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 ―――やはり、顔や態度に表される以上の、相当な消耗に耐えていたに相違ない。
 蒼xの瞳が瞼のなかへ抱かれてから、ほどなくして静かな寝息を立て始めたゲオリクの、陶器めいた白い顔に見入りながら、男はその安らぎを妨げまいと、唇の隅だけで微かに苦笑した。
 なんて、無防備なひとだろう。 …そんな安心しきった子供の顔で寝られちゃ、襲うに襲えないじゃないか。
 身体の横でぞんざいに投げ出されている彼の右手に、そぉっと触れた。 長い睫毛が一瞬、ふるっと揺れたが、そのまま覚醒にまでは至らなかったようだ。 ダッシュウッドは微笑を深めると、ゲオリクの指の一本一本に自らの指先を絡ませていった。 起こさぬよう殊更にゆっくりと、慎ましく。 そうして最後に手のひらを合わせ、親密な恋人同士が繋ぐ手の形をつくってみる。
 手袋越しだが確かに感じる、ほのかな温かみ。 ―――あの星の夜、自分を導いてくれた大きな手。
 この手のひらを握り返して、闇色の疾風のような背中を追っていけば、どこまでだって行ける気さえして。


 ああ、まただ……、と、ダッシュウッドは目を瞑って、軽く嘆息した。
 また捕らわれている。 いつもの、(よし)ない夢想。
 この澱んだ地下を抜け出して、光に満ちた表の世界で。 大切な誰かと一緒に、普通の生活を…。
 結社の一員に加わってから、…否、結社と初めて関わりを持ったその日から。 ずっとずっと心の奥底を占め、常に自分を誘惑し続ける甘い望みが、またも頭をもたげようとしていた。

 瞼を上げれば、見慣れた回廊の暗い壁、床、天井。 …通路の向こうが見通せないほどの濃い闇は、「暗闇が口をあけている」と己の先を予見したゲオリクの言葉に、奇しくも似つかわしい。 ある意味ではこの地下通路も、巨大な魔物の口腔だ。 足を踏み入れた者を深く飲み込んで、ゆるゆると溶かし、やがて糧へと変えてゆく。
 そして今、ここに。
 ダッシュウッドは、自分の肩を借りて眠る、高貴な黒髪の伯爵に視線を移した。
 魔物の蝟集(いしゅう)する地の底に、迷い込んだ異分子。 不自然な、ありえないほどに……美しい、獣のような、ひと。


 …これまで、身を寄せる相手はいつだってリュースブルグだった。 友人というよりは家族に近い、気心知れた幼なじみ。 遠くへ行きたい、との思いを馳せるときも、『リュースも一緒に』は当然についてくる考えで、彼と離れ離れになって生きようという選択肢は頭に浮かんだことすら、なかった。
 守りたいのは、共に生きたいのは、あの繊細な金色の花だけだったのに。
 ……いつから、だったろうか。 そんな心に、変化が訪れていることを自覚し始めていた。

 ゲオリクのしなやかな指に絡めたダッシュウッドの指先が、きゅ、と力を得る。

 時折、…そう、まだ本当に時折なのだけれど。
 間違いなく、求める瞬間があるのだ。
 伯爵、リュース、……そんなしがらみも絆も一切を捨てて、このゲオリクという人の手だけを取りたい……、と。

 

 

 ―――無理だって、分かりすぎてるぐらいに分かってる、のにな。

 

 とうに口付けの余熱は遠のき、本来のかさついた感触を取り戻してきた唇が、自嘲の形に歪んだ。


 主の怒りに触れることが怖いから?
 幼なじみに裏切り者と罵られることが怖いから?
 …否、それらはきっと付随要因であって、本当の理由ではない。

 ここから逃げ出したい、逃げ出したい、逃げ出したい―――……。
 苦難に直面するたび、自分が行き着くのはいつでも、そればかりだ。
 不毛な神頼みの如く、それを繰り返すだけ。 ずっと結社のあり方に疑問を拭えず、この歪んだ場所には誰かがピリオドを打たねばならない、という思いは動かしがたく存在するのに、ひとたびその『誰か』を自身に引き寄せて考えれば、たちまち背筋が冷たくなってしまう。
 足りないものは物理的な力、そして社会的な力。 だが、それ以上に。
 …死体の扱いに長年慣らされてきたこの手は、死と近しいがゆえに、臆病になりすぎて。
 ゲオリクの身体を一時的に温めるには充分でも、彼を守り通すことなど、到底できはしないだろう。


 ……そう。
 あなたを攫って、どこか遠い果ての地へ、と願う同じ胸の裏側で、オレは安堵してもいたんだ。
 あなたへ向けて伸ばした手が、いつまでも空っぽのまま無視されるであろう事実に、狡猾な胡坐をかいて。

 

 ピジョン・ブラッド。
 ダッシュウッドをそう呼んだゲオリクの例えは、皮肉な意味合いでなら、言い得て妙なのかもしれない。
 かつては、自由に羽ばたける翼があったのか。 既にそれすら分からないまでに、作り変えられた生命。 主の気まぐれな要求に沿うべく、全身を削られ、器に押し込まれて、彼の望む形を目指し、研磨に研磨を重ねられてゆく。 ―――表面だけが、中身を伴うことなしに。
 ダッシュウッドばかりではない。 リュースブルグも、かつて結社の地下牢で非業の死を迎えたゲオリクの父も、……そして、党首たるサンドウィッチ自身も、或いは。 地獄の火クラブという巨大な檻から逃れられない、哀れな『ピジョン・ブラッド』なのだ。
 地上での居場所を失った者たちが身を寄せ合い、永遠の美と快楽とを貪欲に希求し続ける、『楽園』。
 そこにひしめく無数のいきものは、生命体としての循環を為さない。 世界の片隅で、誰も、神さえも目の届かぬ世界の片隅で、汚泥と腐臭に埋もれたまま、朽ちてゆくだけ。
 塵芥(ちりあくた)よりちっぽけな虫けらでも、この世を動かす循環のなかに加わっているというのに。
 地下で生きるオレたちは、……きっと世界から見れば、『人間』どころか『生命』ですら、ないのだろう―――。


 (………だとしても)


「……ん…、」
 横を向けば唇が黒髪を掠めそうな近さで、ゲオリクが細い吐息を零した。 起きたかな、と顔を覗き込んでみたが、枕代わりのダッシュウッドの肩へ頬をうずめ直すように動くと、また寝息が一定に戻る。 いつもなら柔らかい羽枕に抱きしめられて寝ているはずのゲオリクだから、今の寝心地など最悪だろうに、よほど疲れているのか。 …本来、物言いは淡白でも根は優しい性質の彼が、悪魔のような形相で研究書を読みかじり、バラバラにした死体や妹の首と向き合っている光景を思い、男の双眸が憐憫の色をおびた。
 繋いでいた手をほどいて、緩やかにゲオリクの頭部を、肩を撫でさする。 精一杯のいたわりを込めて。


 ―――生きよう、と、意志がはっきりと脳裏を貫いた。
 あれこれ、自分の立場を難しく思い悩むよりも。 ここから逃げ出したい、と果敢ない夢に縋るよりも。
 …守るだの何だのと、きっとゲオリクのような男にしてみれば、生意気なお節介。 自分は、彼のためにできる限りのことを考え、尽くして、多少なりとも力となれればそれでいい。
 踏み出すことへの恐怖心という鎖が断ち切れないならば、それを引きずり、這ってでも前へ進めばいい。
 がんじがらめの身体だろうと、自分はまだ、おのが意思でもってそれを動かせるのだから。
 命を捧げる相手は、この人だけと、もう心は決まっているのだから。
 生きよう。 これからも、ずっと。
 …そして。


 (……ねえ、旦那。 “鳩の血”って、黒魔術の世界じゃあ、何に使うもんだか知ってます?)


 眠り姫の息遣いを感じながら、ダッシュウッドはちらりと舌を覗かせると、自身の唇を軽く湿らせた。
 児戯を楽しむかのような光と、罪悪感の翳りとが、複雑に渦巻く瞳でもって。

 

 もしもこの身が、あなたの言うように、“鳩の血(ピジョン・ブラッド)”なのだとしたら。

 オレはあなたの心の奥深くに、鮮烈な何かを残せる存在でありたい。
 たとえ無力な欠片でも、幼い頃のあなたを惹きつけてやまなかったという、紅い石ころのように。


 先刻、ゲオリクに吸われた痕が残っているであろう首元を、そっと指先に確かめる。


 …あなたの綺麗なこの肌にも、想いの証をひとつ、刻むことを許してください。
 せめて、もうすぐあの人の、毒の(いばら)によって蹂躙されてしまう前に。


 カンテラの灯りを吹き消して、心のうちで恭しく十字を切ると、目の前の蒼白い寝顔に詫びる思いで、ダッシュウッドはゲオリクの艶やかな黒髪をかき分け、露になった首筋の深みへと口づけた。
 闇の中、唇で探り当てた肌はしっとりと、温かく。
 甘やかな薔薇の残り香に混じって、…かすかに感じた鉄の匂いは、どこか、嗅ぎ慣れた死臭に似ていた。

 

 今は。
 今だけは。
 この温もりを誰にも渡すものか。 オレだけのものだ―――。

 

 

<Fin.>

 


 

 後書きです。

 まず、す み ま せ ん (ジャンピングめり込み平伏) 無駄に長くなりすぎてしまいました…内容も制作期間も。
 6月辺りに書き始めてから、もうすぐ半年です。ありえない遅筆で申し訳ありませんでした;;
 テーマが途中で空中分解してる感もあるなあ…(汗) 伏線、回収しきれず。今後の反省点です…(><)”

 補足・その1。
 「鳩の血」。黒魔術においては主に、
愛の呪文などを記すのに使われるそうです。(笑)
 まあ、それだと名称はPigeon bloodじゃなくDove's bloodになるんですが…ま、細かいことは気にせず♪(^-^;)

 補足・その2。
 「Pigeon blood」。鳩の血・ルビーの深紅という意味の他、中世ヨーロッパでは婚儀の翌朝、婚姻成立の証拠としてハンカチに鳩の血をつけて窓から示したことから、
「処女血、純潔」の意味もあるのだとか。
 …つまり、旦那の言った
「これからは俺が相手のときだけにしろ。お前は俺だけのピジョン・ブラッドであればいい」
 という科白は、世が世ならば

「これからは俺以外の男に足を開くな。お前は俺だけの貞淑な妻であればいい」

 と、かなり強烈なプロポーズに取られかねませんが、ここはハードランドなのでナチュラルにスルーです。(笑)


 …ともあれ、こんな長いssに最後までお付き合い下さって有難うございました!!
 当方、そろそろ旦那とダッシュがラブイチャしてる場面だけで原稿用紙百枚ぐらい書けそうですが何か?(爆)

 

※…こっそりと続き。旦那の後日談です。背景がいきなり明るくなりますのでご注意。^^;↓
 

 

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