それから、二人だけの酒盛りはしばらく続いた。
 ボトルが次第に軽さを増すにつれ、赤毛の辛党は少しずつ口数を減らし、黙り込むことが多くなった。
 てっきり普段に輪をかけて饒舌になるものと覚悟していたゲオリクは、どこか拍子抜けの思いを抱えつつ、時折ちらちらと男の顔を見やる。 彼の肴はどうやら、星空とゲオリクの美貌らしい。 だが腑に落ちないのは、絶えず視線を感じるのに、それがゲオリクの瞳とぶつかりそうになると、さりげなく逸れて夜空の方へ向けられること。
 かと思えば、単なる事寄せとも違うようだ。 男は大樹の膝元に気だるげな背を抱かせたまま、心ここにあらずといった表情で、ぼんやりと何分間も星を仰いでいたりする。
 酒を呷りついでに視界が捉える、幾億の光の瞬き。 …それの何が、そうまでダッシュウッドの心を惹くのか。
 ―――すぐ隣に自分がいるというのに。 この一抹の苛立ちは、やはり手前勝手な傲慢だろうか。
 沈黙に居心地の悪さを覚えたとき、本人も思いのよらぬ話題が、唇からふと零れ落ちていた。

「星河の宴……というものを知っているか?」

 唐突な科白を耳で捕まえ損ねた男は、ボトルを持ち上げかけた手を止め、はい? とやや気後れしたような声で訊き返した。 ダッシュウッドの意識がこちらへと向いた瞬間、内なる感情の棘のような何かが薄らぐ。 ゲオリクは己の奇妙な心理をいぶかしみながら、次の言葉を待っている琥珀の双眸に説明を与えた。
「人づてに小耳に挟んだだけだから、実話かどうかは分からんが。 倭人華国では、夏に―――ちょうど今ぐらいの時期だろうな、星に伝承を見出した祭りを催すらしい。 個々の願い事を書いた紙を木に吊るして、夜空を鑑賞しながらその成就を祈る。 それが星河の宴と呼ばれているそうだ」
「ふぅん…。 一種の宗教的儀式ってやつですかね。 倭人華国は異教の地だって前にどっかで聞きましたけど、うちみたいな信仰儀礼もあるとすりゃ、なかなか面白そうなとこですね」
 賢しげに口端を上げて、男はうっすら笑む。 星辰に祈りを捧げる宴と聞いて、自らが属する闇の世界の概念と通じる、オカルト的な匂いを連想したらしい。
「…いや…何かの神話に基づいた文化的な国事だというから、お前たちの黒ミサのような、享楽をむさぼる野蛮な儀式とはだいぶかけ離れていると思うが…」
「旦那、宗教観なんて千差万別ですぜ? 土地や人種が異なりゃ、信仰の形も違って当然。 一人の人間ですら、時と場合とで別々の顔を持ってるくらいですから」
 今夜のパーティーを騒がせた、謎の黒髪の美女のようにね。 ククッと悪戯っぽい微笑を転がしながら、美酒で喉を潤すダッシュウッド。 くっきりと筋の浮いた首元が、こくん、と幾度か隆起する。

 ―――瞳が翳っている…、との印象は、あながち酔いの故ばかりではないとの確信をゲオリクは抱いた。
 かなり酔っているのも事実だろう。 実際、ホールでは旧友たちと踊りを交わしただけのゲオリクと違い、この男は主について幾人もの紳士淑女の間を引っ張り回され、会話を弾ませるために相応の酒もこなしていたはず。 今も、この後の一仕事に備えてゲオリクが遠慮している分まで杯を重ねている。 流石に瞼が重いのか、瞳にはとろんと鳩が止まり、いつもは血色の芳しくない頬も赤みを帯びている。
 しかし……それだけではなく、ダッシュウッドを取り巻く空気が、普段、ゲオリクを前にしたときと違う。
 日頃となんら変わらぬ調子で受け答えを返す男の、だが常は野生の狼のごとき力強い光を湛えた琥珀色に、先刻から、隠しようのない翳りが落ちているのだ。 彼の表情をよくよく注視したりするわけでもないゲオリクが、そうと勘付くまでにはっきりと。
 ガラにもなく何を沈んでいる…?
 いよいよ怪訝に眉を寄せるばかりの黒髪の伯爵から、男の双眸は意図的にか無意識にか、外されたままだ。 まっすぐに視線を合わせて話そうとしない。 まるで、欺瞞を見透かされることを恐れる咎人(とがびと)のように。
 ―――否。

 母親へ向かって伸ばした手を振り払われ、自分の居場所を見失って、立ち竦んでしまった子供のように。

「……お前は」
 …ああ、以前にも感じたことがあった。
 いくつもの相貌を器用に演じ分ける、仮面の笑顔の奥で、この魂はきっと他の何物よりも、幼く孤独な。
 (かな)しむべき、ものだと。
 砂粒のごとく小さな思いが、心をかすかに波立たせた刹那、ゲオリクは一度は引き結んだ唇を開いていた。

「…お前は、何を望む? 仮に今夜がその宴だとして、星に祈りを捧げるとすれば」
 ひとつまばたいて、ダッシュウッドはひたとゲオリクを見つめる。 一瞬細められた瞳は、まばゆい輝きに眩んだようにも、単にその先に続くシニカルな微笑みが一片を覗かせただけのようにも見えた。
「そうですねぇ…。 …例えば、今、オレのすぐ前にいらっしゃる方を思う存分抱き締めて、キスしたいとか?」
「俺は真面目に訊いているんだ。 真面目に答えろ」
 逸らされない、強固なまなざし。 その清冽さに圧倒されてか、男は破顔を苦笑に変えて視線を空へと逃がす。
 数秒、辺りが静まり返った。 闇に溶けんとするようにそっとたたずむ木の枝葉を、夜風が不躾に乱してゆく。
 無言の視線はダッシュウッドの(つくろ)う距離などものともせず、ただ深く深く心の最奥を射抜く。 得意の巧言令色をどれほど駆使してみたところで、この人にかかれば、そんな姑息は脆くも瓦解してしまうのだろう。
 降伏の意を示すように、金色の双眸がゆっくり、伏せられる瞼の奥へと吸い込まれていった。

「倭人華国、で思い出したんですがね。 旦那、月下美人ってご存知ですか?」
 唐突に飛んだ話題はゲオリクの機嫌を少なからず削いだが、ダッシュウッドの静かな声の響きに、冗談半分にまぜっかえす意図は感じられなかったから、相槌の代わりに目線で先を促す。
「真夏の夜に一晩、それも数時間だけ咲くってぇ花の名です。 すげェ綺麗で、高貴な雰囲気をまとう花ですよ。 闇の中で、短い一生を恐れもせずに咲き誇る。 鮮やかで、香り高い……」
「…見たことがあるのか?」
「いいえ。 昔、知り合いの持ってる図鑑の中で見ただけッス」
 それにしては、随分と見てきたように話すんだな。 どこか幸せな夢を想起するように陶然と語る男に、ゲオリクの呟きは皮肉と怪訝とが交じり合う。 ダッシュウッドはまた小さく微笑んだ。
「遠くにあるものだからこそ、いっそう人の想像力をかき立てるんですよ、旦那。 …とりわけそれが、仮に目の前に咲いてたとしても、本当の意味で手が届かねえような、高嶺の花だとしたら……尚更ね」
 たぷん、と音が鳴るまでに中身の減ったボトルの、飾り紐を指先でいらいながら。 どこまでも穏やかな笑顔。
 男の言わんとしていることの、根幹はよく分からない。 ―――分からないが、本心から嬉しくて笑っている表情でない点だけは、おぼろげながら臭う、気がした。
「…つまり。 お前の望みは、その月下美人とやら…というわけか?」
 期せずして核心に触れたゲオリクの言葉に、ダッシュウッドの片眉が僅かに動く。 一瞬、応えに窮して、しかし困ったような否定の意思表示とともに、男はゲオリクの傍らの木の近くにひっそりと花びらを広げる、小さな黄色を指差した。
「高望みできる立場にないですからね。 オレは、あれぐらいのちっこい花でいいんです」
「……待宵草、か」
 それならばゲオリクも知っていた。 今はもう灰と化した故郷の屋敷にも、現在住んでいるこの首都の私邸にも、夜の庭を見渡せばいつでも見つかるであろう、ごくごくありふれた花だ。 異国の花に憧憬を示したかと思えば、こんな珍しくもない花を引き合いに出してみたり。 酔っ払いの妄言か、との呆れが頭をもたげ始めたゲオリクの前を、当の酔っ払いはのそりと移動して花の傍に腰を下ろした。
 そして、そっと、伸ばした指先で待宵草を撫でる。
 生まれたての雛でも慈しむかに似た、優しさで。
「……オレにゃぁ、こいつで充分なんですよ。 あまりに華やかすぎる花の前じゃ、闇に紛れてこそこそ生きてる、オレみたいな小物はすぐ目が眩んじまって、何にも見えなくなる。 …だから、このくらいがちょうどいいんです。 眩んだまんまの目じゃあ、愛でるのにも守るのにも役に立ちやせんから、ねぇ…」

 ただ無骨なだけの手だと思っていた。
 こんな風に、ちっぽけな花へ柔らかな情を託すことのできる手だなどと、想像だにできようか。
 知らない仕種。 知らない表情。 それらはなにか、無性にゲオリクの気分を騒がせ―――癪に障るもので。

「欲しいなら、手折ればいいだけの話だろう」
 この男が本当に欲しいものは、待宵草に面影を重ねて見ている『誰か』。 それぐらいはとっくに察知している。 だからこそ、わざと意地の悪い言い方をしてやった。
「王宮の誇る自慢の庭園からすれば、こんなものは雑草と同じだ。 一本や二本、取って帰ったところで何の問題もない」
 自分の庭でもないのに不遜極まるゲオリクの物言いは、ダッシュウッドをひたすら苦笑させた。
「いやいや、旦那。 仰ることももっともですが、雑草だろうと花は花。 手折るもんじゃなく、鑑賞するもんですぜ」
「そうか? 人間の健康や潤いある生活のために、有効活用されるものだと俺は思うが」
 大量の薔薇を散らした風呂を毎朝の日課としている伯爵は、いたって真面目なおももちで言い放つ。 どこまでがジョークでどこからが本気か、ダッシュウッドとは異なる意味で分かりづらいゲオリクだ。 本題から逸れるより先に、男は会話を修正すべく言葉を紡いだ。
「例えば、嵐をしのぐ手助けでもしてやれば、花はちゃんと根を張って強く咲きますよね。 ―――それこそがオレの望みなんです。 感情に任せて手折ったあげくに枯らしちまうより、守って綺麗に咲かせることができたら……そのほうが男としちゃ、ずっとカッコいいって……思いません?」
「…抽象的だな。 お前の話はどうもよく分からん」
 軽く片目を瞑ってみせるダッシュウッドの茶目っ気も、いつものごとくゲオリクの溜息にかわされて終わる。
 しかし男は拗ねたりすることはなかった。 ボトルの底の最後の一杯を胃に流し込むと、上向いた姿勢のままで眸を眇め、(すが)しげに満天の星空を仰ぐ。

「…光に頼らず闇の中で咲く花は、自ら光を発して闇を照らすんだって……以前、ある女性に教わったんです。 月下美人にしろ待宵草にしろ、夜咲きの花ってのはみんな本当に強い。 強くて、綺麗で……オレの前の暗い道も、明るく照らし出してくれる……そんな気がしますよ―――」

 独白のように小さな呟きは、同時に瑞々しい活気が内側に満ちた響きだった。 何らかの決意を胸の奥に育て始めた者特有の力強さ。 遠回しながらゲオリクに打ち明けたことで、吹っ切れた思いを固めたのかもしれない。
 ゲオリクは真逆だった。 頭の奥に引っかかった靄のような感情が、意識をじわりと占拠していく。 不快を堪えるよりも口にしてしまったほうが容易く思えて、率直に感じたままを舌に乗せる。
「女性というのは、お前の恋人か?」
 ダッシュウッドの笑顔が滑り落ち、きょとんとゲオリクを見た。 寝耳に水、を絵に描くとこうなるだろうという顔。
 まじまじと観察すれど、ディープブルーの双眸に揶揄の色は見つからない。 冴え渡る真剣そのものの美貌があるだけだ。 ―――言葉どおりの疑問を投げかけられているのだ、と遅ればせながら気付いて、男はたちまち吹き出した。 そうするともう、堰を切った笑いの発作は収まらなくなった。
「…おい。 馬鹿笑いしてないで、人の質問に答えろよ」
 揺れる肩を抑えるのに苦心しながら、ダッシュウッドは何度も首を横に振って、問いへの否定の意を示した。
 きゅ、と僅かに噛み締められる、ゲオリクの唇。
「…なら……その女性がお前の言うところの、『咲かせたい花』とやらなのか」
 男は、今度はきっぱり、いいえ…と応えた。 上戸のように、子供のようにくすくすと笑い続けながらも。


 やがて、話題は頓挫した。
 ひとしきり笑い疲れた赤毛の男が、急速に回ってきた酔いに勝てずにうとうとし始めたからだ。

「……おい、ダッシュウッド。 こんなところで寝る気か、お前?」
 風邪引くぞ。 一応、医師としての気遣いで肩を揺さぶってみるが、男は半開きの瞳、ろれつが怪しくなり出した声で生返事を繰り返すばかりだ。 そろそろ相手がゲオリクだとすら認識できなくなっている頃だろう。
 これは本格的に酔ってやがるな、と顔を覗き込んで察したが、無理に叩き起こすほどの義理はない。 おりしも危うく忘れるところだった今夜の任務を思い出したのも手伝い、このまま放っておくことにした。
 した、のではあるが。
 (……ったく、どいつもこいつも)
 世話の焼ける…。 胸中で悪態をつきつつも、ダッシュウッドの腕を自分の肩へ乗せ、いったん引っ張り上げた。 木の幹にもたれかかった不安定な体勢のままで寝ていては、いずれずり落ちて頭を打つだろう。 幸か不幸か、この手の酔っ払いの扱いには手馴れてしまっているゲオリクだ。 持つべきものは異常に酒癖の悪い友人か。
 少し考えてから、件の待宵草の傍らに横たえてやった。 花の方は酒臭い巨漢に迷惑しているだろうが、知ったことではない。
 すっかり安堵しきって無防備に晒された寝顔を覗き込む。 裏の社会の常識になど通じていないゲオリクにも、この男が時折、おそろしく破天荒で規格外なのは何となく察しがついた。 闇に紛れて……と自ら宣言しながら、裏庭とはいえ王宮内で寝こけるブローカーが他にいるだろうか。 …或いは、自分が一緒だからこそ、なのか。
 ―――俺が隣にいると、馬鹿がより一層の馬鹿になるわけか。
 呆れはしても、特に気分を害されない自分は最近、感化されてきているのかもしれない……とゲオリクは思う。
 患者の安らかな寝顔を見て安心するのは、医者の性だ。 いや、看取る場合は別だろうが。 ともかく、そういうことにしておこう、と自身の精神衛生上の見地から結論付けると、ゲオリクは『患者』の前髪をそっとかき上げた。
 こうして寝顔を見るのは二度目だ。 もっともあの時はあわただしすぎて、それどころではなかったけれども。
 (……黙って寝ていれば、それなりに…)
 いい男だと、素直に思わないでもないんだが。

 ざぁ…と夜風の一筋が走り抜けた、木の葉のさざめきで我に返る。 俺も、そろそろ今夜の仕事に向かわねば。
 だいぶ寄り道をしてしまったが、本来の目的は国庫にあるのだ。 王宮を見据える瞳が、にわかに鋭さを増す。
 ―――だが、その前に…とゲオリクはもう一度、ダッシュウッドに視線を移した。
 今宵、この星の夜に。 もうひとつだけ、この男の口からはっきり聞いておきたいことがある。
 緋色の癖っ毛を一度くしゃっと撫ぜてから、最後の寄り道のために、ゲオリクの唇が男の耳元へ近づけられ。

「…ダッシュウッド」
「……ん…」
 患者に接する態度を意識しつつ、できる限り優しく髪をかき混ぜてやる。 その指先が心地いいのだろう、男は半分夢の中に捕らわれたまま、甘えるように額をこすりつけてくる。
 吐息が……ともすれば唇が耳朶に触れかかる距離で、囁きは低く、静かに注がれた。

「お前は……この俺に、何を望む。 …ゲオリク・ザベリスクに対して、お前が望むものは何だ―――?」

 最後の理性が抗うのか。 赤毛の眠り人の無意識はそれきり、かたくなに口をつぐむ。
 ―――二度の拒絶は、いかなこの男でも堪えたのかもしれない。 …辛かった、のかもしれない。
 ゲオリクの空いた手が、ぽん、ぽん…と緩やかなリズムで軽く背を叩いて、根気強くあやした。 竦んで、凍ってしまった心を融解させるために。
 …やがて眠りの淵に漂うダッシュウッドの、薄い唇がゆっくりと、途切れ途切れに息を零してゆく。
 それらの狭間に散りばめられた声。 ゲオリクはそこへ耳を近づけて、短い単語のひとつひとつをかき集める。
 そして、自らの唇で同じ動きを辿り、意味を手繰り寄せる。
 幾重もの仮面という砦に覆い隠された、本心を。



 (………Take…、…me…、……―――)

 

 

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