「…ふう。 ひとまず、今日はここまでだな」
一通りの縫合を終え、血に汚れた妹の小さな顔や身体を丁寧に拭いてやると、ゲオリクは額に浮いた汗を軽く拭い、椅子を引いて一息ついた。
尽力は実を結びつつある。 リリスの胴体は、今や完全に人としての形を取り戻し、あとはエリキサーの完成を待つばかりの段階となった。
霊薬の効能で、四肢の動きを差し支えないものにするよう、新たな生命力を得る。
…そうなればもう、リリスはお気に入りのドレスの下に全身の縫い痕を隠すだけで、何事もなかったかのように、かつての生活に戻れるのだ。
あと一歩―――と、ゲオリクの胸を万感の思いが満たし始めていた。
「……ごめんね、兄様。 …兄様だってすごく疲れてるのに……私のせいで、もう何ヶ月もこんなこと」
手術中は自身の肉体を直視するのが怖いのか、目を閉じてじっと作業が終わるのを待っていたらしい少女が、こわごわと瞼から瞳を開放しながら、か細い声で呟いた。
集中力を持続させすぎて汗ばんだ身体を冷やさんと上半身を脱いだゲオリクは、長い髪を結わう手をいったん止め、嗜めるように妹の頭を撫でた。
「そんなふうに考えるんじゃない。 お前は被害者なんだ。 責任を感じる必要はどこにもない」
「…でも、私がこうなったせいで……兄様が…」
「俺なら大丈夫だと言ったろう。 …それよりな、リリス」
ちょうど目線の合う高さで、黒髪の伯爵は妹の憂慮を解きほぐすよう、穏やかに微笑みかける。
「想像してごらん? ―――お前はもうすぐ、この窮屈な地下室から出られるんだ。 もう、誰の目を気にすることもない。
堂々と食事して、本を読んで、毎日好きなことをして。 外も自由に歩ける、街へ買い物にだって行ける。 …そうだ、ずっとサンジェルマンに会いたがっていたろう?
彼のところへ遊びにだって行けるんだよ」
「……サン、ジェルマン…」
久しぶりに聞く婚約者の名前を反芻して、リリスの表情に少しずつ輝きが戻り始めた。 重い暗雲の切れ間に
一条の光を捉えたかのごとく、大きなターコイスの双眸が本来の、少女らしい夢見がちな色を湛えてゆく。
「…そうね。 早く、彼に会って……またいろんなお話がしたいわ。 …お天気のいい日に、二人でどこか出かけたり…庭でお茶会をしたり。
薔薇のジャムやクッキー、スコーンもいっぱい用意して、王宮でのお話とか、いっぱい聞かせてもらって…」
「そうそう。 …そういう、楽しいことだけを考えていなさい。 暗い顔をしていたら、サンジェルマンに心配されるぞ。
…それに、元の身体に戻れるのをお前が楽しみにしていてくれないと、俺も頑張り甲斐がないだろう?」
最後の方は冗談めかした明るい口調に変えて、ぽんぽんとふたつみっつ、優しくリリスの頭を叩く。
それが、兄の気遣うときの仕種と知っている少女は、にわかに瞳を潤ませて、蒼白い顔には不自然なほど明るい笑顔のゲオリクから目線を逸らした。
「………色々、本当にありがとう……兄様……」
「うん?」
俯いた妹の小声が聞き取れず、ゲオリクが表情を覗き込もうとすると、途端にリリスはぱっと花が咲いたような満面の笑顔を返し、なんでもないわ、と誤魔化してみせた。
「お茶会には、兄様やミハエルも呼んであげるわね。 人数は多いほうが賑やかで楽しいもの」
「それは光栄だな。 お茶菓子を山ほど作ってもらわないと困るが?」
「任せて頂戴! …特に薔薇のジャムは、うんっとたくさん作らなくちゃね。 ちょっと目を離すと、すぐに誰かさんが瓶を空っぽにしちゃうんだもの」
「そこはご安心を、姫。 大瓶の用意と、薔薇の世話もおさおさ怠っておりませぬ」
「うむ。 殊勝な心がけじゃ。 褒美にそちの大喰らいの胃にも収まりきらぬほど、たっぷりと馳走してやろうぞ!」
くすくす、戯れのような言葉遊びに笑い合いながら、ゲオリクはさりげなく横を向いて、再び髪を結わえ始めた。
ごく必然的に前髪で双眸が隠れる瞬間、脇のテーブルに転がった硝子器具の表面を一瞥する。
それで、自分の顔を確かめた。
―――ちゃんと自然に笑えているか。 わずかな翳りも、取りこぼしてはいないかと。
リリス。
……すまない。
お前の作った、あの美味い薔薇のジャムを味わえる機会は、…おそらくもう、俺にはないと思う。
…などと。
無邪気に瞳を輝かせる妹を前にして、言えるはずもなかった、けれど。
清しいまでの笑顔の奥の奥で、内なるゲオリクが、倒錯した達成感に自嘲(っていた。
遺産相続の手続きは、既に済ませた。
自分の死と同時に、ザベリスク家のすべての財産はリリスと、そして義弟となるサンジェルマンの二人に引き継がれる手はずになっている。
…その大部分は父の遺した借金の返済に消えてしまうが、それはそれで別に構わない。
リリスは遠からずカッセル家に嫁ぐであろうし、二人の婚姻生活を圧迫する心配もないだろう。
…乙女(と呼ぶにもまだ幼い妹や、あの気立ての優しい幼なじみの男を遺してゆくことに、後ろ髪を引かれないと言えば嘘になる。
が、その辺りの件に関してはミハエルにそれとなく頼んでおいた。 …もっとも、あの男ならば改めて頼まずとも、何くれと世話を焼いてくれるとは思うが。
…ふと、契約とやらで魂を抜かれた後、自分の骸はどうなるのだろう、との思案が頭を掠めた。
確かメフィストの話によれば、自分の主人の器に…ということだったから、おそらくは身体ごと地獄へ直行か。
ちょうどいいな、と思った。 死体がそのまま屋敷に転がっていたら、葬式だの何のと、遺された身内や知人にいらぬ面倒をかけてしまう。
その点、行方知れずということにできれば、リリスやサンジェルマンは最初こそ心配するかもしれないが、ゆくゆくはそんな杞憂も時が解決してくれるはずだ。
やれることは、思いつく限り、すべてやった。
もう、思い残すことは何もない。 何も―――………
(―――旦那のことは……このオレが、命に代えてもお守りしますから……!!)
今にも泣き出しそうに震えながら、それでもひたむきにゲオリクを見据えてきた、琥珀色の双眸。
―――あいつ、は。
俺がいなくなった後、また、あんな必死の目をして、俺を探し回るのだろうか。
俺が突然、行方をくらましたことで、多額の負債の取立先をみすみす逃がした……と主人に責められて、またひどい咎めを受けはしないだろうか。
……また、あのときのように、声を殺して泣くのだろうか。
縋れるものもなく。 たった独りで。
或いは、…この俺でない、他の誰かの胸を借りて。
「兄様……?」
―――鈴を振るような少女の声が、不安げに揺れていた。
ゲオリクはまどろみの沼底から意識を引き剥がすと、たちどころに笑顔を繕って振り向いた。 状況を思い出したのだ。
なんら事情を知らぬ妹の前で、物思いに耽るべきではない。
「…ん。 どうした?」
「私がそれを訊いてるの。 ……兄様…さっきからどうしたの?」
「俺? 別にどうもしないぞ。 ちょっと、考え事をしていただけで…」
「だって、…兄様、震えてるわ」
リリスの言葉に唖然として、幾度か瞬いて、のろのろと自分の両手を取り出してみる。
……小刻みに、震えていた。 手だけではない。 腕も、脚も、全身のどこもかしこもが。
「…こんな格好でいたから、少し、汗が冷えたらしいな。 …なんでもないから、気にしないでくれ」
ぎこちない苦笑を噛み殺し、妹の視線を躱すように、椅子にかけられた自分の上着を取って羽織りだす。
気遣わしげに、じっと見上げてくる瞳。
……記憶にまだ新しい誰かのそれを思わせるもので、胸の奥が切なく軋んだ。
怖気づくな。
歩み続けろ。
恐怖心という名の鎖が断ち切れないならば、それを引きずり、這ってでも前へ進め。
ぎりぎりの崖っぷちで凝固を拒む水のように、張りつめきった身体が、心臓が……冷たくて。
(『死を恐れる自分』を、怖がらねえでほしいんです―――)
……繰り返し、内面を揺さぶるその声に、自らの意志でもって蓋をした。
今、立ち止まってしまったら、…お前の手を取ってしまったら、
―――俺はそれ以上、一歩たりとも踏み出せなくなる……予感が、生まれたから。
だから、もう縋ったりはしない。 二度と、会うこともないだろう。
お前も早くすべてを振り切って、……俺のことも振り切って、自分の幸せのために生きていくべきだ……―――
「…あら?」
身支度を整え、最後に束ねた髪を服の背中から引っ張り出した刹那、目ざとく何かを発見したようなリリスの声が、ゲオリクを再び振り向かせた。 なんだ?
と小さく眉をひそめる兄の、普段は髪に隠された首筋の周辺を注視しながら、リリスは不審そうに首を傾げている。
「兄様、それどうしたの? 首の……右耳の下の辺り。 なんだか、赤い痣ができてるわ」
「…痣?」
指摘された箇所に触れ、妹の言葉の意味を考える―――と、たちまち、深く考え込むまでもない可能性が導き出されて、ゲオリクはサッと顔色を変えた。
元からあまり血色が良好とは言いがたい、白い顔が一瞬蒼ざめた…かと思うと、今度はかすかな紅潮が浮かんでくる。
そして、リリスもゲオリクが侮るほどに子供ではない。 兄の表情の変化を見て、女の勘が働いたらしかった。
「……兄様〜? 私の知らないところで、どこのご婦人といい仲になったのかしら?」
「な、何を言ってる。 ただの痣だろう、たぶん虫に食われたか何かで………そんな目で見るな!」
頬を引き攣らせるゲオリクの動揺ぶりに、少女はもっともらしく深々と溜息をつく。
「…そうよね。 兄様だって若い男の人だもの……そういう話のひとつやふたつ、ないほうがおかしいわよね」
「お…大人をからかうんじゃないっ。 …第一、俺はお前の身体を元に戻すための研究で手一杯なんだぞ、そんな呑気に遊んでいられる暇があると思うか?」
「……ホントに? 本当ーーーーに、誰とも何にもしてないって言いきれるのね?」
「…ぅ……も、もちろんだとも。 決まってるだろう!」
いかな木石漢のゲオリクであれ、流石にこの年になって、妹にこの手の話題を振られた程度で狼狽するはずはなかった。
涼しい顔で適当な言い逃れを並べることも、決して難しくないはずだった。
…リリスの言うように相手が『ご婦人』で、かつ『いい仲』と呼べるような、のどかで普通の関係であったなら。
めいっぱい疑わしげな妹のまなざしに冷汗を感じながら、ゲオリクの脳裏を先日の、―――あの怪しげな秘密結社に出向いた夜の出来事が駆け巡る。
おそらく、…否、十中八九あのときだ。 いつの間に、と考える気も失せるほど、他に心当たりがない。
何より、間違いなくあの男の仕業だ……という、どこか奇妙なまでの確信があった。
そそくさと医療器具をかたし、気まずい空気から逃げるようにして地下室を出た。
靴音高く廊下を踏みしめて歩く、ゲオリクの切れ長の眦が、きりきりと音を立てんばかりにつり上がってゆく。
…人が潔く、有終の美の覚悟を決めようとしているときに、あの野郎ときたら。
後腐れを残さないよう、二度と会わないなどと意志を固めて、ガラにもない心配までしてやっていたというのに。
―――やめた。 このままじゃ、死んでも死にきれん。
しおらしい顔して、しっかりマーキングしていきやがったあの馬鹿に、躾の一発でも喰らわしてやるまでは。
(あの、バカ犬め……!!)
茹だるように頬を熱くしているものは、赤っ恥をかかされたことに対する羞恥か、怒りか、…それとも。
既に身体の震えは治まり、心を凍てつかせる恐怖も、絶望も、すっかり融かされてしまっていた。
<Fin.>
…ごく軽いエピローグのつもりが、思ったより長くなってしまいました。(爆)
蛇足だったかな…(汗) シリアスなんだかギャグなんだか、半端なオチですみません。;
とりあえず、ダッシュの「想いの証」はちゃんと旦那に見つけてもらえましたよ〜、と。(笑)
あ、途中の「声を殺して泣く」ダッシュというのは、ゲーム本編ではなく、自作の今後の伏線です。^^;
ちなみに時間軸は、「結社入団」後〜「ウルフガング・ザベリスク」の前くらいで。(矛盾があってもご勘弁を;)
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