「ギュントリンクの空は、広いんですねぇ」
珍しいこともある、と、思ったものだった。
この自分を不愉快にさせることに限っては稀なる才能を持つ男が、その夜、珍しくも―――
本当に珍しくも、金銭絡みでない、しかも取り留めのないような話をしはじめたから。
「昼間も夜も、空が広くて、丸くて。 一面、見渡せて。
本当に、籠に覆われてるみてぇだ」
「…何に覆われている、と?」
「籠、ですよ。 …旦那はこんな風に思ったこと、ないですか?」
ざわ、と。 ぬめるように湿った風が夜の庭園を愛撫する。
どこから流れてきたものか、それはかすかに生温かく、甘やかな香りを乗せていた。
「この世界は、いわば馬鹿でっけぇ鳥籠とおんなじで―――」
歌うように、独白のように男は呟く。
体の奥の、ずっと奥の芯にまで染みとおる、いつも憎らしいほどなめらかに澄んだバリトンが、
「生命は生まれるものじゃない。 この鳥籠の中で、『生まれさせられる』もの。 望む望まないに関わらず。
……見えない力に導かれて。 見えない鎖に繋がれて………生かされ、死んでいく。 …そう思いません?」
―――らしくもなく、今にも消え入りそうに曇っていて。
いぶかしむ思いを口にしかけたとき、ざざぁっ……と不意の強い風に遮られた。
己の黒髪が夜空に絡めとられ、蛇のように踊りくねる。
その向こうで、男は「それでは旦那、ごきげんよう」とおどけた会釈とともに歩み去っていった。
いつにない陰を含んだ、微笑みを残し。
闇に溶けゆくその背も、やがて彼自身も―――この世から音もなく、失われてしまったかのような。
あの瞬間の奇妙な錯覚が、なぜか。
なぜか……今もまだ、胸を離れない。
ヴァニラの鳥籠
攣れるような手首の軋みに、目が覚めた。
重く、瞼にまといつく夢神(の手を振りきって、ゆっくりと意識をたぐる。
脆弱な薄明かりの揺らめきで、かろうじて輪郭の浮かび上がる闇色の視界。
その端に、ゆるく波打って流れ落ちるシルクの天蓋を捉え、ゲオリクは一瞬、己がどこにいるのか混乱した。
白地に金の縁取りが美しい―――しかし、ところどころ不吉に赤茶けた染みの踊るそれは、見慣れた自室の寝台を覆うものと、似て非なる。
本能的に息をひそめながら、ゲオリクはまず自身の置かれた状況を把握すべく、首を巡らせた。
天蓋の表を淡く染め上げている、オレンジ色の薄い光。 その源は確認できないが、小さなカンテラか燭台か。 この寝台の広さといい、粋を凝らした装飾品の見事さといい、少なくとも貴族の所有であることだけは疑うべくもなかったが。
―――目覚めた瞬間から感じた、このなんとも表現しがたい奇妙な異臭は、一体なんなのだろうか。
そして、何より。
身じろぎのたび、ジャラ……と耳に障る金属音と、冷たく硬いこの感触は。
眉宇を寄せてゲオリクは思案した。 何がどうなっているのか、さっぱりわからない。 …わかるのは自分が今、一糸まとわぬ姿でベッドへ投げ出され、そのベッドに両手を枷と鎖で繋がれている、ということぐらい。
よもや、研究が告発されたか。
非現実的な己の格好に、いつもの危惧がちらりと脳裏をよぎる。
が、このまま臆していても埒が明かないのは、いかに状況が把握できなくとも明らかというものだ。
意を決した。 まだ愚図つきがちの頭を奮い起こして記憶を辿りながら、自分をこんな状況に放ったなにものかを呼びつけるため、すぅっと息を吸い込んだ―――刹那。
「………っあ、!」
沈黙の闇を裂いたのはゲオリクではなく、天蓋の向こうからの別の声だった。
思考が一瞬真っ白になった。 怒声をくじかれたゲオリクは反射的に息をひそめ、声のした方に意識を傾ける。
この部屋の中。 おそらく数mと離れていない。 ……天蓋のすぐ外、だ。
「…く、 う、 …っ……、」
低く押し殺した呻きが断続的に響いてくる。 それに覆い被さるような、湿った息遣いは複数。
寝室らしきこの部屋が薄暗い理由に納得しかけたゲオリクだったが、聞き耳を立てる野暮はいとわなかった。
単なる房事であれば、今は無視を決め込むべきだろう。 だが、今、薄い幕一枚を隔てた空間で繰り広げられているのは……違う。 欲情した男たちの苛みを一身に受けているらしい人物は、どうやら男であり、しかも。
「ッ……ぁ、っ、…っん……」
―――この声。 どこかで………
「おはよう、ザベリスク伯。 お目覚めの気分は如何かな」
身体中の皮膚という皮膚が、ぞわっと嫌悪に泡立った気さえ、した。
弾かれたように目をやれば。 濡れた声が聞こえてくるのとは反対側の天蓋布がめくられ、白い顔がゲオリクを見下ろしていた。
美しいというより、生きた人間の温度を感じさせぬ空恐ろしさが際立つそれは、まさに人形のようなとの表現が似つかわしい。
だが人形ではない証拠に、それは白皙の貌の中にあるからこそ禍々しい、鮮血の色をした唇を吊り上げて、男にしては耳障りに高い声を発した。
「美貌のわりに、伯爵はどうやら身体のほうは不慣れと見える。 薬の刺激が少しばかり強すぎたか?
それとも……私の腕の中は、気を失うほど悦かったかね?」
好色な物言いとともに、唇と同じ紅に見える瞳がすいと細まり、舐めるようにゲオリクの肌を観察する。
その視線に弄られた瞬間、意識の底に沈んでいた―――あるいは自ら沈めていたのやもしれぬ―――記憶が、鮮やかに脳髄を貫くのを感じた。
……おかげで全部、思い出した。 あまり、思い出したい記憶でもなかったが。
確か、自分は。 あの取立人の男に連れられて、この異様な地下組織の扉をくぐり。
そこでこの、奇ッ怪ないでたちをした、党首だという人物に拝顔した。 そして………
「いずれにせよ、可愛いものだ」
その先を想起するのも厭わしい『入団式』の顛末に眉をしかめていると、長い爪に彩られた指先が伸びてきて、ゲオリクの顎を捉えた。
その冷たさに一瞬、悪夢のような先刻の感覚が蘇る。 思わず竦みそうになりながらも、ここで弱味など見せては相手の思う壺と、平静を装って睨み返した。
しかし金髪の男は気分を害するどころか、逆に興味を誘われたらしかった。
「……いい目をする。 やはりお前は……どこか、似ているな」
顎に掛けていた指を首筋、そして胸元へと、どこか色めいた手つきでゆっくりと撫でおろしはじめる。
ゲオリクは無言のまま男の手戯に耐えていたが、深紅色の爪にやわらかく胸の突起を引っかかれるに至ると、目線に力を込めて抵抗の意を示した。
ぞくりと背筋を這った、得体の知れない熱が恐ろしくなったからだ。
「……っ…、『儀式』の途中で正体をなくして、サンドウィッチ伯爵のお手を煩わせたことは慙愧にたえません。
ですが、…せめて服をお返しいただけませんか。 私の処分はその後で、なんなりと」
慙愧にたえぬどころか憤死ものの恥辱を味わわされたにせよ、あくまでここの主人はこの男で、己は青二才の客にすぎない。 礼を失する言動は得策でないと、ひとまず口調を正して、興をそらすことに全力を傾ける。
サンドウィッチがこの顔に誰の面影を重ねているのかは分かる。 言葉の先を聞き出したい衝動はあるものの、そのために慰み物になるなどまっぴらだ。 父とこの男がどこまで親密な間柄だったかは知るところではないが、自分は断じて、父とは違う。
「強がる顔もなかなかにそそられるが、やせ我慢はするものじゃないよ、ゲオリク。
…私の愛撫に感じただろう? 儀式での薬がまだ、完全に抜けてはいないはずだからな」
溺れたいときにいつでも身を任せるがいい。 ここでは、それこそが掟だ。
ゲオリクの意地を嘲笑うように肩をそびやかして、サンドウィッチはベッドに腰を下ろした。 ぎし、と男二人分の重みを伝える音に、拘束された身体が強張る。
―――メフィストを呼ぶか、との悪あがきが思考を掠めたが、それも一瞬にして諦めに変わった。
改めて己が態を見やれば衣類は一枚残さず剥がれ、ご丁寧に手首の枷はベッドに固定されている。 こうまで手厚い歓迎をしてくれる部屋の主が、あの役立たずの悪魔にわざわざ花を持たせる場所で、のんびりゲオリクと対峙するか否か。 ……考えるだけいっそ、馬鹿馬鹿しいというものだ。
しかし。
「まあ、そうあからさまに構えるな。 別に今から私がお前をどうこうしようというわけではない」
全身で警戒をあらわにするゲオリクをよそに、くす、とサンドウィッチは細い喉を震わせただけで、虜囚の裸身を跨ぎもしなければ、それ以上の接触を求めてくるわけでもない。
まさか、本当に自分をおとなしくさせるためだけにこんな手の込んだ処遇を…? といぶかしんだとき、
「アガシオン!」
突如、金髪の男の鋭い声が飛んだ。 ゲオリクに対してではなく、天蓋の外へ向けてだ。
は、と耳を凝らす。 この男に話しかけられてからは意識の外に追いやっていた、先刻の嬌声―――それが今、サンドウィッチの声が響くとともに、ひたりと止んだ。 まるで息を呑んだかのように。
男は続けて二言、三言、短い呪文めいた単語を口にした後、「アガシオンをこちらへ」と命じる口調で告げる。
すると布越しの空間に動きがあった。 なにかを乱暴に引きずり上げるような物音、「ぅ……」とかすかな苦悶をにじませた呼気。
それらがカーペットに足音を散らしながら、ずるずると近づいてくる。
明かりの角度で、白い天蓋布の表面いっぱいに、不気味に肥大したいくつもの影が揺らめいた。
「……ああ、そういえば同胞として二つ名を明かすのは初めてだったな。 改めて、紹介しておこうか」
悠然と脚を組み換えるサンドウィッチは、寸劇の幕が開く瞬間のように、優雅にそれを招いて示した。
「名はアガシオン。 私の気に入りの玩具だ。 ―――これから、お前の玩具も兼ねることになる」
掛布の向こうに現れた、憔悴きわまるその顔を、ゲオリクはただ蒼ざめて見上げるより他はなかった。
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