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 ふっと琥珀の双眸が開かれ、うたかたの午睡はダッシュウッドの意識を解放した。
 ―――あ…れ……? …オレ……。
 いつの間にか眠っちまってたのか。 まだぼんやりと霞む瞼をこすりこすり、しかしすぐに身体を起こすのも億劫で、寝そべったままうーんと四肢を伸ばす。 叢生する野草の香りがむせ返りそうなまでに強い。 夜風の冷たさと相まって鼻を刺激され、軽いくしゃみをひとつ。 ふるっ、と小さく身を震わせて掛け布にくるまった。
 目線だけを巡らせると、側で見守ってくれていたのは視界いっぱいの待宵草。 その向こうに、壷のような形の酒瓶が無造作に転がっていた。 ―――途端、まどろんでいた頭の奥の霧が、少しずつ晴れてゆく。
 自分の髪に触れてみる。 すぐ今の今まで、そこにあったように感じていた温もりはやはり幻だろう。 当たり前のことなのに、もうとっくにここにはいない人の、しなやかな指先が恋しい。
 ……勿体ねえことしちまったなぁ。 とことん馬鹿だよな、オレ。
 あのゲオリクが、せっかく自分なぞと星見酒を交わしてくれたのに。 途中で寝てしまうなんて愚行の極みだ。
 夜中に彼と二人きり、という状況に際限なく酔ってしまいそうになるのを、本物の酔いにすり替えて誤魔化そうとしたあがきが、完璧に裏目に出たらしい。
 だって、仕方がなかったんだ……と、胸のうちで誰にともなく弁解を重ねながら、気だるげな腕で視界を塞ぐ。
 脳裏を焦がすあの光景。 瞳を閉じても開いても、それは未だ目の前にちらついて、意識を覆い尽くしていた。

 ―――例えるとしたら、蝶の羽化。 或いは、蕾がほころぶ瞬間の花…、だろうか。
 さながら地上の楽園だった。 美しさは、いっそ神々しいまでに。
 …あのイヴニングドレスだって、ゲオリクの美貌に遜色ない優美なデザインだったはずだ。 それが、無彩色の蛹の繭のごとく霞んで見えたのは、きっとその中から現れた生肌が、雪を欺かんばかりに輝いていたせい。

 まさしく、月下美人。

 あの透き通るような白を目の当たりにしたとき、ダッシュウッドの頭の中も真っ白になっていた。
 冗談のつもりだった意図。 余計に嫌われるだろうという不安。 一切合切がすべて、瞬時に弾け飛んだ。

 …そして、気がついたら後の祭りだ。 馬鹿なことをしてしまった。 押し寄せる後悔が胸の奥をきり、と苛む。
 とうに拒絶されたのに。 疎まれているのに。 あの(はだ)に触れる資格など、自分は与えられていないのに。
 ―――嫌がる相手を無理矢理…、だなんて。 …伯爵(あのひと)と何も変わんねえじゃねえか。
 己の理性の弱さには、つくづく辟易する。 性欲を物欲にシフトすることで仕事の術を覚えてきたはずの身体が、ゲオリクを前にしただけで、何故こんなにも易々と意思の枷を逃れてしまうのだろう。


 ほんの僅かに腕をずらして、闇空を仰ぎ見る。
 雲集霧散する星々のまたたき。 遠い昔、寝物語に聞いた話では、星にも寿命があるのだという。
 真実だとすれば、空はもうひとつの地球だ。 無数の命が産まれ、生き、そして死にゆく。 それらを抱く世界。

 本当はあの天の河を流れる、互いに触れ合えない星々のように。
 地上もまたしかり。 この広い広い世界は、誰もがひとりぼっちなのだと。

 気づいたとき、この世に生を受けてからずっと『ひとりぼっち』でいることの苦痛が和らいだ。
 自分一人だけが、独りなのは哀しいけれど。 みんな同じように独りなら、哀しむ必要なんてないんだ。


 …でも、やっとそう割り切れる今になって、あなたという人物を知った。
 あなたに惹かれて、惹かれるたびにオレは、どんどん弱くなっていく自分を嫌というほど痛感した。
 抱き締めたい、口付けたい。 その体温を感じたい。 ―――あなたの、側にいたい。
 とどまるところを知らぬ希求。 あなたがいなくては、オレはいずれ駄目になりそうで。

 そんな、あなたに寄りかかろうとするこの弱さを、あなたを守れる強さに変えよう。
 心に誓った。 …ようやく、誓うことができた、のに。


 (お前は、何を望む?)


 あなたは………優しくて、その優しさゆえに残酷だ。

 

 ―――やめだ、やめ。 これ以上うだうだしてねえで、とっとと帰っちまおう。
 かぶりをひとつ振ると、ダッシュウッドは脚で弾みをつけてがばっと起き上がった。
 こんなところでいつまでも頭を抱えていても、気が滅入るだけだ。 早く持ち場に、…自分の居場所に帰ろう。
 戻れる場所はいつだって、あそこしかないのだから。
 傍らの待宵草に一瞥を落とした。 王宮ではまだパーティーが続けられているだろうが、帰り道はきっといつもの暗闇だ。 やっぱり一輪ぐらい懐へ入れて、導きの灯をともしてもらおうか。 苦笑しながら、可憐な光へそっと指を伸ばし―――かけて、ふと。
 (……そういやあ………コレ、)
 夜の肌寒さから無意識に身体に巻きつけていた、白い薄布の正体に、遅ればせながら疑問が及ぶ。
 ほどいて広げてみると、それはストールだった。 すべすべの触感、きらびやかさと品位を兼備した光沢。
 蝶の翅かなにかを匂わせるイメージの、…どう見ても女物で、しかもかなり値が張りそうな高級品だ。

 どこぞの貴族のご婦人が、こんな奥まった宮殿裏の芝生を通りがかり、だらしなく眠りこけた見ず知らずの酔漢に、親切心から掛けてくれた。
 …はずはない。 カーマゼン広しといえど、そんなお人よしで世間知らずのレディがどこにおわすというのか。
 ―――となると、残る可能性はもはや可能性ですらなく、ただの結論だった。

 (旦那……?)

 

 瞬刹。
 ザザッ! と背後の茂みが悲鳴を上げたかと思うと、ひとつの真っ黒い影が風のごとく躍り出てきた。
 その大きさから、グレズリー、或いはモンスター…を想定して眠気も酔いも吹き飛び、ダッシュウッドは咄嗟に身構える。 が、腰の鞭に手を伸ばす矢先、暗がりの向こうで見覚えのありすぎる黒マントが舞った。
「…だ……」
 正体を見破るのに要したのは、こちらへ近づいてくる闇色の塊の全貌を捉えるまで、時間にしてものの数瞬。
 黒い帽子、黒い外套、黒い服、黒髪―――黒、黒、黒。 全身、まさに夜を纏ったその男は、なんの戯れか秀麗なおもざしを仮面に隠し、マントの内側に古びた木箱をかくまっていた。
「……ぅ!」
 すわ今度は仮面舞踏会(マスカレード)かと目を白黒させるダッシュウッドの、言葉を絞り出さんと微動した唇を素早く手のひらで抑えると、黒衣の男はニヤリと獰猛に笑う。 声を出すな、と無言の微笑に釘を刺されたようで、赤毛の捕虜は奇妙なまでの緊張に縛られたまま、コクコクと何度も小刻みの頷きを返した。
 攻防の一瞬、見つめ合う。 帽子にあしらわれているのは『彼』の好む真紅の薔薇、そして仮面越しにうっすらと透ける蒼茫の瞳。 モノクロームの闇の中、対称的なそれらがかろうじて、しかし鮮やかな色彩を添えている。
 (―――え?)
 不意にその美しい貌が、耳元へと寄せられ……ボソ、と何事か囁いた。 ふわっと鼓膜をくすぐった低い吐息と薔薇のかぐわしさに気を奪われて、うまく聞き取れなかったのだが。
 しっかり握っていろ。 絶対に、離すなよ。
 そう聞こえた気がする。 この高そうなストールのことだろうか。 慌てて、風に攫わせないよう懐に抱き締める。 ―――と、その手をいきなり取られ、強く引っ張られた。
「わ、…ちょ……旦、っ」
 よろめきながらも、強引に促されるまま立ち上がらざるを得ない。 狼狽するダッシュウッドの右手を握った黒髪の男は、それを引いて身を翻すが早いか、宮殿の外へ向かって走り出した。 当然、何が何だかさっぱり事情が呑み込めないうちに、ダッシュウッドも後へ続くしかない。
 いつの間にやら、王宮の方角でも宴とは別の、ただならぬ騒がしさだった。 遠くで、凛とした女性の声。
 しかし、今のダッシュウッドの意識はそんな外部の音など認識できない。
 すぐ目の前を走る長身の背中に釘付けだった。 …踵を返す寸前、仮面の奥のディープブルーが、気に入りの獲物をしとめた直後の豹のごとく、活き活きと輝いていたのは目の錯覚ではあるまい。
 木々の隙間を軽やかにすり抜けてゆく。 その二つの影を見送るように、待宵草が静かに揺れていた。


 ―――嗚呼、と身震いした。
 停止していた思考が動き出した瞬間、例えようもない高揚がふつふつと湧き上がり、心を、全身を駆け巡る。
 星がくれた奇跡でもいい。 この人がくれた気まぐれでもいい。 今は、他に何もいらない。
 導いてくれる手のひらが、大きくて、温かくて。 ダッシュウッドはただただ、無心にそれを握り返した。


 名前も知らない誰かに祈るより、ただ、あなたの傍にいたいんです。
 オレの望みを叶えてくれるのは、いつだってきっと、あなただけ。

 

 誰もがひとりぼっちの世界でも。
 それでもオレは、やっぱり、あなたが………

 

 

 まだ抜けないアルコールと寝起きがぼやけさせた、視界の悪戯だろうか。
 ―――今宵は、星がやけに大きく煌めいているように見えた。

 

<Fin.>

 


 

 後書きです。

 このまま愛の逃避行!!…といきたいところですが、後に続かなくなるので、宮殿脱出のみです。(笑)
 やっぱり最後はヘタレになる拙宅の攻めダッシュ。ま、拒否られて少々弱気になってるときってことで。(^_^;)
 本編で彼との交霊術を試した方なら、彼が旦那に伝えた「本心」の内容をお分かり頂けるかと思います。
 そしてこの話の作中で、旦那がそれをどう取り違えたかもお分かり頂けるかと…(爆)
 それと、「待宵草」は別の話の伏線になります。女性の正体とか、色々想像して頂けると嬉しいです^^

 あと、本当は「黒いチューリップ、見参!」とかやらせたかったんですが、正体に気付いてる人の前でやると
 はっきり言って間抜けなことになるので断念。
あの変装でダッシュが気付かないとは考えられませんし。;
 旦那には(正体暴露ってますがな)いつでもカッコよくいてほしい。私も割とダッシュ視点のドリーマーです。

 …そして…何より、七夕あんまり関係なくてごめんなさい。;(致命的)
 当方の力量で和洋折衷はハードルが高すぎました…撃沈。い、いつかリベンジさせて下さ…い…<尻すぼみ
 ちなみに二人が飲んでた酒の、壷っぽい形のボトル。いわゆる「徳利」です。無意味に和風で悪あがき。^^;

 ともあれ、ここまでお読みくださって有難うございました〜♪(^∧^)

 


 

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