名前も知らない誰かに祈るより、
 ただ あなたの傍にいたいんです。
 あなたを抱き締めて あなたの体温を感じていられたら
 それだけで 他には何もいらないと思えるから。


 ―――こんなわたしが 何かを願うとしたら
 あなたが あなたでいてくれること。
 あなたが 微笑んでいてくれること。


 本当はあの天の河を流れる 互いに触れ合えない星々のように
 誰もがひとりぼっちの この広い広い世界で

 

 わたしはあなたを想い 夜毎 空を仰ぐのです。

 


 

 

星河の宴

 

 


 

 

 夜露光る草木をかき分け、一輪の可憐な華が迷い込んだ。
 ハードランドはカーマゼン、王宮の中庭……の、ここは人気のない裏側、奥まった暗い茂みに囲まれた芝生。
 華には似つかわしからぬ場所だったが、彼女はよほど慌てていたのか、夜目にまばゆい純白のドレスを翻し、少しほつれた艶やかな黒髪を乱れさせ、肩を喘がせてそこへ駆け込んできた。
「……はあ、はあ………まったく……」
 とんだ目に遭った。 胸中で悪態をつきながら、辺りを見回して追手を撒いたか否かを確認する彼女こそ、つい今しがた王宮騎士団長の熱いラブ・コールを振り切り、ダンスホールを後にした美しいサンドリヨン―――名を、ゲオリク・ザベリスク伯爵といった。
 今宵はハードランド建国祭の最終日。 王宮では国の要人や貴族らが一堂に会してのダンスパーティーが盛大に催されていた。 ―――国宝として王宮のどこかに祀られている『暁の聖杯』を失敬、…もとい拝借するための下調べ目的で、女性に扮して会場に潜り込んだ…まではよかったのだが。
 (……気付かないのはありがたいが……いや、ある意味ありがたくないのかもしれんが……何だって、よりにもよって俺相手に、ああまでのぼせあがるかな)
 終始熱いまなざしでゲオリクをテラスへ誘い出さんとしていた王宮騎士団長は、物心つく前からの幼なじみである。 一度見たら忘れられない凶悪なツラ……とか何とか、日頃散々こきおろしておきながら、女装しただけでこうもあっさり惑わされてしまうのは、もはや沽券やプライド如何より、まがりなりにも一国を警護する領袖としていかがなものか―――と、老婆心ながら悪友の出世を憂慮せずにはいられないゲオリクだった。
 ともかく、妙に機嫌よく協力してくれた妹に見られなかったのだけは救いだが。 …それもすぐ、彼女の婚約者を通じて彼女の耳にも届くこととなり、物笑いの種を増やされるのだろう。 男としての矜持より兄の威厳を守りたいゲオリクにとって、あまり歓迎したくない未来だ。
 深々と溜息をつくと、ゲオリクは駆け足を鈍らせるハイヒールから足を抜き―――ちゃんと両足とも揃っていた―――、結い上げていた黒髪を下ろし、軽く頭を振って夜風に遊ばせた。 貴婦人と呼ぶにはいささか蓮っ葉な、けれどどこかしら不安定な婀娜っぽさがつきまとう、異界の女王のようなたたずまい。
 見る者を威圧しながら、誘う……両極的な色香を放つ華に、吸い寄せられた蝶がいた。


「―――やっと捕まえましたよ……お美しい方」


 油断は一瞬のはずだった。 その隙をついて背後から羽交い絞めにしてきた相手に、ゲオリクは瞬時息を呑む。
「もう逃げないで……私は既に貴女だけのものなのです。 今宵一夜、どうか私にご慈悲を……」
 低く、艶っぽい吐息交じりの声が、明らかに男の熱を帯びて鼓膜を揺さぶった。 ミハエル!? と身構えかけるゲオリクだったが、刹那ののちにはその声の微妙なトーンの違いに勘付いた。
 つくづく悪ノリの好きな男だ。 ゲオリクの心当たりの内には、こういう悪戯を仕掛けてくるのは一人しかいない。
「……また貴様か…」
 鬱陶しげに嘆息すると、全身から力が抜けていくのを感じた。 幼なじみの旧友には警戒して、こいつなら安堵するとは何ともあべこべな話だが、今のいでたちではさもあろう。 騎士団長がダンスの相手を務める間中、ついに正体に思い至ることのなかった黒髪のレディを、この男は遠目の一瞥でゲオリクと見抜いたのだ。
「おや? バレましたか。 結構、声真似には自信あるんですが……流石は旦那、というべきですかね」
 がらりと本来の声色―――いつもゲオリクが不快と共に玄関の扉を隔てて聞く声色、に戻って、ダッシュウッドは夜風を吸い込んだ黒髪の、しっとりした心地よさに頬をうずめた。
「いい匂い……乱れ髪もまた一段とそそりますねぇ。 このまま一夜を共にして頂きたいくらいですよ…」
「立ったまま寝ぼけてないで、離れろ。 …お前、ミハエルの真似で俺を騙すつもりなら、その煩悩に凝り固まった脳みそを一度引っ張り出して洗ってからにするんだな。 あいつはあれで、王宮内の他の誰よりも初心な奴だ」
「…そうですかね? 案外、旦那がそう思ってるだけかもしれませんぜ。 男なんざ皆、一皮剥けば―――」
 不敵に微笑む男に、付き合う義理はないとばかりにゲオリクは腕を払った。 動いた拍子、足元にあったらしい尖った枝の欠片を裸足で踏んでしまい、かすかに顔をしかめてよろめく。
 それをダッシュウッドが見逃すはずはなかった。 振り払われた腕を再び取って、ぐらついた身体を抱きとめる。

 むに。

「…あ」
 支えるためにさりげなく回した片腕へ、馴染みのない弾力が返った。 一瞬、双方ともに表情が凍てつく。

「……へえ……これ、思ったよりちゃんと柔らかいんですね。 何入れてるんスか?」
「………な、」
 偶然か故意か―――ドレスの胸元のふくよかな丸みに当たった手で、事もあろうにダッシュウッドはそのまま、純然たる関心をあらわにして、ふにふにと感触を確かめてみたりする。
 呆気に取られた顔に、一拍置いてから、みるみる朱が差していった。 黒髪の美女はたちまち怒り心頭に発し、堂々とセクハラを働く―――傍目にはそうとしか見えない―――不埒な手を思いっきり抓った。
「痛てててて、…そんな目くじら立てなくても……どうせ作りもんじゃないッスかぁ」
「お前の触り方がいやらしいんだっ。 このスケベ野郎が!!」
 逃れようともがいた途端、ドレスが……正確にはその下に装着しているものが激しく軋んで、ゲオリクの呼吸を引き詰めさせた。 これを着けている間は大声とか上げちゃ駄目よ、との妹の忠告を遅ればせながら思い出す。 或いは、急激に身を捻ったために位置がずれたのかもしれない。
 苦しげに眉をしかめて脱力するゲオリクの服飾事情など知らない男は、不審な瞳で覗き込んでくる。
「旦那…? どっか痛いんですか? …それとも…」
「…勘ぐるな、馬鹿。 ……アレが…息苦しい、だけだ」
「アレ、って?」
「……こんな格好してるんだ。 言わなくても分かるだろ…」
 きまり悪く目を逸らす淑女の言葉の先を吟味するように、ダッシュウッドの数瞬の沈黙。 やがて見当がついたのか、男はにんまりと唇に笑みを乗せると、ゲオリクの腰に腕を絡めてグイと引き寄せた。
「ッ…、おい、触るな…っ」
「旦那、髪をほどいたってことは、もうホールには戻らないんでしょ? …人目もないし、いっそここで脱いじまえばどうですか。 オレも手伝いますから」
 圧迫感にゲオリクが抵抗を阻害されているのをいいことに、男は労わるような手つきでドレス越しの肌を擦る。
「コルセットの合わせって確か、背中側ですよね。 一人じゃ脱ぎ着しづらいでしょう」
「…………」
 冷静な声音を作ってはいるが、魂胆は見え見えだった。 この男が、純粋な親切心や気遣いだけでこんな話を切り出そうはずはない。 それだけは疑う余地もない。 しかし、ゲオリクは黙ってその場でくるりと背中を向けた。 今はダッシュウッドの目論見より何より、とにかくこの胸苦しさから一刻も早く解放されたかった。
「…ついでにドレスも脱がせろ。 こっちも留め金は背中だ」
「へいへい。 …いやぁ、なんかドキドキしちまうなあ。 男の夢ッスよね、こういうシチュエ…」
「ただし! いらんところに触るな。 生憎今は丸腰だが、鳩尾なり股間なりに一撃入れる程度ならできるからな」
 浮つきまくった口上をすっぱり両断されても、一ミリとしてめげずにいそいそと後ろ肩へ触れてくる手は、健気といえば健気なのかもしれない。 あからさまな下心さえ、もう少し隠す努力が伴えばの話だが。 ゲオリクは圧迫が助長される溜息を堪えながら、着脱の邪魔にならないよう、長い髪を一まとめに掴んで身体の前方に流した。

「ぅ…」
「なんだ?」
「…い、いえ……」
 変な呻きを聞きとがめて肩越しに振り返ったが、男はその視線を避けて俯き、与えられた役目に集中する。
 ―――ぱちり、とまず小さな金属製の留め具が外れる音。 …続いて、高貴な布地のみが持つことを許される、滑らかな衣擦れが微かに闇を揺らした。 はらりと滑り落ち、腰の辺りでわだかまったドレスの下に、肩から後ろ腰にかけての、コルセットに矯正された曲線的なラインまでが剥き出しになる。
 ここで一度、不自然にダッシュウッドの手が止まった。 しばらく待てども一向に触れてこない男に、ゲオリクは不自由な呼吸を浅く紡ぎ、吐息に近い小声で急かした。
「…おい…早くしてくれ。 こんな間抜けな格好でいつまでも突っ立っていたくないんだが」
「あ、…は、い。 すみません」
 もごもごと口の中で謝罪を転がし、ダッシュウッドは目の前のコルセットの紐に指をかける。 ―――編み上げ紐のループの結び目を一箇所ほどくだけの単純な作業に手こずったのは、震えてうまく動かない指先のせい。
 並外れた長身の割には細い胴体を締め上げていた矯正器具が緩むと、ゲオリクはそれを引っぺがすようにして地面に落とし、盛大に深呼吸した。 酸素が美味しい。 思う存分、息が吸える充実をこんなにもしみじみ実感したのは初めてだった。 女性というものはもっと賛美されてしかるべき人種なのかもしれない。 などと、つい呑気な苦笑を漏らしつつ、傍の木の裏側に、目立たないよう置かれていた黒っぽい皮袋を確かめる。
 ただ闇雲にここへ走ってきたわけではない。 この後の一仕事に向けて、着替えを隠しておいた場所だからだ。
 さっさとこんな窮屈な扮装とはおさらばしよう。 着慣れた衣服を求めて、皮袋を拾おうと屈む。


 ―――直後、解放感からすっかり気を抜いていたゲオリクの背中に、先刻とは異なる拘束が絡みついた。


 

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