もしも叶うなら、このまま
あなたを攫って、どこか遠い果ての地へ。
そう言葉にしてみれば、きっとあなたは笑うのだろう。
艶冶に色めいたその唇に
皮肉を刷いて、きっとあなたは嗤うのだろう。
できもしないことを―――と。
ご存知ですか? 私の空っぽの片手は
あなたへ向けて伸ばされている、出逢った最初の日から。
……けれど或いは、臆病なこの手は
あなたに決して取ってはもらえないことを嘆きながらも
本当は、いつも安堵していたのかもしれない。
Pigeon Blood.
甘い。
甘い、匂いがするんだ。
不意に視界が暗くなる。
足場が崩れ落ちるかのような、一瞬の奇妙な浮遊感。
―――ガクン、と、二の腕を支えられる衝撃がそれに続き、ゲオリクの意識を呼び戻す。
「……大丈夫ですかぃ? 旦那」
ふらつきかけた黒髪の伯爵を、こうしてすんでのところで抱きとめるのも、この地下通路を歩き始めてから、もう幾度目か。
―――ゲオリクの屋敷を出た半刻前こそ軽快な靴音を石畳へと刻んでいたダッシュウッドも、流石に懸念の色を濃くし始め、カンテラのおぼろげな灯りを介しても伝わる、目の前の蒼白の美貌を見上げた。
「…、何でもない。 ただの立ちくらみだ。 離せ」
力の入らない足でどうにか地を踏みしめて、ゲオリクは覗き込んでくる双眸を避けるように瞳を伏せた。
ふたつみっつかぶりを振り、わだかまる眩暈の残滓を追い落とす。
「…けど……」
「いいから、離せ。 …こんなところで油を売っている暇なんて、俺にはないんだ。 とっととお前の主人に会って、話とやらを済ませて帰りたい」
苛立ちにまかせた荒い溜息を吐き捨て、ゲオリクは振り払った腕で案内役の男の背を煽りながら、再び歩き出した。
役目を促されて目的地への歩みを再開しつつも、気ぜわしげなダッシュウッドの視線はゲオリクから外れない。
気丈に行き先の闇を睨んでいる客人だったが、顔色は今にも倒れそうなほどに芳しくなく、紡がれる言葉も強がりとしか聞こえなかった。
ここはハードランドの地下に張り巡らされた裏の道。
―――『烙印リスト』などという、張本人のあずかり知らぬところで一人歩きしているらしい目下の危険を回避するためだけに、かねてより再三にわたる誘いをかけられていた地獄の火クラブへの入団という苦渋の選択を強いられたゲオリクだったが、案内人のダッシュウッドが館に顔を出す前から足取りがおぼつかないのは、今も思い出すと戦慄に竦みそうになる黒ミサの生々しい記憶や、そこへ己が身を投じねばならない気後れの故ばかりではなかった。
単に、血が、足りていないのだ。
妹の失われた身体を復元させるゲオリクの研究は、そろそろ最終段階へと差し掛かっている。
器となるホムンクルスも完成し、リリスの頭部への縫合も今のところ順調だ。
あとは、細かくパーツに分けた肉体をすべて繋ぎ合わせ、最後の仕上げとして『赤き霊薬』エリキサーを与えてやれば、彼女は完全に元の姿を取り戻せるはず。
ここからの数日間、それまで以上に失敗は許されない、もっとも重要な局面といえた。
その極度の緊張が、逆に意識を冴えさせているのか。 …ゲオリクは最近、ひどく睡眠が浅かった。
泥のごとく疲れた身体でベッドへ潜り込んでも、まるで皓々たる月の明るさに邪魔でもされているかのように、なかなか眠りが訪れない。
―――ただでさえ、リリスやホムンクルスへの滋養としての輸血が度重なって、困憊は限界に近かった。 そこへ、今回の結社入団の勧誘だ。
心身ともに最悪の状態だったが、先方がそれで返答を保留してくれるはずもなく、ゲオリクは立っているのも億劫な体調のまま、気の進まぬ話を受け入れざるを得なかった。
血の気の失せた唇を引き結んで黙々と歩く美丈夫を横目に、ダッシュウッドもまた、すっかり浮かれていた己の浅慮を恥じた。
本心から慕っているゲオリクが結社の一員となってくれれば、今後は彼を危険から遠ざけられるのは無論のこと、組織内でも仲間として、庇い立てるのに気兼ねはいらなくなる。
ダッシュウッドにしてみればこの上なく歓迎すべき、望ましい状況であったが、同時にそれは、常人の理解の範疇を超えたところに存在するであろうあの闇へと、彼を引きずり込むことに他ならず。
(旦那……ホントに、大丈夫だろうか……)
これから入団の儀式もあるのだ。
サンドウィッチ伯爵がどんな方法でゲオリクを試すつもりなのかは分からないが、彼に対する主の並々ならぬ執着ぶりからして、通常の入団審査だけでは終わらないような気もする。
場合によっては、疲れきっている彼にさらなる負担をかけ、最悪、傷つける結果になりはすまいか。
充分に起こりうる事態だ。 ―――もしもそうなったとき、彼を守ることができるのだろうか。 この自分に……。
ゲオリクを連れてきた己に、男は今更のようにほぞを噛む。
昂揚していた心が、重い予感に翳り始めていた。
「……おい、まだか? もう大分歩いているが……」
やがて延々と続く通路に辟易してきたのか、それでも疲弊を悟らせまいと意識したような、ゲオリクの硬い声が呼びかけた。
先だって歩く男も、その気配を敏感に察し、表面上はあくまで平然を装うと、まあそう急かさないでください…と苦笑を浮かべて振り返る。
刹那。
「―――っと、危ない!」
突然の叫びにはっと足を止めたゲオリクの鼻先で、硬い何かが肉を打つ鈍い音と、空を切る音とが重なった。
反射的に瞑ってしまった目を一拍おいて開くと、ダッシュウッドが苦笑に眉をしかめながら、灯りを持っていないほうの手をぱたぱたと振る姿があった。
「崩れた石の欠片なんかが、時々落ちてきますからね。 …痛テテ……」
―――どうやらゲオリクの頭上に落下してきた石を咄嗟に払おうとして、それが手の甲に当たったらしかった。
痛みを振り切るように手をひらひらさせつつも、何事もなかったように笑って歩き出すところを見ると、骨折などには特に至っていないようだ。
…ただ、尖った石の破片で皮膚を多少切ったと見え、骨ばった手の甲に薄く、赤い筋が走っていた。
…怪我をしたのか、とも、診せてみろ、とも言わずに、ゲオリクはじっと唇を噛み締めて押し黙ったままだった。
せめて庇われたことに一言あってしかるべきだと良心が疼いたが、今はそれに従うわけにもいかなかった。
―――意識の深奥で、耐えがたい感覚がずっと蠢いている、どす黒い虫唾のごとく。
今、口を開いたら、その黒い『何か』が溢れ出しそうで。 おぞましい欲求の一片を取りこぼしそうで。
甘い、甘い………匂いが、する。
「…旦那!?」
背後で不自然に途絶えた靴音に振り向いたダッシュウッドが、驚いてゲオリクの側へ駆け寄る。
黒髪の伯爵は深く俯いた顔を手で覆い、もう片方の手を壁について、かろうじて身体を支えるように立っていた。
「……ッ触るな」
近づかれた途端、ゲオリクは過剰なまでに身をこわばらせ、きつい声音で制した。
その言葉と反応にダッシュウッドの手が一瞬止まったが、相手のあまりの顔色を見て取り、忍びかねたように腕を掴む。
―――瞬間、勢い余って壁にしたたか身を打ち付けるほど、錯乱にも似た荒々しさでゲオリクはその手を振り払った。
「旦那…っ」
そのまま壁に背を預けた体勢で、悪寒を堪えるかのように自らの身を抱き、低い唸りを発するゲオリクの姿は、ダッシュウッドの目には何らかの発作じみて映る。
にわかな混乱に焦りながらも、男はカンテラを地面に置くと、今にも頽(れそうなその長身に肩を貸そうと再び手を伸ばした。
「…近寄るな!」
「そんなわけにもいきませんよ! 震えてるじゃないッスか……旦那、やっぱ具合が悪いんでしょう。 ……少し、休んでから行ったほうがいい。
遅れてもサンドウィッチ伯爵には、オレの不手際だって伝えますから」
「必要ないっ。 触るなと言っ…」
なおも声を荒げ、接触を免れんと身じろぎかけたゲオリクの抵抗が、不意にぎくりと揺れて、呼吸ごと止んだ。
支えるために身体を密着させ、心配げに覗き込んでくるダッシュウッドの―――傷を負ったばかりの手が、少し躊躇いがちの柔らかさで、額へと。
「旦那…、もしかして熱とかあるんじゃ……」
そう言いながら触れてきた、いっさいの事情を知らない手の持ち主が、次の瞬間、え? という顔になる。
ほの白い肌に予測していた熱さを見出せず、…代わりに手のひらへ返ってきたのは、
(……なんでだ? こんな……)
風の通りなど皆無に等しい地下通路。 なのに、まるで一晩も二晩も夜風に晒され続けた身体のごとく、
―――むしろ、男が毎日闇の仕事で売りさばく……死人(のそれのごとく。
(……つめた、い……?)
甘い、匂いが………
「………お前……」
俯いたゲオリクの喉の奥から、掠れた呟き。 我に返って男は、血の巡りの感じられない肌から手を離した。
離、そうとした。
…一瞬早く、その冷たい指先が手に絡み付いてこなければ。
「…お前が………悪いんだ」
こんな、甘い匂いをさせて。
こんな……今の俺に、平気で触るような、命知らずのお前が。
捕まえたその手を、おもむろに口元へ運んでゆく。 瞳をちらりと上げれば、戸惑いに瞬かれる琥珀色がある。
物言いたげな視線を無言で見据えながら、ゲオリクは男の手の甲の、血の滲む擦り傷にそっと舌を這わせた。
「………だ、」
制止しようとした呼びかけが途中で凍りつき、ダッシュウッドはそれ以上、何も言えなくなる。
ぞくりと背筋が粟立ったのは、濡れた感触がそこを撫でた瞬間、かすかに走った鋭痛のためばかりではない。
抵抗を許さぬとばかりに指を絡め取られ、傷口を味わい尽くそうとするかのごとく、動きはやがて執拗になっていき……ごくんと喉を鳴らして後じさりかける男の、怖じた心を読んだように、ゲオリクは相手の反対側の腕をも捕らえて引き戻した。
ダッシュウッドの身動きを抑える。 何より官能の琴線を弾く、冷たくも艶かしい瞳が。
……舌先でいらう鮮血の溶け出したかのような、紅玉の双眸が。
―――旦那の目って……赤、かったか?
怪訝のままに再度、引こうとした手首はしかしびくともせず、どこか本能的な怖れをかきたてた。
最前から意識の末端を掴んでいる、違和感とないまぜになってそれは膨れ上がり、形を変え始める。
黒い、予兆。 ―――不吉な、異形の……なにか得体の知れぬおそろしいモノが、今、目の前にいる………
「動くな」
びくりと、男は呼吸すら忘れた。 うっすら口角をもたげた、赤い唇から発せられる声のまとう、甘やかな魔力。
今すぐに離れよと、頭の奥で本能が、けたたましく警鐘を鳴らし続けている。
けれど、意思に反して全身が動かない。 声すら、出せない。 壁に針で縫いとめられた、無力な羽虫のように。
「……少しの間だけだ。 そのまま、じっとしていろ……」
傷口へ注ぎ込まれる、低い囁き。 …常になく、冷笑は獰猛に見え。
にわかに二の腕の拘束が失せた。
代わりにゲオリクの手はするりと滑り落ちて、ダッシュウッドの片脚―――打ち身のために庇っているのとは逆の脚、の大腿部を引き寄せるように軽く持ち上げた。
途端、男はバランスを崩して膝を折る。
「ちょ、…旦……!」
驚愕し、抵抗を試みたときにはもう遅かった。 やにわに軸足を払われ、地に尻をついたダッシュウッドの上へ、長身の男のしなやかな体躯が圧し掛かる。
―――かと思うと、いきなりゲオリクは目の前の赤毛を背中側から引きむしるように鷲掴むと、先刻まで憔悴しきっていた身体の一体どこに、と思えるほどの力で、下へ引いた。
「つ…ッ」
痛みにおめき、引っ張られるがままに男はのけぞるより他はない。 その、否応なく曝け出された喉元に、
「………!」
黒髪の伯爵の牙が喰らいついた。 何らの予備動作、躊躇らしき動きを見せることもせず。
ひゅっと息を呑んで、これ以上はというほど金色の瞳を見開いたダッシュウッドの四肢が、激痛にこわばった。
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