理想郷、の定義など、人それぞれなのだと思う。
腹を満たすに困らぬ生活。
望むものが望むまま、何でも手に入る立場。
命ある限り、決して辿りつくことのない世界。
そうした、模糊たるイメージだけがすべてであり。
それは邯鄲の夢か。
存在しうる現実か。
幼い頃から研究に明け暮れた、この手をふと休めるとき、決まって稚い想像に捕らわれたものだった。
目を凝らしていれば、或いは見えるのだろうか。
わたしにとっての理想郷(も、いつか、どこかで―――
True Eden.
ざぁ…っ。
新緑の風が木陰を揺らし、通り過ぎた。
澄み渡った初夏の空は、部屋篭りに慣れた目を思わず眇めさせるまでに清しく。
「―――ここにいたか。 ウルフガング」
ふと、朗々たる声に呼ばれて。
振り向いた先に、陽だまりが舞い降りていた。
「叔父上…」
品のいい微笑みとともに声をかけてきたその人は、わたしの叔父。
彼はしなやかな長身に、まだ幼い二人の子供を抱いていた。
一人は肩の上に乗せ、もう一人は腕に抱え。
幼子特有の、きゃっきゃとはしゃぐ歓声とともに、美しい陽光の色が歩み寄ってくる。
「うるふがんぐ!」
舌足らずの愛らしいボーイソプラノが、叔父の言葉を真似てわたしの名を呼ぶ。
肩車をされて上機嫌なのか、猫のような金色の瞳をきらきら輝かせた、赤毛の少年がこちらに向かい、小さな手のひらを懸命に振っている。
「ザベリスク伯、ですよ。 アガシオン」
続いて叔父に抱き上げられているほうの、若干年上らしい少年が、大人びた口調で弟を嗜めた。
透けるような金糸の髪も、男性にしては繊細な容姿も、叔父によく似た印象なのが微笑ましい。
「うるふがんぐは、うるふがんぐだろー? おとうさんだって、そうよぶじゃん」
「父上は、彼よりも年上だからいいんですよ。 でも私たちから見たら彼は目上の人なんだから、ちゃんとした呼び方をしないとダメです」
「カンタレラの言うとおりだ。 アガシオン、親しき仲にも礼儀あり、だよ。 これからはザベリスク伯と呼ぼうな」
金髪の息子の意見に頷きつつも、叔父は白い喉を震わせて優しく笑っている。
父に味方をしてもらえなかった赤毛の少年は、納得いかないと言いたげに頬を膨らませたが、そのどんぐり眼がわたしの連れている、見慣れない子供の姿を捕らえると、たちまち好奇心を引かれたようで、身を乗り出すようにしてまじまじと見つめた。
「…おや、そちらの紳士はゲオリクかね?
少し見ないうちに、また大きくなったな」
「……ご無沙汰しております。 伯爵」
下の子の関心の先に気付いてか、わたしの隣に立つ息子へと叔父が笑いかけた。
冗談交じりに紳士、などと評された、今年8歳になる息子は、硬い表情のままでぺこりと頭を下げる。
親の欲目か、この年頃にしてはしっかりした応対のできる子だと思うが、いかんせん人見知りが激しいのだ。
親類といえど、めったに拝顔する機会のない相手では、打ち解けて話せと言うのも酷だろう。 困ったものだ…、と叔父と二人で苦笑を見合わせていると、
「おとうさん、おとーさん!! オレおりたい、おりたい!!」
肩車の子供が不意にじたばたと暴れ出した。
細い小柄な身体が危なっかしく重心を崩して揺れ、叔父は髪を引っ張られながらも、落とさないようにと慌てて腕の中へ抱き直してやる。
そこからぴょんと身軽に飛び降りるが早いか、少年はまっすぐに駆け寄ってきた―――わたしの息子のもとへ。
ぎょっとしているゲオリクの目の前まで来ると、その子は、
にこっと屈託のない笑みを満面に浮かべ、小さな手を差し出した。
「オレ、アガシオン。 おねえちゃんは?」
「……え?」
「―――アガシオンッ!」
流石に少し引き攣った叔父の声が飛んでくる。 いけない、と思うより前に、わたしは吹き出してしまっていた。 息子は色白で、髪の長さも肩を超える程度。
初対面の幼児が間違えるのも無理はないかもしれない。
「彼は由緒あるザベリスク家の嫡男でいらっしゃる。 若様とお呼びしなさい」
「…おねえちゃんじゃないの?」
「お前と同じ男の子だ!」
大またで近づいてきた父親に頭を押さえられ、会釈を促された少年はきょとんと瞬いた。 注意される理由がよく理解できなかったようだ。
しかし素直な子らしく、すぐにゲオリクへ向き直ってまた笑顔に戻った。
「えっと、じゃあ。 わかさまのなまえは?」
「……ゲオリク・ザベリスクだ」
見知らぬ年下の子供から、いきなり女の子扱いされたのが面白くなかったのだろう。 愛想に乏しい息子はますますふてくされ、ぶすっとそっぽを向いて応えた。
わたしに背中を叩かれて、仕方なく…といったように形だけの握手を返した。
―――途端、その手を思いきり引かれ、たたらを踏みかけたゲオリクが何事かと目を丸くする。
が、息子のそんな戸惑いは伝わらなかったのか、赤銅色の髪の少年はぐいぐいと腕を引っ張り、一緒に遊びに行こう! と、早くもどこかへ駆け出そうとしていた。
どうやら、唐突に懐かれてしまったらしい。
「…おい…、どこ行こうってんだよっ」
「えへへっ、いいところ。 オレのとっておきのばしょ。 わかさまにもおしえてあげる!」
ひたすら困惑するゲオリクを余所に、子供は弾んだ表情で遊歩道の向こうを指差した。
「こうえんのはじっこに、でっかーいオレンジの木があるんだ。 いっしょにのぼろ!」
「ちょ、…何でおれまで…おい、待てって……!」
幼児らしい強引なエネルギー。 長男で一人っ子の息子はそれにどう対応していいのか分からないようで、救いを求める目をわたしに向けた。
これは良い機会だと思った。 わたしは息子の視線を受け止め、しかしにっこりと笑ってやる。
「いいじゃないか、ゲオリク。 折角のご招待なんだ、丁重にお受けするといい」
「ついでに仲良くなってやって頂けないかな? ゲオリクがうちの子のご友人になってくれると、私もありがたい」
横からすかさず叔父も便乗し、畳み掛けるように莞爾(と微笑む。
援軍が期待できないことを悟ってか、息子はしかめっ面をいっそう濃くしたが、反論の口実も見つからなかったと見え、渋々ながらも少年に引っ張られていった。
アガシオン、と呼ばれた子のあどけない笑い声と、息子の背中が遠ざかってゆく。
「あまり遠くへ行っては駄目だぞ!」
終始楽しげな調子ではあったものの、叔父が一応の父親らしい顔を覗かせて声を上げる。
ふと、彼の腕の中に残された金髪の少年はというと。
嬉しそうに駆けていった赤毛の子の後ろ姿を、じっと目で追っていた。 横顔にどこか寂しげな陰りがある。
叔父も察したようで、その柔らかそうなプラチナブロンドの頭の上へ、ぽんと手を置いた。
「…お前も一緒に行ってはどうだ? カンタレラ」
「……私は、別に……」
促されても、その子は俯き加減で瞳をさまよわせるばかりだ。 内気なのか、弟を取られたようで拗ねたのか。
わたしにはどちらとも判断つかなかったが、叔父は慣れた様子で髪を撫でてやっている。
「私がそうしてほしいのだよ。 …アガシオンは、あのとおり落ち着きのない子だろう? 目を離すと何をやらかすか心配だ。
しっかり者のお前が一緒なら話は別だがね」
少年が顔を上げた。 叔父は彼を腕から降ろし、地面に立たせてやると、花のほころぶような笑顔を見せた。
「私の代わりにあの子を監視してきておくれ。 場所は分かるな?」
「…はいっ!」
どうやら待ちわびた言葉だったのだろう。
ぱっと瞳を輝かせると、少年は元気に先の子供たちの後を追って走り出した。
「―――やれやれ、まったく。 この年になると、子供の相手はこたえるな」
金髪の少年の華奢な背が見えなくなってから、叔父は苦笑し、二人の幼子から解放された四肢を解すように伸びをした。
つられるように、わたしも苦笑いを返す。
「あのくらいの年頃の子は、何かと難しいものですからな。 わたしも息子には始終手を焼かされております」
「ゲオリクにか?」
叔父の形よい眉が意外そうに持ち上がる。
「彼はうちの子供らほど手はかからんだろう? 聡明ぶりは私もよく聞き及んでいるぞ。 それに…見た感じ、割と聞き分けの良さそうな子じゃないか」
「…はあ。 確かに、あまり我侭は言わない子ですが……多少頑固というか、ぶっきらぼうなところがありまして。
同年代の子らと、なかなか親しくできないようで……そこが親としては悩みの種でもあります」
「なるほど。 それはそれは、誰かさんの幼い頃とそっくりなわけか」
くすくす、意味ありげに笑われても、身に覚えのありすぎるわたしは、バツの悪さに黙り込むしかない。
「お前も私以外の大人はおろか、年の近い子供にすら、まるで懐かなかったな。 ほとほと気を揉ませたものだ」
「……叔父上のように存在感がおありの方がすぐ側にいらっしゃっては、詮なきことですよ」
わざとらしく嘆息してみせたが、かえって拗ねた子供じみた言い草になってしまった。 叔父の笑みが深くなる。
そうして、他愛もないやり取りを交わしながら、また歩き出した。
かすかな薫風が彼の髪と戯れては、光をまぶし、通り抜ける。
端から聞く者があれば、なんとも奇妙な会話と思われただろう。
この陽光色の髪の持ち主は、言葉に見合った年齢などまるで感じさせない。 どころか、甥であるわたしよりも若々しく見えるほどに、彼は美しく輝いている。
そして、それはおそらく、容姿のみの輝きではないのだ。
わたしが物心つく以前から既に社交界の花形だったと聞く、叔父。
抜きん出た美貌は言うまでもなかったが、文芸に秀でた才覚や、あらゆる世事に通じた弁論術の巧みさなど、彼は人心を惹きつけてやまない魅力に満ちあふれていた。
彼の周囲からは常に人が絶えることはなく、―――それでいて、彼は浮いた噂ひとつ流さない。
生半可なご婦人では傍に立っただけで霞んでしまうだろうから、かえって女性から敬遠されるのだろう…などと皮肉交じりにそやされていることもしばしばだったが、彼自身はいつもどこ吹く風だった。
それこそ、わたしが幼少のみぎりから、叔父を他の大人たちとは別格として捉えていた最大の要因だったかもしれない。
勉学に没頭していたわたしにとって、女に入れ込んで時間と財産を濫費する貴族たちの放蕩などは侮蔑の対象でしかなかった。
それに比べれば、たとえ寝食を惜しんで趣味のカードに熱中することはあっても、異性との交遊には見向きもしない叔父の姿は、よほど潔癖なものとしてわたしの目には映った。
叔父は昔からずっと、わたしの憧憬のすべてであり、誇りであったのだ。
「……私は時折、お前が羨ましいよ」
物思いにふけっていたわたしを我に返らせたのは、ぽつりと呟かれた叔父の一言だった。
「優秀な跡取りにも恵まれ、貴族でありながら、人を救い信頼を集める立場にいる。 …私には、何もないからな」
「そんな……」
美しい睫毛が自嘲気味に伏せられるのが信じがたかった。 わたしは決して、彼から羨望を向けられるに値する人間ではない。
「叔父上にもご子息がいらっしゃるではありませんか。 とても素直で賢そうなお子さんがお二人も」
「…まあ、それはそうだが、あの子らは二人とも養子だしな。 私の跡など継いでくれるものかどうか……」
―――そう。
叔父には元々、妻子がなかった。 …女性を愛せない性癖を抱えているのだと、わたしが聞いたのは大分後になってからのこと。
あの少年たちは彼がかつて貧民街から拾ってきた子供で、カンタレラ、アガシオンという名前も彼がつけたものだ。 本当の名は知らない。
やがて歩くうちに、あの赤毛の子供が言っていたオレンジの木が遠くに見えてくる。
なるほど、雄々しい大木だった。 生命の喜びを全身で体現するかのごとく、天空へ向かっていっぱいに枝葉を伸ばしている。
その息吹に抱かれて、弾けるような子供たちの歓呼の声が木霊している。
そこにあるものは。
「私は……父親になりうるだろうか」
あの子らに母を迎えてやれない、この私でも。
暗にそう吐露して、叔父が眩しげに目を細めた。 ひどく、頼りない表情で。
何故だろう、…唐突に今ここで、この人を抱き締めたい衝動が沸き起こる。
「とうに、そうなっていると思いますよ。 彼らのあの笑顔が、何よりの証ではないですか?」
家庭という、完成された形でなくとも。
―――そこにあるものは、間違いなく、ささやかな理想郷だったから。
それを願いたいものだな、と薄く笑ってから、叔父は思い出したようにわたしを振り返った。
「そういえばウルフガング、奥方はどうしている? もう何年もお会いしていないが……」
「ああ…息災にしておりますよ」
「それは何よりだ。 そろそろお前のご子息も、弟妹が欲しい頃だろうしな?」
彼の気遣いが嬉しい。 にこやかに話を続けようとして、わたしは、
―――ふと、何かの歯車が噛み合わないような、奇妙な感覚を覚える。
妻の話をしようと試みても、何も話題が浮かばないのだ。
最近はどうしているのか、昨日はどんな会話をしたのか、今朝の食事は何だったか。
それはおろか、妻の名前さえ出てこない。 …思い出せない。
妻? そもそも、わたしに妻などいたか?
…否、息子がいるのだから、妻もいて当然だろう。 ―――では、わたしはいつ結婚したというのだ?
「…ウルフガング?」
怪訝な瞳に覗き込まれる。
刹那、わたしの視界は暗転し―――
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