―――そして心地よい泥のような眠りから、わたしは覚醒した。
シンと静まり返った闇。 錆びた鉄の匂いと腐臭とが、どこからか鼻をつく。
空気に異様な湿り気を感じる。 …その感覚で、霧がかっていたわたしの意識は急激に鮮明になる。
見渡すまでもなく、ここはいつもの研究室だ。
『彼』によって押し込められた、永遠に光に見放された場所。 皮肉にも、今のわたしには似つかわしい。
調べものの途中で寝入ってしまったらしく、机に突っ伏した姿勢だった。
少し首の後ろが痛む。
ゆっくりと息を吐き出し、硬くなった筋肉を解すために首を回してみる。
刹那、―――なにか冷たいものがヒタリと首筋に触れ、わたしは呼吸が止まるほど驚愕した。
「…おはよう。 ウルフガング」
聞き慣れた声だった。
背後から鼓膜へと流れ込んだその声によって、この冷たい感触は『彼』の指先なのだと理解する。
…かと思うと、それはするすると絡みついてきて、わたしの喉元を締め上げた。 戯れのように優しく。
「……、…驚かさないで、くださ…い……」
「ふふ……可愛い寝顔を晒していたな。 私の気配に気付かなかったか?」
『彼』の長い爪が、徐々に喉の肉に食い込んでくる。 捕らえた獲物を嬲る猫にも似た児戯。
与えられる圧迫とかすかな痛みから逃れたくて、『彼』の指先を剥がそうと手をかけた。
「……う!」
―――途端、耳障りな音と衝撃とともに、わたしは上半身を机の上に押し付けられた。
無数に積まれていた書物の山がドサドサと崩れ落ち、蝋燭の粗末な明かりが危うげに揺れる。
身を起こそうとするよりも早く、首を絞められる力が渾身のそれに変わり、わたしは息苦しさにもがいた。
酸素を欲して大きく喘いだ、その唇を、覆い被さってきた柔らかな感触でもって塞がれた。
「ん、……んっ、」
口付けられている、とわたしに教えたのは、蠢くものに歯列をなぞられ、漏れる自分自身の呻き。
押しのけようとしても、執拗な舌先がもたらす圧迫はすぐに悦楽へとすり替わり、抵抗の力を奪ってしまう。
…やがてゆっくりと接吻をほどかれると、乱れた息の向こうで、『彼』が満足げに微笑んでいた。
「神聖な黒ミサの場でお前を味わうのも楽しい、が……たまには、こういう闇の静けさも悪くなかろう?」
憧憬の対象、だなどと。
なんという甘い夢を貪っていたものだろう。
わたしに絶えずこうした責め苦を与える『彼』こそ―――本来の叔父の姿であり、憎むべき存在なのだ。
されど……
「……あ、…ぁ……あ…」
その指先に服をはだけられ、かさついた肌の上を瑞々しい舌が滑ってゆくと、わたしはもはや抗えない。
もう、この肉体のどこもかしこもが、叔父の愛撫を覚えてしまっている。
痩せ衰え、朽ちてゆくばかりの身に……懐かしい情炎の熱さを呼び戻す、その苛虐を。
父親になりうるだろうか…、と。
心細げに呟かれた、あの夢の中の叔父の言葉は、わたし自身の最後の良心の呵責だったのかもしれない。
わたしはもう二度と、愛する子供たちのもとへは戻れないだろう。
そう、たとえ叔父の監禁がなくとも。 わたしは父親としての資格など、とうに放棄してしまったに等しい。
「…さあ……迎え入れてくれ、ウルフガング。 私を……お前の中へ」
美しい声に、甘く意識を侵され。
言われるがままに下肢をひらいて、彼を受け入れずにはいられない……
今のわたしに、あの理想郷は眩しすぎる。
いくつもの笑顔にあふれた光の夢を、遠く思い起こしながら、わたしは背徳の灼熱に身を委ねた。
*****************************************************
「夢枕に誰ぞ立ったのか?」
研究机の上で一度、そのあと移動した寝台で、なし崩しに再度。
なけなしの体力を絞りつくされて、ぐったりとシーツに横たわっていたわたしの隣から、叔父が声をかけてくる。
言葉の真意を測りかね、眉をひそめて見つめ返すと、彼は逆におや、と言いたげな表情になった。
「今日はお前にとって、多少は特別な日なのかと思っていたが。 …クッ…そうだな。
地上での日付など、もはやお前には把握する術も、その必要もないものな…」
「…今日?」
何らかの重大な日だったのだろうか。
当惑するわたしを焦らすかのごとく、彼は殊更おもむろに、ベッドの縁にかけたファーコートの内側から、親指ほどの大きさのガラス瓶を取り出し、示してみせた。
細い指先に弄ばれる瓶の中の、白い粉末に気付いて、はっとする。
それは紛れもない、わたしがかつて作り出した毒薬。
…そうだ。 これを使って、わたしは―――
「お前の奥方が“謎の変死”を遂げられて、今夜でちょうど一年になる。 …思い出したか? ウルフガングよ」
―――嗚呼。
妻の命日に、この人との幸せな夢や、愛欲の行為に溺れるわたしは。
なんたる不義か。 もはや、わたしが愛しているのは………
…否、はじめから、わたしが本当に愛していたのは。
わたしの妻のことなどを、優しく気遣ってくる、フリをする。
まるで何も感じていないかのような、涼しい顔のままで。
……けれどわたしが妻をこの手にかけたことを、誰より歓んでわたしを抱く……あなた。
「……夢を……見ました」
「ほう。 どんな恨み言を吐かれた?」
「…あなたの夢を見たのです。 とても………とても、満ち足りた夢を」
彼の笑顔がかき消えて、金髪の奥に揺れる瞳。
美しい彫像に命の宿るような、この刹那を、ひどく好ましく思う。
「……お前にしては、気の利かない冗談だ」
わたしは自ら腕を伸ばし、彼の細すぎる首に絡めて抱き寄せる。
媚びるように微笑んで、せがむように吐息を強め。
「……この不徳者めを、どうか今一度。 お慰めください………叔父上」
そっけなくて、冷たくて、傲慢な、……
「…誘い方が巧くなったな。 ウルフガングよ…」
……あなたを懸命に演じるあなたが、
かたくなに何も信じないあなたが。
ただ、哀しくて―――いとおしくて、わたしは首筋にうずめられた彼の頭を撫でる。
艶をおびた金糸の髪は、蝋燭のあえかな灯りの中でさえ……
真昼の太陽の色にきらめいて、闇をはじく。
凍えそうな地の底で、わたしを照らしてくれる……たったひとつの、それは、光。
ああ、ようやく。
ようやく見えた、と感じた。 幼い頃から思い描いた、理想郷の全貌が。
やがてあの温かな夢の残り香さえも、絡み合う熱の奥に溶けて薄れゆく。
もはや、この残酷な現実こそが―――わたしにとっての、真の理想郷に他ならぬことを示すように。
<Fin.>
後書きですー。
まず、反則技でスミマセン。夢オチでも何でもいいから、幸せそうなちびっこダッシュが書きたかったんです。
…とか言うと身も蓋もありませんが、書いてて楽しかったのは事実なので良しとします。(強引に)
なるべく重苦しくならないように、でもアダルティに…を目指しましたvV 達成できてませんけども。
ちなみに前半はすべて夢なので、不自然なところとかあっても「夢だから」でスルーをお願いします。(滅)
あ、カンタレラ・アガシオン呼びなのもウルフパパの夢だからということで。
彼は亡くなるまでダッシュとリュースの本名知らないままでしたよね? 確か。(違ったらどうしよう…^^;)
あと、前半のS伯の服装は普通の貴族の礼服のイメージでお願いします…。
間違ってもあの格好じゃないですよ!(あれで「お父さん」してたらどうあがいてもギャグにしかならない)
ともあれ、ここまでお読みくださって有難うございました!
私は何が何でもダッシュ→旦那の構図を入れなきゃ気が済まない人種だと、今回で確信を新たにしました。
|