甘い甘い、匂いがする。
『これ』は、この匂いは―――
「…ア、……」
その後は悲鳴どころか、意味を成す声にさえ遠かった。 冷たい犬歯の、深々と喉に食い込む感触。
押さえ込んでくる力は、さながら飢えきった獣のそれだ。
―――否、純粋な腕力のみならず、何らかの見えぬ蜘蛛の糸のようなものが、指の一本に至るまで絡みつき、締め上げてくる―――異様な感覚も加わっていた。
喉笛を喰いちぎられる。
沸き起こる怖れに、生者の権限としてダッシュウッドはおののき、ゲオリクの身体を押しのけようともがいたが、己よりも細身のはずの腕はいささかも動かなかった。 制止を叫ぼうにも激痛に呼吸が詰まり、ままならない。
「…っ、」
牙を突き立てられて顫えた肉の上を、舌が滑りだした瞬間、全身をざわめかせたのは純粋な痛みばかりではなかった。
どくん……と鼓動が烈しく沸騰しはじめ、食い破られた皮膚にうっすら、赤みが浮き出す。
ゲオリクはそれこそを狙い澄ましていたように、きつく啜りあげ、喉を鳴らして嚥み下した。
そしてゆっくりと、赤い奔流を舌先で誘い出し、滲んだ雫を舐め始める。
「……ン、は…」
知らず、熱い吐息が唇から漏れた。 肌の裂け目を執拗に這い、吸い上げてくる舌。 その蠢きに誘われ、兆そうとしている悦楽を堪えんと、ダッシュウッドは苦鳴を押し殺した。
両手はゲオリクの肩口に縋りつくように抵抗の形を変えている。
痛いほどに掴まれた髪から、いつしか束縛が失せた気配を感じることもなく。
…舌の愛撫がふと途切れ、襲いかかったときと同じ静けさで離れていった。 代わりに首筋へとあてがわれたのは、いっそう冷たく硬い、鋭利なもの。
無意識のうちに固く閉ざしていた瞼をひらいて、恐る恐る闇の空気を吸い込んだ男の瞳が映したのは、
「……だ、んな」
呆然と、ダッシュウッドは視界を上げるより他はない。
いつの間に抜きはなったのか、長剣の先端をぴたりと獲物の首に突きつけた―――ゲオリクの無表情へ。
音もなく伸びてきた左手が、するりと男の胸元へ滑り込んだ。 かと思えば、指先はそこから筋の浮いた首筋にかけて、緩慢な動きで辿ってゆく。 脈を紡ぐ鼓動を、その中心から直に触れて確かめるように。
そして、まだ新しいいくつもの傷に荒れた皮膚の、下に流れる生命のざわめきを感じ取ると、
「………旦那」
ゲオリクは剣の柄に両手を沿え……そのまま、一息にダッシュウッドの喉笛めがけて、切っ先を沈めた。
ゆら…、と、カンテラのか細い灯りが揺らぎ。
―――瞬き一つの刹那、ゲオリクの視界は深紅に染まる。
紅い業火が、闇と血の泥濘を嘗め尽くしてゆく。
肉の爆ぜる音。 骨の焦げる臭い。
気付くと、そこは見たこともないような、阿鼻叫喚の坩堝だった。
…否、これは懐かしい光景だと、ゲオリクの頭の奥で『何か』が哄笑を散らしながら意識を引っ掻く。
―――紅い視界の中央。
哭き喚く狂乱の群れの中で、ひとつの見知った顔がこちらを見つめていた。
彼は、笑顔だった。
彼だけが笑顔だった。 猛火の愛撫を受けて尚、それは、いつも自分に向けられたものと変わらず。
甘い、匂い―――
『これ』は、我が糧だ。
羽の折れた鳥だ。
……戯れに手を伸ばせば、すぐにでも狩り取ってしまえる……
「……だ……ま、れ!!」
低く震える声が渇いていた。
ゲオリクが正気に返ったとき、唇に感じた僅かな振動の余韻に、その制止の叫びを発したのは、自身の喉だったのだと遅れて気付く。
しんと拡がる静寂の中、徐々に五感が動き始めた。 目を、耳を凝らして、元の地下回廊の澱んだ空気と、暗い路面と、男の気遣わしげな眼差しを捉える。
数瞬の幻覚にまどろんでいたようだ。
両断したはずの首はちゃんとダッシュウッドの胴体と繋がっており、刃の犠牲はシャツの襟の片方と、幾房かの赤毛のみにとどまっていた。
寸前で彼が首をひねってかわしたのか、自分が無意識に損ねたのか、今はもうどちらともつかない。
ゲオリクの全身から力が解けた。 剣が両手の間を滑り落ちて、重い残響が鼓膜を打った。
「…旦那……大丈夫、ですか…?」
鉛の塊を詰め込まれたように重たい頭を抱え、苦しげに息を吐いた黒髪の男をダッシュウッドは労わる。
突然歯を立てられた首筋から血の筋を、突然刃に切り裂かれた髪の房と共に零れ落として。
「……何故……だ」
赤い鮮血。 赫い髪。
未だ鮮明な、白昼夢の中の紅がちらつく。
視界がまたも幻に喰らい尽くされそうだった。 ゲオリクはそれを瞼で遮断して、押し殺した呟きを発する。
「どうして……この状況で、俺を案じられる。 …たった今、殺しかけたんだぞ………俺は、お前を」
理不尽に傷をつけただけではない。 たとえ一瞬であれ、そして未遂であれ、殺意の刃を向けたのだ。
そんな相手を、どうしてそうまで気遣うような瞳でもって見つめられるのか。
―――今、この瞬間のみならず。 どうしてお前は、いつも。
ダッシュウッドがそっと、俯くゲオリクの頬に触れてきた。
繊細な硝子細工を愛でるに似た優しさで。
「旦那。 オレ、死んでないですよ」
「…それは結果に過ぎない。 悪くすれば死んでいたかもしれない」
「旦那は、意味もなくそんな真似をする人じゃないでしょう。 本当に刺されるわけないって信じてましたし」
男はよっこいせと半身を起こし、胡坐の体勢で座り直すと、懊悩する美しい貌を覗き込んだ。 死に瀕したランプの灯が、淡く互いの表情を映し出す。
「それに……いつか言いましたよね。 オレはいつだって、旦那のお役に立ちたいんですよ。
―――旦那がオレに望むなら、異を唱える理由はないんです。 何だって差し上げたい。 たとえ、それが……」
オレの命であったとしても。
彼は、笑顔だった。 困ったような、少しはにかむような。
けれど迷いのない、きっぱりとした口調だった。
反射的に瞼を上げれば、脳裏にまとわりつく幻覚の残り香と、目の前の微笑とが重なる。
ゲオリクは憮然と唇を噛み締めた。 目の奥が痛くて熱い。 …なぜか、泣きたいような心地がした。
「…旦那?」
脈絡のない抱擁に、男は戸惑った声を発する。
まだ血が滲んでいるのに、当人が涼しい顔をしている傷を見るのが辛くて、ゲオリクは肉の薄いその肩に額を押しつけた。
「……この、馬鹿。 自分の身ぐらい……もっと大切に扱え」
抱き締めた。 どこが傷つこうと、それを憂う者も慰める者もない、いたわしい身体を。
せめて今だけでも、力の限り、抱き締めたかった。
「旦那……無茶苦茶ですぜ。 いきなり襲いかかってきておいて、そりゃねぇッスよ…」
ダッシュウッドは苦笑しながら、ゲオリクの背中を優しく撫でた。 節くれだった細い指先が黒髪を通ってゆく。
「…はぐらかすな」
「ちゃんと分かってますよ。 …やっぱり、旦那は優しいお人だ。 ありがとうございます」
忍びやかに笑い、男が抱擁を返した―――のと時を同じくして、見計らったように闇が落ちた。 藍ずんだ空気をほのかに揺らしていたカンテラが力尽きたのだ。
「あ…消えちまいましたね。 火打持ってたかな…」
腰の物入れをまさぐろうとする手に触れ、ゲオリクは気配だけで動きを押しとどめる。
「……旦那…」
「………」
このままでいい。 ―――もうしばらく、このままで。
耳元で感じた吐息の囁きに瞠目して、しかしすぐに苦笑に戻った男は、闇色の美しい獣をもう一度抱き返した。
|