…。 いいんスか? 旦那……」
いや、オレは一向に気にしませんけど、一生このままでも構わねぇくらいなんスけど。
静寂の夜更け、寄り添うぬくもり、見ているのはあの月ばかり―――なかなかにオレ好みのロマンチシズム。 実態が噂に名高い『幽霊屋敷』に臨む大通りだろうが、浸ったモン勝ちってヤツだ。
今だけかもしれない旦那の気まぐれに快く甘えることにして、黒衣の背中に手を回す。 さらさらの長い髪の冷たさが、熱の上がった指先に気持ちいい。 恍惚とその感触を楽しみながら、目を閉じた。
オレの知る世界で最も美しい人の身体から立ち昇るのは、今宵もオレを酔わせる、かぐわしく芳醇な―――
(…………酒、の……ニオイ?)
「……気、持ち……悪……」
「えええぇー!?」
怨霊の嘆きもかくやというような、低く澱んだ声が聞こえて、夢心地は無残にも泡と消えた。
「気持ち悪い」ってあんた第一声がそれですか、自分から抱きついてきといてそれはあんまりじゃないんスか。 ほとんど泣き言めいた抗議が頭ン中に溢れかえったが、口に出したところで今は不毛だと、遅きに失した理解がようやく追いついてきた。
…クッソ、道理で積極的すぎると思ったんだ、今夜の旦那は。
どこで一杯引っかけてきたんだか、足元もおぼつかねぇほどしたたかに酔ってるらしい大男に抱きつかれ……というより杖代わりに寄っかかられて、オレまでよたつく羽目になる。
極端にタテに細長い体型のお人とはいえ、オレと同じか若干上ぐらいのウェイトはあるんだっつーの。
そのうえ。
「……ぅぐぇ……ぅう゛…」
蘇りたてのゾンビみたいな顔色で、せっかくの美貌に似つかわしくない奇声だか呻きだかを連発している。
かろうじて口元は押さえようとしてくれてるみてぇだが、……ってオイ、これって。 なんか、猛烈にヤな予感が。
「…っだああ!! 待った旦那、せめてもうちょい物陰に………ここで吐かないでェェー!!」
声を潜める余裕なんかありゃしねぇ。 オレは必死で旦那に肩貸して、なんとか路肩の植え込みまで誘導した。
さっきとまるで違う意味合いで撫でなきゃならなくなった黒い背中が、心なしか常よりススけて見えたのは……まあ、仕方ねぇだろ。 無礼者と罵ってくれるな。
◇◇◇
借金取りなんてのは、端的に言やぁ、がなる雇い主とごねる顧客との間を奔走する折衝役なわけで。
当然、そん時そん時で臨機応変に立ち回るのが役目。
オレもそれなりに長いことやってるが、強烈な酒臭さに持ち前の色気も形無しのお客さんを、半ば背に担ぐような格好でエスコートしてやる仕事なんてもんは、さすがに珍しい部類に入るかもしれない。
放っとくと人の背中で寝息を立て始めそうな伯爵様の肩を揺すって、鍵、と簡潔に告げると、旦那は億劫そうな手つきでマントの懐をごそごそ探り、小さい金属の束を引っ張り出す。
多少は警戒されるかと思いきや、拍子抜けするほどあっさり渡してもらえた。 …こりゃダメだ、完全に泥酔だ。
どれが玄関の鍵なんだか訊いても答えは期待できないと判断して、仕方なくひとつずつ試すことにした。 ……お、ラッキー、わずか2つ目で正解に辿り着けたぜ。
ぎぃぃぃ、と重たい扉を肩で押し開ければ、そこはもう、常日頃ならば隙間から覗かせてもらうことすら困難な、バカでかい豪邸内。
天井まで吹き抜けのだだっ広いエントランスホールから、各部屋に通じてるであろうドアがいくつも見える。 反射的に金目の物を物色したくなるが、まずは背中の取扱注意品を安置する場所を探す方が先決だった。
とりあえずベッドかソファのある部屋を…と、燭台の明かりを頼りに廊下を進む。 …誰もいないことが分かってても、極力靴音を殺しちまうのはきっと、長年の習慣ってやつで。
そもそもオレ、何しにここへ来てんだっけか。
ふと我に返って、文字通り全身にずっしり圧しかかる重みに、しみじみと溜息ひとつ。
あのクソ生意気な召使いのチビに今度こそ大人の商談を邪魔されねぇよう、わざわざ買出しに出かけるとこを見定めた上で、旦那のご帰還を待ってたんだ。
我ながら素晴らしいタイミングだったとちっとは自惚れてたってぇのに、これじゃあのガキに押し付けた方がよっぽど楽だったじゃねぇか。 嗚呼、オレってつくづく薄幸の子羊。
…まあ、一概に不運と呼べないほのかな温かみが、背からじんわり胸まで染み渡ってくるのも、事実だけど。
これでこのあったけぇのがアルコール臭じゃなくて、いつもどおり薔薇の芳香とか漂わせてくれてたら、もう何も言うこたぁなかったんだけど。
「………薔薇、」
―――てっきり夢うつつのさなかで彷徨ってるものとばかり思ってた背中の荷物が、いきなりそんなことを呟くもんだから、オレは一瞬、触れてるとこから体温と一緒に思考まで伝わったのかと、かなりマジで驚いた。
そして、オレの動揺を裏付けるかのごとく、耳元でボソボソ続いた旦那の声は。
「……風呂………入り、たい……」
「はぁ…?」
…酔っ払いの唐突な要望に呆気にとられて、思わず訊き返しちまったのが運の尽きだった。
さっき景気よく胃の中のもんをぶちまけたおかげでだいぶ活気を取り戻してきてるらしい旦那は、ぐわりと目をひん剥いたかと思うと、オレに容赦ないスリーパーホールドをかましながら、大声で喚き散らしはじめた。
「風呂といったら風呂だ! 俺は風呂に入るんだ! とっとと風呂を沸かせ! この薄鈍がー!!」
「……ぐぇ………た、タップ……タップ、っス……!」
前言撤回。 やっぱオレは、骨の髄まで薄幸の子羊らしい……。
◇◇◇
「……薔薇は?」
「…………無茶、言わんでくだせぇ」
恐れながら、今は夜半にございます。 薔薇は一輪残らず凋んでしまっております、旦那様。
無色透明の湯面を見つめて唇をへの字に結ぶ主人に、庭師、本日二度目の溜息。
もつれ合うように転がり込んだ旦那邸の風呂場……というか、もはや大浴場。 の前の、脱衣所。
そこへひとまず大荷物を下ろして、大急ぎでバスタブにぬるま湯張って。 おもてなしの用意が整ったら、今度は積荷の開封。
直立不動を保つにも苦労してるらしい泥酔ぶりで、金ボタンやら装飾やら留め具やら、無駄に堅い防壁を張りめぐらした服に成すすべがあろうはずもなく、自然、その攻略もオレがこなさねばならなかった。
動きの鈍い旦那の指を手伝って、黒と赤の派手な布を一枚ずつ剥いでく。
赤の下にもう一枚、薄っぺらい白があると思い込んでただけに、いきなり透き通るように滑らかな、生身の白が現れたのには正直、ドキッとした。
旦那の襟や袖口のビラビラはそこだけにくっついた飾りで、深紅の服の内側には何も着てなかったんだと初めて悟る。
…凝視するのがどうにもいたたまれなくて、視線をそわそわと足元へ泳がせながら、じゃあオレ外で待ってますから…、と早々に尻尾巻いて逃げを打った。
「どこへ行く」
不機嫌、というよりは単に疑問の声に首根っこを掴まれた。
「や、だから外へ」
「お前が出て行ったら誰が俺の髪を洗うんだ」
「…旦那。 オレが誰なのか、本当に理解できてます?」
「ダッシュウッドだろう? …違うのか?」
オレがあんまり疑わしさ一杯の目を向けたんで、自分の応えの自信が揺らいだのか、旦那の双眸にも怪訝が滲む。
今のこの人の思考回路だと、いつもの使用人が成長期を迎えて突然この姿になったなどと解釈されても不思議はなかったから、ちゃんとオレだと認識されてたのはホッとしたし、…嬉しくも、あった。 けど。
「……ダッシュウッドですよ。 旦那の大事な金品も……旦那自身、も付け狙ってるケダモノ野郎ッスよ。
そんなヤツ風呂場に連れ込んじまうんスか? 危なくねぇですかぃ?」
髪以外のトコも、もしかしたら旦那が触ったことすらねぇトコだって洗っちゃいますぜ? オレ。
とびきり卑猥な声色を作って、無防備な麗人を牽制する。 …旦那の身の安全のためなんかじゃなく、オレ自身の心の安全のために。
この人の言動は自覚も悪意もねぇ分、余計にタチが悪くて、わかってても馬鹿なオレは酔っ払いの戯言に胸を騒がされること、端っから目に見えてる。
据え膳食わぬは何とやら。 確かにな。
けどそりゃ、食って小腹膨れてはいオシマイ。 って満足できちまう程度の、『軽食』が相手の時だけの話だ。
動こうとしないオレに焦れてか、溜息めいた呼気が背中で聞こえて、そして。
「やってみろよ」
一瞬、聞き間違いかと思う、挑発。
思わず振り向けば、一糸纏わぬ肌を惜しげもなく晒した後ろ姿が、浴室のドアの向こうへ消えるところだった。
「…そう簡単には、やらせんがな」
声の端っこにうっすら笑みさえ孕んで。 酒抜けてたのか、って呆然と見送るしかないぐらい、穏やかに。
―――が、不意打ちでオレをときめかせた背中はやっぱり酔漢のそれに過ぎなかったことを、一秒後に知る。
どしんと鈍い音がして、磨り硝子越しの空間で旦那の長身が半分ほどの高さになった。 …大理石張りの床に足を取られてすっ転んだ、が正しいだろう。 ケツをさすりながら「痛い…」とか呻いてるのも聞こえる。
ああああもう、やっぱ放ってなんかおけるか。 開戦前から白旗だ、畜生。
装飾品もろとも上着を脱ぎ捨て、いまや臨時世話係となったオレは、鼻息も荒く戦場へ押し入った。
…まあその最初の発奮はといえば、バスタブを覗き込むや否や、お気に入りのローズバスでないことに不満を訴えた『旦那様』によって、あっけなく凋落の一途をたどったんだが。
◇◇◇
しつこくぶーたれる酔いどれ伯爵様を置いて逃げ去り……たい気分をグッとこらえて、今さら薔薇の助けなんかいりませんって、旦那は今のままで充分キレイッスよぉ〜、とか何とかあれやこれや宥めすかした末、やっとの思いで湯に浸からせることに成功した。
しかし……本当に大変なのは、そこからだったんだ。
「……旦那。 起きててくだせぇ、沈んじまいますよ」
「…ん……」
つんつん。
旦那の肩を軽く突っついて起こし、すでにかなりバスタブの中へ沈没しつつある身体をよいしょっとずり上げる。 科白も、動作も、さっきからもう5回ぐらい繰り返してる気がする。 そろそろ手際がよくなってきた。
酔い覚ましも兼ねてるとはいえ、水じゃあキツイだろうと思ってぬるま湯にしたんだが、それが逆にまずかったらしい。
熱くも冷たくもなく、ふにゃふにゃと心地よい温度に包まれながら髪を洗ってもらうのが気持ちいいのか、ふんぞり返った姿勢で眠るように目を瞑ってる旦那は、時々マジにうとうとしてた。 そのまんまにしとこうもんならぶくぶく沈んでって溺れちまうから、逐一起こして差し上げてるという按配。
しばらくすると、またもや黒い頭が舟を漕ぎだす。
―――「別嬪さん、襲いますよ」とでも耳打ちしてやりゃ、多少は意識もはっきりするだろうか、とか思う。
思う、だけであって、本当に口に出しゃしねぇけど。
…いつの間にやらこの緩やかな時間を手放しがたくなってる本音を脳裏に聞いて、苦笑いするしかなかった。
しっとりと指先に絡む黒。 濡れていつもの艶はいっそう濃い、んだけど、よーく見ると所々に枝毛も混じってら。 これだけの長さにしてりゃ、どう手入れしたって毛先は傷んじまうんだろう。
黙ってると彫刻まがいの美人だけど、さすがにヴィーナスの化身ってわけじゃねぇんだなあ。
至極当たり前のその事実が、何故だか妙に嬉しくて。
と同時に、常よりもほんの少しばかり近く感じる黒髪に、オレはある種の……劣情、ってやつをを掻きたてられちまった。
ヤバい、と思っても、目の前には裸で弛緩しきってる旦那。 …暗に、誘われてるような錯覚まで加わって。
こんな野良犬の手でも、懸命に伸ばしてみれば、もしかしたら……届く、のかもしれない。
…否、それどころか。 この黒髪は今、今ならば、すでにもうオレの手のひらの内におさまって―――
「……おい。 痛いぞ」
かすかな抗議の声が聞こえて我に返った。 まどろんでたはずの旦那が後頭部を手で押さえながら、肩越しにこっちを睨んでる。 何のことかと瞬きした一瞬後、長い黒髪の先をぎゅーっと握りしめてる自分の手に気づいた。
あらぬ妄想の世界へ羽ばたいてる間、どうやら無意識にこうなってたらしい。 濡れ髪を加減もなしに掴まれれば痛いに決まってる。 誰だって怒るわ、そりゃ。 オレは慌てて「すんません」ともごもご謝罪しながら、放した。
と、引こうとしたオレの手を今度は逆に、旦那の方から掴んできた。
その意味を図りかねて、顔面に疑問符を散らしながら旦那を窺うと、彼の表情としては珍しい、悪戯をたくらむガキじみた薄笑いが見えた―――気がして。
「っどわあぁぁぁ!?」
一瞬、の後。
ぐいっと強く手を引っ張られたかと思うと、ばっしゃあぁぁん!! と盛大な飛沫とともに、オレの身体は浴槽へと強制ダイブさせられてた。
ごぼがぼ湯を掻いて、危うく体勢を立て直す。 勢いで気道に入った湯と酸素をゲホゴホと交換しつつ、狼藉者を睨んだ。 息苦しさで目はちっとばかし潤んで、いまいち迫力に欠けてたかもしれねぇけど。
「お返しだ。 ざまあみろ」
―――何すんですか! と噛み付くつもりが、殊のほか至近距離まで迫ってた美貌がまるきり子供そのものに笑うから、オレは出鼻をくじかれてしまった。
目論見が成功して大満足中の悪童の、ムカつくくらい屈託ない微笑み。
掴みかかれる、わけもなくて。
(………下も脱いどきゃよかった)
湯の中でぐねぐねと輪郭の歪められた一張羅に、恨みがましく独りごちてみる。
オトナのオレに許された対応とは、所詮その程度が関の山なのだった。
…はず、だった。
「怒ったか?」
まだ口の端に笑みの余韻を引っかけた旦那が、ちょいと首をかしげて、黙り込んだままのオレを覗き込む。
あ、かわいい角度、
―――忌憚なくそう思う頃には、オレの顔はすでに旦那の胸の中にあって。
今夜、二度目のハグ。
最初と違うのは、オレは上半身裸、旦那に至っては素っ裸というシチュエーション。
呆然が過ぎて石像と化したオレに構うことなく、長い指先は頭の上へと降りてくる。 さっき飛沫を浴びたせいで少しばかり湿ってる髪の奥に潜り込んで、さわ、とかき混ぜるように撫でていく。
…その動きがなんかの弾みでうなじの辺りを掠めたとき、オレの身体は電流でも通ったみてぇに、ビクッと硬直を解いた。
旦那の体温が、吐息が、匂いが……旦那の全部、が。
近い。 半端なく。
それだけでももうどうすりゃいいのか分かんなくて、今にも思考回路フッ飛びそうだってのに。
「お前……かわいい、な……」
旦那はどこか陶然と、人の頭に頬擦りするみたいに顔を埋めてきて、さらなる煽りが耳から髪からオレを襲う。
「ふわふわの毛並み………でかい犬っころみたいだ」
…そこはかとなく心外な気に入り方をされてるようだが、非礼を訴える余裕なんかオレには残されてなかった。 伯爵様は小動物(…もとい、大動物か)と戯れてるだけのおつもりでも、こちとら気が気じゃない。
全裸の旦那に抱きしめられて、愛撫されて―――そんな都合のいいとこだけ切り取って、勘違いに身をゆだねたくなっちまう。
頭の奥でがんがん響きっぱなしの心音はもはや、旦那に聞かれるだのどーだのより、オーバーヒートでショートすんのでも心配した方がよさそうな次元。
「ゲオリクー?」
―――そのとき、遠くから旦那を呼ぶ声がして。
本当に心臓が爆発したんじゃねぇかってぐらいに、ビビった。
「ゲオリクってばー、帰ってるんでしょー? …なに、こんな時間にお風呂入ってんのー?」
甲高い子供の声と足音が、浴室の明かりに気づいたらしく、徐々に近づいてくる。
あの小間使いのガキだ。
ふやけて靄がかってたアタマが動き出した瞬間、考えるよりも先に、叫び返した。
「帰りに少し飲んできたから、酔い覚ましにな! 世話はいらんから、お前は先に寝てろ!!」
旦那の声真似。 あのガキ相手になら一度通用してる、大丈夫なはず。
…焦って力んだせいか、思ったより地声が露出しちまってヒヤリとしたが、「そう? じゃあ、お言葉に甘えるねー」との返答だけ残して、気配が遠ざかっていった。
風呂場に篭もる湿気と厚いドアに阻まれた外へはそれほど通らなかったのか、はたまたヤツも疲れてて深く関与する気がなかっただけか。 まあ、ひとまずは難を逃れた。
むご、とくぐもった声が頭上で聞こえる。 …あ、やべ、騒がれないようにって咄嗟に旦那の口ふさいでたんだ。 すんません、と軽いデジャヴを感じつつ手を離すも、今度は怒ってる様子はない。
代わりに、まだちょっとばかり酔いに潤んだ瞳がぼやんと見つめてきて、オレはドギマギした。
「…な、何スか? オレの顔になにか……」
「今の、面白い芸だったな。 他にはないのか?」
「……へ?」
―――これぞ酔っ払いの真骨頂、とでも呼ぶべきか。
どうやら旦那は今、目の前で自分の物真似を披露したオレに、遠回しのダメ出しをしてるわけではないらしい。
純粋に面白がってて、あわよくば他のレパートリーも聞いてやろうと興味深々の表情だ。 唐突きわまる要求に、人一倍の順応力が自慢のオレでも少々、たじろぐ。
「…え、と、……サンドウィッチ伯爵の真似ぐらいなら、なんとか…できないこともない、ッスけど。
…旦那、お会いしたことありましたっけ?」
うっすら仏頂面になった旦那が無言で首を振る。 ですよねえ、とオレは困り果ててしまった。 見知らぬ人物の物真似なんて似てるかどうか分からないんだからつまんねぇし、かといって他に共通の知人なんかいやしねぇ。
さっきのガキはいくらなんでも無理だし…、といよいよ真剣に頭を抱え出したオレを、しばらく観察するような色で見てた旦那の瞳が、やがて何を思いついてか、にんまりと人の悪い笑みの形に据わった。
「……強いて物真似でなくてもいい。 珍しい芸が見れれば、俺はそれでいいんだ」
「え、…あ、マジッスか?」
「ああ……」
妥協案にちょっとだけホッとした。 そのオレの視線を誘うように、旦那の指先はゆっくり浴槽の縁を示して、
「お前、今からそこに座って、自分の、扱いてみせろよ」
物真似なんざ及びもつかねぇ、ブッ飛んだ命令を突きつけてくれた。
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Next +
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Quit +
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