「………ハ、」
喘ぎにも吐息にもなりそこなった、半端な音が喉笛を通過する。
絡みついてくるかのような、蒼藍の視線。
その真ん中に晒されてるって意識するだけで、浅ましい躰はどうしようもなく熱を煽られて、悦びだす。
―――あのあと結局、オレは旦那の要求を呑んだ。
いやあのお戯れが過ぎますよー、とか何とか、引きつりながらも笑って誤魔化して軽~く流そうと努めたんだ、最初はちゃんと。
なのに、すでに一人で完全乗り気な伯爵様は、自分の提案の酔狂さはすっぽ抜かし、まるでオレの反応のが面妖だとでも言いたげに目を見開いた後、元どおりのニヤリ笑いに戻りながら「いいのか?」と悪魔の囁き。
「うまくできたら、いい餌をやろうというのに。 今夜だけの特別な餌だぞ?」
…ああそッスか、あくまで余興のワンコロなんスねオレ。 へろへろと力の抜けた肩が湯に落ちゆくやるせなさ。
けど、そんな上半身の脱力具合とは裏腹に今、もしオレのケツに本物の犬の尻尾があったとしたら。
けたたましく、それこそ湯を跳ね飛ばさん勢いで振られてるんだろう、と思う。
酔ってる旦那はとんだスキモンらしいけど、オレだって大概だ。
―――期待に満ちた熱っぽいまなざしを注がれるのに興奮して、『今夜だけの特別』の誘惑を振り払えなくて、指示に沿うべくおずおず、動き始める程度には。
いつもの感覚で行きさえすりゃあ、このくらい屁でもねぇ。
ウチの結社は何を隠そう、代表を筆頭にスキモンのオンパレードだ。 目の前で自慰を強要されるなんつうのは序の口。 むしろ、生ぬるい。 相手があの伯爵なら、最高レベルに機嫌がいいときの待遇だろう。
スイッチ切り替えりゃチョロイもんだ。 そう割り切って、手始めに軽く深呼吸。
浴槽の縁の、旦那と向かい合う位置に腰かけて、ジーンズの股間をくつろげる。 下着は穿かない主義だから、湯を吸ってすっかり重たくなった衣類と格闘する必要はなし。 イチモツだけ、見える程度に取り出しゃいい。
「……ん、っ…」
棹を手の中で馴染ませるようにまずは一撫で。
それから裏筋を指でたどって上下に往復させ、最初の快感を呼び起こす。 ぴくっと先っぽが反応して、徐々に頭をもたげてくると、強弱をつけて棹を握る。
この辺からはオレの右手も段々ノッてくるから、緩やかなスライドが加わって、本格的なエレクトに追い立ててく。
…その、慣れきったはずの手順が。 妙にこそばゆくて、なぜか顔を上げられなかった。
アソコに血を集めなきゃいけねぇってのに、オレの意志と無関係に上へ上へと昇っちまってるのか、耳の奥が爛れるように熱い。 きっと顔中、トマトさながらな真っ赤に火照りあがってるだろう。
「……っはぁ、っ」
―――旦那の、視線、が。
オレのそこを執拗に舐め回してくるのを、感じる。
いつもと同じ、ただのオナニープレイなのにまるで勝手が違うのは、余すところなく旦那に見られてるせい。
はじめはやっぱ戸惑いが勝ってた。 けど、
「ん、……ン…ッ」
幾らも経たないうちに、その羞恥心はオレの躰も、意識までも、トロトロに溶かし始めて。
焦げた蜜がえもいわれぬ甘美な香りを拡げ散らすように、強烈に全身を巡り、犯してく。
「……ふ、…ぁ、ッアァ…、」
熱に酔った下半身はいつの間にか、夢中で耽ってた。 片手できつく扱きたてながら、空いた手でもやわやわと下の球を揉みしだく。 棹の先からは透明の汁がだらしなく溢れ落ちて、ズボンの中にまで染みてくる。
グチュグチュと卑猥な水音を響かせてるのはもう、湯に濡れそぼったジーンズの生地ばかりじゃないという。
その事実すら、今のオレにはたまらない刺激だった。
(達き、てぇ……)
―――頭ン中がその欲求で飽和しかけたとき、オレはようやくここがどこなのかを思い出した。
旦那が浸かる風呂ン中にブチ撒くつもりかよ。 ギリギリで蘇った理性に感謝したいのか、恨み言吐きたいのか分からない気分で、オレは一気に昇りつめようとしてた自身を握って、辛くも押しとどめた。
「……は、…ッ……旦、那…、…も、イイ……スよ、ね?」
ここまでおっ勃たせちまうと、出さずに鎮めんのはオレでも無理。 本当はすぐ動くのもキツイけど、仕方ない。
乱れた息もそのままに、処理してきやす、と小声で断りを入れてから、なんかもうスゲー今更に復活した羞恥でもって、できるだけそこを隠すように努力しつつ。
湯から上がろうとした、その刹那。
「ダッシュウッド」
終始無言でひたすらオレの一人遊びの見物人を決め込んでた旦那が、するりと腕を伸ばしてくる。
肩でも貸してくれる気なのかと不思議に思うも、素直に……というか反射的に、こっちも手を差し伸べたところ。
「……ッ!!」
身体ごと思いっきり引っ張られて、湯面の下へと強制的にご招待された。
ばっしゃーーーん。 デジャヴ、ふたたび。
…オレって、本気で学習能力が皆無なのかもしれない。
悲鳴となりおくれた叫び。
湯中で情けなくも泡と化す、…それらはオレの唇もろとも、同じく湯の中へ降ってきた唇に噛み付かれた。
「…ンぐぅ、っ……!」
噛み付く、ような激しさの、キス。
半ば湯に沈んだ体勢での強引な口付けに酸素を潰されて思わず藻掻けば、熱の捌け口を欲しがってるままの躰をがっちり抱き込まれ、身動きすら封じられ。
痛いほどきつく舌を吸われる。 その瞬間、オレの腰は耐えかねて欲を放ってしまった。
「ハ……ッ、…ハァ……ハァ……」
唇が離れてった後もしばらく余韻に痺れて、動けなくて。
オレは半端に旦那にしがみついたみっともない格好で、ぐずぐずに溶けてる腰を旦那の長い脚に挟まれながら放心してた。
弛緩した手がずる、と旦那の肩から滑り落ちて、湯の中へ沈む。 あとはただ、静まり返った浴室にオレの荒い息遣いだけが残される。
不意に軽く顎を持ち上げられた。 まだ整わない息の向こうに、少しだけ汗ばんだ、旦那の綺麗な顔のアップ。
「『今夜だけの特別な餌』。 …だ」
ちろ、と舌の先で啄ばむ程度の『デザート』を最後に置いて、離れてく唇には不敵な微笑。
この人って。
オレの気持ちを分かった上で、こーゆーことやってんだろうか。
だとしたら本気でタチが悪ぃ。 もし分かってさえいねぇなら、もう手のつけようがねぇ。 っつーか、甘ぇ。
…甘ぇ、んだ。 眩暈がするほどに。 ―――危なっかしすぎる、ほどに。
すっかり曳きずられてトチ狂いつつあるオレも、全部この甘い甘い眩暈のせいにすることにして、『おかわり』を要求した。
伸び上がって旦那の首に抱きついて、旦那の唇に貪りつく。 はじめ驚いたように逃げた旦那の舌も、しつこく追い回すオレに根負けしてか、何度か角度を変えるうちに絡め合わせてくれた。
「…ん…っぅ……」
単なる発情期の犬と化したオレは、ひとしきり粗相を働いた唇をそれでも飽き足らずに、下へと滑り落としてく。 顎から首、喉仏とたどるように食んで、鎖骨の間のくぼみで舌先を転がした。
「…ふ、っ……、…犬……そこまでは許してない、ぞ」
釘を刺す物言いは表面上だけで、旦那に嫌がってるそぶりはなかった。 むしろ、上機嫌。 最初の方の吐息は笑いすら混じってて、喉の近くに触れてるオレの唇に心地いい振動が伝わった。
こりゃあ、イケる。 逃す手はねぇ。 最初で最後かもしんねぇチャンス、二の足踏んでて何が男か!
さらばワンコロ。 ようこそ、オオカミ。
わざとヤラシイ音立てながら唇を這わしていき、湯に濡れて光ってる乳首の頭へ、ちゅく、と吸いつく。
「ン、は……っ!」
旦那の胸がビクッと跳ねて、のけぞった。 …よしよし、反応は上々。 オレのアッチも俄然、ノッてきた。
めくるめく予感に首の後ろがゾクゾクする。 突起を甘噛みしながら、同時に旦那のアッチにも手を伸ばして。
……慣れきったはずの手順がそのとき、黒髪の伯爵様の何処にある何のツボを押しちまったのか。
「ん、……っくすぐ、ったい。 くくっ…」
急に手ごたえが変わって、加速しはじめてたオレの欲望もさすがに一時停止する。
目線を上げて確かめるまでもなく、旦那の肩が小刻みに震えてた。 …もちろん、快感にではなくて。
「……なにも今、笑うこたねぇでしょーが…」
なんつー失礼なタイミングだ。 モロにローテクだと嘲られてるみたいで、かなり凹むんですけど。 断じてオレは下手糞じゃねぇ、少なくとも舌だけは結社のトップの折り紙つきなのに。
拗ねてぶすくれて、腹立ちまぎれに尖らせた自慢の舌で乳首をぐりぐり刺激してやったら、
「あっあッ、…やめっ、…ひ、ぁっははは…!」
旦那はさらに身をよじらせて悶えたが、…ダメだ。 よがってんだか爆笑してんだか、さっぱり区別つかねぇ。
こうなりゃもうヤケクソ、とばかりに旦那の内側を堪能すんのを諦めたオレは、代わりに外側を苛めまくることでウサを晴らした。
身体中メチャクチャにくすぐりまくって、旦那が涙ながらに赦しを請うまで、徹底的に笑わせた。
ずいぶんと平和的にはなったが、気分だけならこれも立派にゴーカンじみてて、萎えてた躰にほんのちょびっと、興奮の火種がくすぶったらしい。
「……ンッ…」
案外、旦那って笑い上戸だったのかもな。
冷静な頭でキスすれば、まだうっすらアルコールの辛味が滲む旦那の舌に、ぼんやりとそんなことを考える。
ついでにさっき掴みそこねた旦那の股座に手を纏わりつかすと、ぴくん、と小さく痙攣した棹が完全にとまではいかないものの、しっかり鎌首もたげて存在を主張してることに初めて気づく。
なんだ……笑い上戸でも、ちゃんとそれなりに感じててくれたんじゃねぇか。
少し安心して自信を取り戻したら、やっぱオレってヤツはとことんお調子者で。
「う、…っん、……くふ…ッ、!」
口を塞がれた旦那が喚けないのをいいことに、おもむろにソレを握って、扱いてやった。
オレだって一回達かされたし。 男の沽券てやつで、このくらいはやり返してもバチは当たらないだろう。
今度こそ快感に溺れ始めた旦那の腕が、オレの背中をかき抱くようにして。
―――ああ、のぼせちまいそうだ……って、キスの合間に洩れる喘ぎを聞きながら、しみじみ思った。
middle note:[37.5℃] ―― Side G. |
その朝。
俺は自宅には間違いないが自分の寝室ではない部屋の寝台、という、稀な環境で目覚めを迎えた。
(…………どこだ……ここ、)
なにしろ屋敷が広すぎて、自宅でも馴染みの薄い部屋も多い。 まず身を起こして室内をよく見回そうとしたら、くらりと視界が揺れた。
続いて、なんとも言いがたい倦怠感と胸元の不快感。 独特の症状に、たとえ起き抜けの頭であれ「二日酔い」という結論は容易に導き出されて。
遅ればせながら、昨日―――おそらく昨日―――の夕方までの記憶が、断片的によみがえってきた。
仕事帰りにデスパニエの店で、ミハエルと一杯飲って。 サンジェルマンは技術省の方の急務で中座していて、ミハエルの奴は例によってアレだから、運搬要員の俺は例によって、酔いすぎない程度に量をセーブしていた。
極々、いつもどおりの酒席だった。 騎士団長殿も珍しく悪酔いせず、普段以上に平穏なひとときだったほどだ。
…たまたまおとなしく飲んでいたミハエルの姿に、鬼の霍乱だとでも要らん気を揉んだのか、気前のよすぎる店長がなにやら、いわくのありげな大樽を持ち出してきて、その中身を振舞ってくれるまでは。
(……伝来物……だとかなんとか、言っていたっけ……)
白っぽく濁った、飲んだことはおろか、見たことすらない酒。
少し鼻を近づけてみただけでも度数の推し量れる強烈な臭いに、一度は辞退した。
だが「お前、他人の好意を無下にするもんじゃない」などと、そもそも俺が深酒を遠慮している理由に気づきもしない元凶が睨んでくるものだから、俺もだんだん、無理に付きやってやっている自分が馬鹿らしく思えてきて。
とりあえず、味見……のつもりで、一杯だけ。 おっかなびっくり、口をつけてみた。
―――その直後からの記憶が、いっそ潔いまでに、ぷっつりと途切れている。
最終的にミハエルの片付けはどうしたのか、…いや、それよりも自分がどうやって帰ってきたのか、いつ夜着に着替えてこの部屋のベッドへ潜り込んだのか、ということすら。
全然、まっっったく、欠片も覚えていない……。
さすがに戦慄が沸き起こってきて、がんがん疼く頭に呻きつつ、ベッドから這いずり出した。
……というか今日、日曜じゃないぞ確か。 今、何時だ……!
「あ、おはようゲオリク。 …頭すごいことになってるよ、せめて手櫛くらい入れた方が」
「頭なんぞどうでもいい。 なんだって起こしに来なかった……」
実際、すごいことになっているのは頭の外より中だ。 動く、歩く、喋る、俺がどんなアクションをしようが、それを嘲笑うかのような殺人的激痛で応えてきやがる脳味噌を掻き毟りたい気分で、小間使いに不平を垂れていた。
もっとも、最近ではこいつも慣れたもので、不平というより呪詛に近い俺の声にもまるで臆することなく、平然とジャガイモの皮を剥き続けている。
「昨日、飲んで帰ってきたって言ってたから、どうせ今朝はダウンしてるかなーと思って。
台所まで自力で下りてこれたってことは、思ったより大丈夫だったみたいだね」
起こしてあげればよかったかなー。 でもおれだって、たまには寝坊したいしさー。
呑気に笑う糞餓鬼の背中を蹴り倒したところで、俺になんら非はなかっただろう。
実行しなかったのは半端な気遣いに感謝したからでも、ましてやナイフを手にしたままの子供への不意打ちが躊躇われたからでもなく、言葉の一部に引っかかりを感じたからだ。
「……待て。 『飲んで帰ってきたって言ってた』、だと…? 誰が、お前にそう言ったんだ?」
ティモシーはそこでようやく振り返り、怪訝のまなざしを俺に向けてきた。
「何言ってんの。 ゲオリクが風呂場で言ってたんじゃないか」
「…風呂、場…?」
「……もしかして昨日の夜、お風呂入ってたこと自体、覚えてないとか言う?」
怪訝を呆れに変えた使用人の声も耳を素通りしていく。
くどいようだが、まったく記憶にない。 …なんなんだ、風呂って。
「覚えてなくたって、確かだよ。 今朝、脱衣所覗いたらゲオリクの服が脱ぎ散らかしっぱなしだったし」
皮剥き作業に戻ったティモシーから、何気なくトドメの一言。
自宅とはいえ、深夜に素っ裸で廊下をぺたぺた徘徊する自分の姿を想像して、新たな頭痛に眉間を揉む。
リリスに目撃されなくてよかった。
…今のリリスはそもそも地下室から動ける状態にないんだが、などと少々、不謹慎な安堵も禁じえず。
「…どうでもいいけどさー、ゲオリク。 今日、お勤め出なくていいわけ?」
のんびり頭抱えてる暇があるなら、さっさと食事、済ましちゃった方がよくない?
小さな料理人は夕食の仕込みを始めている手で、とうに作ってあったらしい朝食の方を示す。
「……あ、…ああ……」
ティモシーの指摘で、これまた記憶の彼方へと押しやられていた仕事の件に思い至った刹那、職場の上司の不気味な笑顔までもが脳裏をよぎった。
(仕事サボって優雅にブランチですかぁ、ゲ・オ・リ・ク~。 い~~~いご身分ですねぇぇ~~~♪)
ご丁寧に幻聴込みで。
…いかん、せっかく治まってきていた胸焼けがぶり返しそうだ。 ついでに寒気も。
己が身を抱くようにしてしきりと二の腕を擦り出す俺に、当然ながら使用人の不審げな視線が注がれていた。
―――畢竟。 雀の涙だった食欲も見事に底をつき、俺は今朝がた目を覚ましたベッドへとUターンした。
起きて、平日だという事実に気づいて即、時計に飛びつきはしたが、既に遅刻と呼ぶにもおこがましい時刻を指し示すそれに、王宮へ出向く気力はほぼ失われていたんだ、元々。 あの変態上司は変態のくせに真面目で神経質なところもあり、こんな時間から出勤しようものなら、一日中エンドレスで小言と嫌味がBGMに違いない。
…第一、不養生の医者が国王やその周辺人物を相手に、堂々と職務に携わるわけにもいかない。
明日、どうとでも言い訳しよう。
俺も日頃の勤務態度は良好だ。 一日ぐらいベッドの住人を決め込んだとて、陛下も大目に見てくださるだろう。
(……少し……身体が熱っぽい、しな……)
多分に口実じみてはいたが、それは本当だった。
―――昨夜、自分が風呂に入っていたという話を聞かされたときから。
全身に感じ始めた、奇妙な火照り。
僅かばかりの疼きを孕んだ、…けれどそれすらも、不快ではなく。 どこか、あまやかな―――。
夜の風呂だったというなら、いつものローズバスではなかったはず。 髪にも、肌にも、薔薇の残り香はない。
あるとすればきっと、いまだ身体の奥に残っているであろう酒の名残くらい。
それでも。 昨夜は須臾の夢のように心地よく、穏やかな時を過ごしたのだと伝えてくる微熱。
せめて今日一日だけ。 夢に半分浸かったままのような、今だけでもいい。
この甘い温もりを手放したくなくて。 少しばかり、のぼせていたくて。
シーツに移った熱が逃げないうちにもぐり込んで、眠りに意識をゆだねた。
last note:[38.5℃]―― side D. |
「だからあなたは子供だと言うんです」
ぱしゃん、と涼しげな水音と、それよりも遥かに冷ややかな声色。
もっとも、変にフワフワした今のオレの頭には、幼なじみの呆れ果てたような説教すら、子守唄めいた響きで。
―――結局あのあと、程なくしてすやすやと夢の国へ旅立ってしまった旦那を抱えて、オレは孤軍奮闘した。
風呂を片して旦那の身体を拭き、元の服……はあんまりにも七面倒だったんで諦め、適当な部屋へ運び込んでベッドへ乗せ、夜着らしきものを探してきて旦那に着せ―――勿論その間、よからぬ手心なんかは一切加えちゃいねぇ。
従者の鏡とでも呼んでほしいぐらいだ。 あーいや、どうせなら「飲んだくれて帰ってきた駄目夫の世話をかいがいしく焼いてあげるしっかり者の妻」とかのが嬉しいかな。 ……どうでもいいんだが。
ともかくも無事に旦那を寝かしつけたオレは、名残惜しかったけどその健やかな寝顔に軽くお別れのキスだけ残して、そのまま地下回廊を通って結社へと帰還した。
運良く誰とも鉢合わせなかったし、戻ってみたら伯爵は留守で、商談の失敗に関する報告義務まで免れるという、信じられないボーナス付き。
嗚呼、日々の苦労はいつか必ず報われるもんなんだ。 神サマ、ありがとう!
喜びいさんで自室のベッドへ潜り、久しぶりの安らかな睡眠を満喫した、翌日の昼。
ここ数年間は無縁だった風邪に見舞われたらしく、凄まじい眩暈と節々の痛みとで、オレはそのままベッドから起き上がれなくなっちまった。
それでもなんとか気力だけで這い出ようと敢闘してたところで、偶然オレの様子を見に来たリュースにどやされ、有無を言わさず寝床へ押し戻され―――今に至る、というわけで。
短い春だったなぁ……。 否、美人が看病にきてくれたんだから、まだ晩春と呼ぶにゃ早ぇのかもしんねぇけど。
「酔って噴水に落ちたなんて、言い訳にもなりませんよ。
…昨晩、本当はどこで何をしていたんですか?」
「…ヤ、だから……噴水に落ちたんだって。 ホントだって!」
たぶんオレに病を呼び込む原因になった、まだ半乾きの衣類。
しかも湿ってるのは下半身だけ、という奇怪さを咄嗟に説明できる言い分が見つからなくて、かといって本当のことを言うわけにもいかず。
ひたすらリュースの白い目を浴びながら、ごにょごにょと下手なでまかせを繰り返すのが精一杯。
金髪の幼なじみは深い溜息をついたものの、オレに口を割る気がないことを察してくれたんだろう、それ以上は追及してこなかった。 …こいつのこういうとこ、ありがてぇっていつも思う。
「……とにかく。 今日一日はゆっくり休んで、早く身体を治してしまいなさい。 …あの方の耳に入らないうちに。
今はひとまず私の方で、できるかぎり誤魔化しておきますから」
「…ん。 ……悪ィ…」
わかってる。 あの人は仕事に支障をきたす部下にすこぶる辛辣だ。 もし勝手に体調を崩したことが知れたら、また折檻の一つや二つ、覚悟しなきゃならなくなる。
我が身をもって嫌というほど理解してるだけに、案じてくれるリュースの言葉が胸に沁みた。
頭の横でかすかな水音の後、額に濡れた布を乗っけられる。 熱の生む眩暈がじんわりと和らいでくみたいで、気持ちよかった。
ひやりとした布の感触も、―――いつも上辺ばっか冷たくて、けど温もりをくれる手のひらも。
「……ド、…ダッシュウッド。 起きなくていいですから、少し口を開けて…」
ささやくようなリュースの声が、なんか遠くに聞こえる。
すぐ隣にいんのになぁ、と思いながらも深く考えるのが億劫で、言われたとおりに薄く唇をひらいたら、なにやら冷たい、柔らかいもんがねろっと中に入ってきた。
「…ン、っむ………ぁ、んだこりゃ。 …ジャム…?」
「薬の粉末を溶かしたものです。 どうせ苦い薬はそのままでは飲みたがらないんでしょう」
頭からガキ扱いしてる微笑い方。 ちょっとばかしムカッときたけど、小声で「うっせーよ」と呟くだけにとどめた。 気遣いは単純に嬉しかったし、…何よりこんなのはオレの部屋にあるはずのない物。
それはつまり、さっき一瞬リュースの声が遠くなったと思った時、実際は結構な時間まどろんでて、その間にリュースはこれを取りに行ってくれてたってことで。
からからに干からびた口ン中に、水気の多い甘味が魅力的だった。 オレは舌を差し出して、もっとと強請る。
品がないとなじられるの覚悟で薬匙に食いつき、ぴちゃぴちゃ音立ててしゃぶったりもした。
けど、いつまでも咎める声が聞こえてこないのが不思議で、ぼやけた焦点をのろのろと合わせて上を見る。
「…? リュ……ス…?」
オレにつられたのか、どこか夢見心地のように熱っぽくこっちを見下ろしてたリュースの目が、はっと強張った。
視線がぶつかった途端、白い顔にみるみる赤みが差して、俯きがちになる。
どうした、って訊こうとしてオレが身じろいだら、ビクッと薬匙を握った手を引っ込めて、ついでに何かにおののくみたいな素早さで、オレの傍から距離をとった。
「あ、…後味、残って気持ち悪かったら、そこに水差しを置いてありますから。 暖かくしておやすみなさい!」
こっちが口を開くより先にそれだけまくし立てて、後はオレの返事も聞かず、足早に部屋を出てく。
「……あー、っと……ジャム、」
ありがとな。
と続くはずだった言葉は、不自然なほどの慌てようでもって閉じられたドアの音に遮られて、宙ぶらりんのままオレの中に取り残された。
幼なじみの挙動不審ぶりは気にかかったけれど、あれこれと理由を思い巡らすには、頭がまだ重たくて。
まあいっか、次会ったときにでも訊きゃいいだろ。 匙を投げて、仰向けに寝なおした。 薄汚れた天井を見るともなしに眺めてると、次第に目蓋も重くなってくる。 ジャムに盛られてたっていう薬とやらが効いてきたのかも。
舌に残る、ほのかな甘み。 なんとなく、昨夜の出来事に思いを馳せた。
酔いどれ伯爵様の唇はあいにくと酒臭ぇばっかで、こんな優しい甘ったるさとはおよそ程遠いもんだったけど。
腰が蕩けちまいそうなあの熱さは、どこか、煮詰めた砂糖菓子のそれに似て。
彼の寝室を出る間際、未練がましく振り返ってギリギリまで目に灼きつけた寝顔を思い出す。
おそらく彼が普段使っている物ではないだろう、天蓋のないシンプルな寝台。 それでもオレなんかから見れば充分すぎるほど清潔で、ふかふかで。
それらに抱かれて寝返りを打つ眠り姫の顔は穏やかで、楽しい夢の中にいるのか、ほんのりと微笑すら浮かんでて。
―――たとえば一晩だけでも、あの傍らにもぐり込んでぐっすり眠ることができたら、どんなに……なんて。
それこそ夢みたいな、滅相もないこと思っちまった。 今でさえ、思ってる。
…幼なじみがこんな身の程知らずの馬鹿のためにかき集めてくれた、なけなしの毛布に包まりながらでさえ。
けど、今は。 この慣れた粗末なベッドも、不思議と悪くないような気がした。
いつもよりずっと柔らかく感じる。 でもって、ホッとするぐらいあったかく。
単に風邪の寄りついたオレ自身の身体が発する、熱のせいか。
それともリュースが残してってくれた、気遣いのおかげか。
あるいは―――
(………『今夜だけの特別な餌』の、栄養効果だったりしてな?)
なめらかな肌の感触。
手放しの笑顔。
全身が覚えてる。 あの、甘い温もり……。
今頃はもう、あの人は綺麗さっぱり、全部忘れちまってるに違いない。
だとしても、それはそれでいいんだ。
誰も知らない、誰も気づかない、ただオレの胸のうち一つにしまっておける……秘密の逢瀬、てのもまた。
なかなかにオレ好みのロマンチシズム。 ってやつだし?
ささやかな僥倖を噛みしめるうち、つらつら流れっぱだった思考が靄がかってって、うつらうつらに暮れなずむ。
午睡へと誘われながら、オレは昨夜の「秘密」を包み隠してくれた酒の残り香に、いくばくかの感謝を捧げた。
<Fin.>
後書きでぃす(*´▽`*)←いきなり脱力系な出だしだなぁオイ。
旧ER企画の第二期作品として展示していただいてました、若干(?)頭の痛げな莫迦ップル小説。
暗黒キャラオンリー!との趣向だったので、嬉々としてダシュゲオダシュを書かせて頂いたのですが
ふと気付けば皆様真面目にシリアス書かれていて… 当方ダッシュの穴でも掘って入りたくなりましたヨ…(下品)。
以下はER展示時に掲載の後書きです。↓
ルーン「カノ」における意味の中では「開放」「光と温かさ」「愛」「性交」
などを目指したつもり…です。(「性交」は微妙に未クリアですが^^;)
トップノート:香水をつけ始めてからすぐの頃の香り
ミドルノート:↑から少々時間が経った後の香り
ラストノート:↑から更に時間が経った後の香り
…という解釈で。詳しい時間に関してはスルーです。(爆)
プロレス技が存在してたり、風呂の沸かし方が曖昧だったり、半分パラレルのようなナンチャッテ作品。
ダッシュの一人称形式ってことで、遊び心を優先して書きました。ひとつ、よしなに♪(^▽^;)
(ついでに旦那のイメージも豪快に破壊してしまいました。…すみません;)
ともあれ、久々にたんまりダシュゲオダシュ書けて楽しかったですvV
ERという素敵な場にご一緒させて頂き、重ね重ね、有難うございました!(^∧^)
+
Back +
+
Quit +
|