「ッ!」
 不意に圧し掛かられた重みで、ゲオリクは前のめりの姿勢からそのまま膝をついた。 四つんばいの格好だ。 ゲオリクの眦が険悪につり上がり、亀の甲羅のごとく背中に張り付く男を睨めつけた。
「……何の真似だ」
「旦那…っ…」
 返るのは息が詰まるほどの抱擁と、火照った声。 ―――今度は演技ではなさそうだった。 抑えがたい熱情に急き立てられているような、性急な指先がゲオリクの、滑りのいい肌を切なげになぞり始めると、
「すみません……オレ、もう…」
「…く…!」
 詰め物と矯正具を取り払われ、露になった胸の突起を、きゅっと摘む。 その程度での煽りでも、美しい肢体は過敏に反応し、黒髪の伯爵は喘ぎにも似た吐息を理性で噛み砕いた。
「―――最初に……ここ、が見えて」
 流れ落ちる髪の奥に垣間見えた項へと、熱い口付けが降りてくる。 耳のすぐ近くで響く濡れた音は、ゲオリクの首をすくめさせた。 ダッシュウッドは胸への刺激をやめないまま、次第に唇を背中の方へと滑らせていく。
「…その次には……ここが…」
 熱い息で囁きを紡ぎながら、唇は肩甲骨へと吸い付いた。 燐光の縁取りすら見えそうな白い背に、くっきりと存在を主張する、対の形をした二つの大きな痣。
 ―――さながら悪魔の翼の跡のようなそれを、ダッシュウッドの舌先が幾度も幾度も愛しむ。
「…ん……やめ、…ろ……って」
 母の形見であり、妹の宝物でもあるドレスに気兼ねして、強く振りほどけないゲオリクには、ひどく遠慮がちに身をよじるぐらいしか抵抗の術がない。 それがいっそう情欲をそそるのか、男は恍惚と喉を鳴らすと、
「…すっげェ、綺麗だ……。 愛してます……旦那―――」
「あ……」
 耐え切れず、嬌声が零れた。 ドレス越しの、あらぬ箇所にまで男の手の熱が伸びてきたためだ。
 ぞく、と痙攣した背に、一瞬の快感が生まれては波紋を拡げる。 ダッシュウッドの抱擁がさらに強まる。
 覚えのある執拗な愛撫には、下半身はこうも容易く揺り起こされるのか―――ゲオリクの意思とは関係なく、身体中の血流が男の手のひらへと吸い上げられるかのように、一点を目指して流れ込んでいく感覚を覚えた。
 今にも抵抗を忘れてしまいそうな悦楽。 ゲオリクは残った理性をありったけ振り絞って、相手を押しのけた。
「…や…めろ、…と言ってる、だろうが!!」


 突き飛ばされた男はぺたんと地に尻をつき、しばし呆然と、虚空を見るともなしに見つめていた。
 呼吸を整え、乱れたドレスをかき寄せたゲオリクに不審げな声を掛けられると、はっとしたように二、三度瞬いてゲオリクの瞳を受け止める。 完全に夢見心地のさなかにいたのを、強引に現実へと引き戻されたような表情で、ダッシュウッドはのろのろと立ち上がった。
「すみま…せん。 オレ……」
 ぎこちなくもつれる謝罪の言葉。 心なしか項垂れ、顔色は蒼ざめているようだった。 ゲオリクが更なる二の句を発する前に、男はぱっと視線を外し、踵を返す。
「…あの……旦那、今のうちに着替えちまってください。 オレ、ここで人が来ないか見張ってますから」
「あ、…あぁ」
 数歩離れたところで立ち止まった背中に促され、ゲオリクは忘れていた目的を思い出して、皮袋を拾い上げる。 ごそごそとドレスを脱いで元の男物の衣類に身を包む間、視線は傍らの背中へと据えたままだったが、それは一度たりとも振り返るどころか、銅像のごとく身動きひとつしなかった。
 やがて着替えを済ませ、世話になったドレスに皺を残さないように畳み終えたとき、気配を察してか、「じゃあ、オレもう行きますね」と、会釈もそこそこにダッシュウッドは立ち去ろうとした。 こちらに目を向けようとしない男にゲオリクは、何故かそぞろ気分の内側に負の棘を感じ、待て、と呼びかけていた。
「……ダッシュウッド。 お前、俺に何か用があったんじゃないのか」
 足を止め―――というよりは全身を硬直させながら、男はこわごわと振り返った。
「…いい、んですかぃ?」
「…なにがだ?」
「いえ、だから……オレなんかがこれ以上ここにいても、旦那が不愉快になるだけじゃないかって…」
 揺らぐ琥珀の双眸に不安の影が色濃く落ちている。 大好きな主人に、こっぴどく叱られた直後の犬のようだ。 親が人格育成を誤ったとしか思えない、いつもの非人間的な振る舞いの狭間で、時折こうした表情を見せられてしまうから、…自分はこの男を徹底して嫌いにはなれないのかもしれない。
「…らしくもなく謙虚だな。 いいから、用件があれば言え。 勘違いや悪ふざけには付き合えないが、話ぐらいなら聞いてやる」
「………はい…」
 まだ戸惑いの拭いきれない顔で頷くと、「ちょっと待っててください」と言い置いて、男は少し離れた茂みの方へ走っていく。 がさがさと何かを探るような物音の後、戻ってきたその腕の中には、素焼きの壷…とおぼしきものが抱えられていた。
「…なんだ、それは」
「酒ですよ。 …この前、旦那と一緒に飲むチャンスを逃しちまったのが惜しくてね。 今夜お会いできたのがいい機会ですから、旦那にプレゼントしようと思って、さっきビュッフェの席で一本くすねてきやした」
「……盗品を差し入れにするのはどうかと思うが」
 呆れかえって突っ込んではみたものの、自身もこれから国庫を荒らす腹積もりのゲオリクだ。 深くは言及せず、これもこいつなりの好意だからと都合よく理屈をつけて、その壷のような形のボトルを受け取る。
「ずいぶん重いな。 …しかし、どこの酒だ? この辺じゃ見かけない……というより、これ…そもそも字なのか? 何が書いてあるのやらさっぱりだぞ」
 ずっしりと重厚感すら漂う象牙色。 その表面に目を走らせながらゲオリクは首をひねった。 裏表ひっくり返してみてもラベルは見当たらず、片面いっぱいに模様のような文字がでかでかと書かれているだけだ。 錬金術師として外国の多様な歴史書や記録文献を紐解くうち、堪能…とまではうぬぼれないが、近隣諸国の文字程度なら多少嗜んでいる。 そのゲオリクですら、この壷に記載された文字―――というよりは、やはり模様や暗号にしか見えない―――は解読しかねた。 ダッシュウッドに目配せを送ると、彼もまた苦笑して首を横に振った。
「なんでも、倭人華国原産の酒だそうで。 どこの貴族の方がどんなルートで取り寄せたんだか存じませんがね。 どうせなら珍しいのがいいかと思って、こいつにしたんです。 こんな機会でもなきゃお目にかかれませんから」
「…なるほど。 倭人華国か……そこまでは流石に研究してないな」
 ハードランドとは国交の希薄な東洋の島国の名を聞いて、黒髪の伯爵はふむと納得する。 脳裏に、アイオナ地区で骨董品店を営む異国人の男の姿が浮かんだ。 ひょっとしたら、今回の輸入には彼が一枚噛んでいるかもしれないな。 今度会ったら訊ねてみるか。
「まあいい、異国情緒もまた一興だ。 ―――ついでにグラスは持ってこなかったのか?」
「ええ。 ボトルから直飲みするタイプらしいんで」
「…ラッパ飲みにはサイズがでかくないか、これ。 …まあ、それならそれで別に構わんが」
 今も王宮で警護の職務を遂行中であろう騎士団長あたりなら、こうしたマナーにうるさいかもしれなかったが、ゲオリクはその辺、貴族としてはくだけた方だといえる。 特に異論も挟まず、封を切ってコルクを抜いた。 独特の香りが鼻腔を掠めて、カーマゼンの夜の空気に溶けてゆく。
 ゆっくりとボトルを傾けた。 幾万海里の海原を越えてきた異国の酒精が、ゲオリクの内腑を心地よく焼く。
「……どうスか?」
「…結構、匂いがキツイな。 だが、深い味わいだ……美味いな」
「よかった〜。 オレぁ酒なら大概何でも飲めますけど、旦那の口に合わなかったらどうしようかと思いましたよ」
 ほっとしたように相好を崩すダッシュウッド。 ゲオリクの満足を得られるだけで、それがそのまま自分の喜びに繋がるような笑顔だ。 …そこは正直、別に悪い気はしないのだが、こちらが飲むときに顔をじぃっと凝視する癖は何とかならないものか、と思う。 ゲオリクは結局、もう一口二口呷ってから、物欲しげにうずうずしている視線の持ち主に手渡してやった。
「お、すみません。 …じゃ、いただきまーす」
 ―――男は明るくおどけた口調ながらも、どこか恭しい動きでボトルの口へ唇を寄せたように見えた。
「ん………確かに美味いッスね。 一風変わった味ですけど。 辛口なのがいい」
「辛口が好きなのか?」
「ええ、どちらかといえば。 …旦那はもしかして甘い方がお好みですかぃ?」
「いや……銘柄にもよるが」
 今のはうっかり、遠回しに肯定してしまったようなものだった。 案の定ダッシュウッドは微笑を零すと、正装の上着をめくり、腰の脇に目立たぬよう吊り下げた、手のひら大の小袋の中身を漁った。
「酒肴としちゃ、ちょいと甘すぎのきらいはありますがね。 よかったら召し上がります?」
 にこやかに男が取り出したのは、ウィスキーボトルを模した形の小さな菓子だった。 先刻、パーティーホールで見かけたとき、この男の主人や客に配り歩いていたものだろう。
「…ボンボン、ね…。 お前、とことん酒以外の飲食物、持ってないんだな」
 肩をすくめる美丈夫に、ただのチョコレートよりは幾分マシでしょう? と男は笑顔で差し出した。 何の気なしに受け取ろうとして、一瞬思いとどまったゲオリクの手が引っ込められる。
「……妙なものは入ってないだろうな」
「え? …ああ、そいつは思いつかなかったな。 面白い案ですねぇ」
「おい」
「いえいえ、冗談ですって。 そんなつまんねぇ小細工しませんよ、オレは……」
 こういう感じのがやりたいだけですから。 飄々とのたまいつつダッシュウッドは包み紙を破り、つまんだ菓子をゲオリクの唇へ向けて突き出す。
「はい。 あーん」
「…………」
 ゲオリクは無言でその指と包み紙からボンボンだけをむしり取ると、自分で口に放り込んだ。 ダッシュウッドが大袈裟にがっかりしたようなリアクションを作りつつ、苦笑する。
「常識で考えろ。 大の男二人で、かなり寒いぞ」
「…いいじゃないッスかぁ、これぐらい。 どうせ誰も見てやしねえんだし」
 ふてたような物言いで笑いながら、男もまた、もう一つ取り出したウィスキーボンボンをもぐもぐ頬張った。


 

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