二度と胸クソ悪い面を見せるな、気狂いめ―――と、閉じられた扉に唾でも吐きつけたい心境でうそぶいた後、ゲオリクはどっと押し寄せてきた倦怠感に、長い息をついた。
目の前に横たわるダッシュウッドを痛ましく見つめる。
抱かれた先刻までの恐怖や嫌悪感など、もはや跡形もない。 今はそんなことより、自分以上にひどく傷ついているであろう男の安否だけが気がかりだった。
―――とにかく、まずはこの男を介抱しなければ。
とはいえ、両腕はまだ拘束されたままだ。 ゲオリクはやむなく足を伸ばし、ダッシュウッドの肩をつま先で軽く小突いた。
「……ダッシュウッド……おい、ダッシュウッド。 …動けるか?」
どうやら意識はあったようで、シーツに投げ出されていた頭がのろのろと持ち上がった。 焦点のおぼつかない瞳は果たしてゲオリクを認識しているのか、判然としない。 だがゲオリクは構わず、その目をまっすぐに見据えて話しかけた。
「この手錠を外してくれないか。 お前の右脚の傍に鍵が転がっている」
ぼんやりと瞬くばかりですぐには応えてこないダッシュウッドに、何度も名を呼び、辛抱強く言葉を繰り返した。
ややあって、男はゲオリクが顎で示す場所を手探り、鍵を手に取った。 四肢に力が入らないのだろう、這いずるようにしてゲオリクの上に移動し、震える指を手錠に伸ばす。
がちゃがちゃと金属のこすれる音が続く。 と、唐突にそれはやみ、無骨な戒めがゲオリクを解放した。
ようやくのこと自由の戻った両腕に、我知らず安堵の溜息が洩れた。
が。
「………ッ!?」
脱力感は、すぐさま緊張に変わった。 痣のついた手首をさすり、ひとまず動きに支障はないかを確かめていたゲオリクの脚の間に、まるで当然のような自然さで、ダッシュウッドが顔をうずめてきたからだ。
「ダ、ッシュウッド! 何、……ッ」
舌先で舐られた瞬間、忘れていた燻りまでもが息を吹き返して、ざわりと脊髄を駆けのぼった。 ゲオリクはまだ痺れの残る手で、強引にダッシュウッドの頭を引き剥がした。
「……言う事、聞いたじゃない……すか……。 ご褒美……くださ……」
「―――ッ正気に戻れ、この馬鹿!」
不当に叱られた犬のように悄然と、上目遣いに見つめてくる瞳。
一瞬、得体の知れぬ情動がよぎり、焦ったゲオリクは反射的にダッシュウッドの頬を張っていた。
自分自身の平静を取り戻すための咄嗟の行為で、加減はしたつもりだったが、相手にしてみれば手痛い拒絶でしかなかったらしい。 呆然とした表情で俯いてしまった男を、やむなくゲオリクは抱き寄せた。
「……悪かった。 ……あのな、ダッシュウッド」
背中の生傷を刺激しないよう、極力やんわりと撫でてやっていると、腕の中の身体からこわばりが解けていく。 やがて完全に落ち着くのを待ってから、ゲオリクはダッシュウッドの弛緩した全身を静かにベッドへ横たえた。
「お前は今、妙な薬のせいで一時的に理性を失っているだけだ。 …身体を拭いてやるから、少しの間おとなしく横になっていろ。 いいな」
深紅の髪をそっと撫ぜて囁きかける頃にはすっかり医者の顔を取り戻し、即座に動き出していた。 備えつけのクローゼットを物色し、ガウンとおぼしき衣類を適当に拝借しながら、なるべく清潔そうなリネンの拭き布を選んで引っ張り出す。
その間に背後のベッドからくしゃみがひとつ聞こえてきたことで、遅ればせながら暖炉を探して、手近な燭台から火を移した。
ゲオリク自身もまだ、腰の辺りに重い鈍痛がわだかまっていたが、構ってなどいられなかった。
欲と汚辱にまみれさせられたあの男の全身を、なんとか綺麗にしてやりたい。 せめて、表面上だけでも。
それに、早く正気を取り戻させてやりたかった。 あの金髪の男の無粋な提案に従う気などさらさらなかったが、先刻のようにダッシュウッドのほうから無意識の不埒を仕掛けられては、こちらとてたまったものではない。 あの正体不明の薬さえ僅かでも掻き出してやれば、それだけ効いている時間も縮まるはずだ。
薬の持ち主の言葉を信じるなら、効果が切れるまではあと半日もある。
のんびり待っていられるものかと苦虫を噛み潰す思いで、ダッシュウッドの寝台に歩み寄った。
その、刹那。
それまでぼんやりと虚ろな瞳をさまよわせていた男は、ゲオリクの長身が己の上に影を落とした瞬間、何かに憑かれたかのようにおののき、身をよじって暴れ出した。
「おい、じっとしていろと言っただろう!」
「……めんなさ、い。 赦して………、赦し…て……」
「…落ち着け、俺だ。 何もしやしない。 身体を拭いてやるだけだ」
できる限り柔らかい声を掛けてみても、軽く肩に触れただけで、ダッシュウッドはますます怯えるばかりだった。 きつく目を閉じて頭を庇い、縮こまりながら謝罪の言葉を繰り返す姿は、小さな子供が親の折檻を恐れるさまを髣髴とさせる。 何が直接の引き金になったのかは知る由もないが、薬の副作用がなんらかのフラッシュバックを引き起こしているのかもしれない。
この男が今、こんな境遇に身を置いていることを思えば、幼い頃から良好な家庭環境で育ったとは考えにくい。 虐待や暴行を受けていた可能性も充分にある。 それは容易に想像のつくことだった、けれど。
ゲオリクは不毛な説得を早々に諦め、強硬手段に出た。 寝台へ上がり、ダッシュウッドが逃れられないよう、シーツへ縫いとめるように組み伏せる。
―――あの男の陵辱を受けている間中、ずっと俺の名を呼んで善がっていたくせに。
今、本物の俺に触られて何故、怯えるのか。 そんな理不尽な苛立ちが、ゲオリクを突き動かした。
傷に響かない程度の強引さでうつ伏せにさせると、片腕を軽くねじり上げて背中に押しつけた。 これだけで、今のダッシュウッドは抵抗はおろか、身じろぎすら満足にできなくなる。
全身を汚す血と汗と体液とをリネンで丁寧に拭き取っていく。 傷の手当てもしてやりたかったが、薬や器具が衣服ごとあの男に隠されてしまった以上、薄布を裂いて包帯代わりに巻いてやるぐらいがせいぜいだ。
やがて目に見える怪我の処置をあらかた済ませたゲオリクは、わずかな躊躇いを抑えながら、ダッシュウッドの腿を左右にずらすように開かせた。
…本当は、真っ先に綺麗にしてやりたかった場所。 本人が正体をなくして抵抗さえ封じ込められている今、申し訳ないという思いはあったけれども。
双丘の肉を押し開くと、赤く滲んだ奥の秘孔が怯えたように窄まった。 一瞬沸き起こった罪悪感を意識の隅に押しやり、指先でゆっくりとこじ開ける。 白濁と血の混ざり合った薄紅の体液が、陰部からいくつもの筋を描いてこぼれ落ちていった。
―――卑猥でしかない眺めのはずが、この男の膚を飾れば、背徳の美しさをもつ彩のように映るのは皮肉だろうか。
…たとえば。 たとえば、いつかの魔女裁判で妹の被った苦痛などに比べれば、こんなものはかすり傷のうちにも入るまい。 耐えられない痛みでもなかろう。 それに、すぐ終わる。
自分でもひどく場違いな言い訳じみて聞こえる考えに苦笑しながら、指を奥へと侵入させる。
「……っひ、…ぅ……」
細く、ダッシュウッドが呻いた。 拒むように閉じかけたそこはしかし、入り口を通ってしまえば、指の数本などは苦もなく呑み込んだ。
反射的にか、逃れようともがく男の腰をもう一度しっかりと抑え直して、内側を汚す白濁と薬を掻き出すように指を蠢かせた。
内部に生々しく残るのは、執拗に解され、擦られた感触。 本来、外部からの侵入を受け入れるつくりではない器官が、日常的に異物を銜え込まされている惨い証と同時に、それはゲオリクの指先に伝えてくる。
―――先刻の、そしていつかの夜のダッシュウッドが、どれほどゲオリクの身体を気遣って抱いたのかを。
「……ん…、……ぁ、あ、」
ほんの僅かに動かすたびに、ぬめりを帯びた残滓が指をつたい溢れ落ちてきて、淫靡な匂いを散らしていく。 ゲオリクは眉をひそめながら傍らのリネンを手繰り寄せ、胸に澱む不快な感覚ごと払拭しようとでもするように、ダッシュウッドの下肢と自分の手にまみれた汚濁を拭き取った。
こんなことは早く終わらせなければ。 この男のためにも、…自分のためにも。
―――『弱いところ』、か。 確か、そこにしつこく薬を磨り込んだと言ってやがったな。
思い返したくもない男の下卑た捨て台詞が脳裏に甦る。 渋面を濃くしながら、ゲオリクはいったん清めた指をふたたびそこへ含ませた。 熱く、濡れた壁を慎重に掻き分けるようにして進めていくと、
「……ぁ、……」
ある一点を掠めたとき、ひく、と小さく喉を鳴らしたダッシュウッドの反応に手応えを感じた。 幾度か、指の腹で強めに押して刺激してみる。
浅黒い背が電流に打たれたように跳ねた。 悦楽に潤んだ瞳を見開いて、男が息を引き詰めるのがわかった。
(……ここが、そうなのか?)
おそらくは、先刻まで散々あの金髪の狂人に弄ばれていたところも。
前立腺。 男の身体の内側に存在する性感帯。 医者の端くれとして知識の片隅に置いてあるにはあったが、直に触れるなど当然初めての経験だ。 しかも、自分ではなく他人のそれを。
埒もない真似をしているという、己に対する嫌悪感。 しかしその奥底で、単純な興味が疼かないと言えば嘘になる、…矛盾したなにかが生じ始めているのも、うっすらと感じていた。
「……ッ、ぁあ……、ぁ、っ、」
細くかぶりを揺らしてわななくダッシュウッド。 商人としてはまさに天賦と呼べるだろう、甘い深みを持つ声が、奥を探る指の動きに呼応して、少しずつうわずり出す。 薬を使われれば男でも、後ろを弄られただけでこんなに感じるものなのかと……目を眇めてふと、ゲオリクは気づいた。
いつの間にか、その反応を冷ややかに―――幾ばくかの心地好さすら伴って、観察している自分に。
弱った生き物を屈服させ、指先で優しく嬲る。 倒錯した愉悦が、さわさわと漣のごとく押し寄せてくることに。
躯の芯から沸き起こるその感覚に身震いし、けれど手を引くことができず、ゲオリクは殊更、動揺する。
―――これでは、ダッシュウッドを犯したあのサンドウィッチという男を、いったいどうして侮蔑できる…?
「…、………だ、…那……」
負の思考に埋没しはじめたゲオリクの意識を、ダッシュウッドのあえかな呼び声が引き戻した。
はっと我に返り、掴んでいた腕を放せば、その手首にはまるで荒縄で縛られたかのような充血の跡がくっきりと刻まれていた。 ゲオリクはそれにも驚き、目を見張った。 …それほどの力を込めていたつもりはない、のに。
旦那…、と、熱っぽい吐息と唇の動きだけで名を呼んで、ダッシュウッドは肩越しにゲオリクを振り仰いだ。
乱れ、汗ばむ髪の間から、欲情に浮かされた双眸が覗く。
ゲオリクの裡に灯った劣情を見透かし、むしろその先を強請るように見上げてくる金色は。
いたずらに牡を発情させて征服欲をかきたてる、ひどく淫らな牝獣、そのもので。
思うよりも先に、身体が動いていた。
「……旦、那……」
閉じ込める。 その温もりを、腕の中に。
―――無意識のまま、ダッシュウッドの身体をぎゅっと抱きしめていた。 厚みのない肉の下で圧された肺が、少しだけ苦しげに呻いて。 旦那、と繰り返す声に困惑が混じる。
その声を遮るように、金の双眸から逃れるように、ゲオリクは男の頭を自らの肩に押しつけた。
「………頼む、から。 ……そんな傷だらけになってまで、許そうとするな。 俺は、」
あの男と同じことを、お前に強いたりはしないから。
優しく髪を撫で、背を撫でながら囁きかけた。 いくつもの感情が荒れ狂う心から無理やりに目を逸らしてでも、今はこみあげる慈愛めいた想いにだけ、従いたかった。
……お前の媚態がそうあれと教え込まれてのものか、本能的なものなのかは分からない。 だが、それでも。
俺は、こんな歪な形での繋がりは望まない。 …こんな場所で、流されるようにお前を抱きたくないんだ。
切なるゲオリクの抱擁の中に何かを感じたのか。 男はやがて、糸が切れたように号泣し始めた。
嗚咽ひとつ洩らすこともなく、ゲオリクの背中に回される両腕もどこか遠慮がちで。 小さく震え続けるばかりの肩が、誰かに取りすがって泣くことさえ許されなかった幼子のように、哀しくて。
ゲオリクもまた、それ以上は何も言えなかった。 ただ、かき抱く腕に力を込めた。
どのくらいの時間が過ぎたのか。 (実際にはおそらく、ほんの数分のことだったのだろうけれど。)
涕涙の跡もそのままに、いつしかダッシュウッドはゲオリクの腕の中で、眠るように意識を失っていた。 ようやく忌まわしい媚毒の呪縛が薄れ始め、代わりに極度の疲労が襲ってきたのだろう。
その身体をそっと抱き上げ、ゲオリクは薄暗い寝室を見回した。 燭台の打ち付けられた壁際に大きめのカウチが目に留まり、そこに横たえる。
ある程度の広さはあっても寝心地はたかが知れているだろうが、異臭と体液にまみれたあのベッドにそのまま寝かせておく気にはなれなかった。
…とりあえず、床に跳ねのけられていた毛布だけは比較的無事なのを確認して、ダッシュウッドの上にかけてやる。
緊張から解き放たれた、あまりにも無防備な寝顔。 やはりどこかしら幼さを漂わせる男の傍らから離れがたく、…しかし、寄り添って身を横たえることは憚られて。
ゲオリクはカウチに背中を預け、脱力しきったように、どさりと絨毯に座り込んだ。
………抱いてやればよかろうに、な。
先刻、ダッシュウッドの金色の瞳に魅入られた、一瞬の空白。
誘う眼差しに便乗するように、頭の中の深い深い奥底で、異形の声が響いた。
脳髄を愛撫しながら、意識の隅々にまで浸透していく低い声。 不気味な囁き。
初めは、またしてもあの悪魔かと思った。 深海から立ちのぼるがごとく、不明瞭に反響し靄がかった響きが、いまや仮初の従僕として以前より頻繁に呼びかけてくるメフィストのものと、いやに似ていたから。
だが、違っていた。 それは。
それはまさに今目の前で眠る男に導かれ、ここへ辿り着くまでの道程の中で聴いたものと、同じ。
………自分自身の、声。
旦那…、と、掠れた声に呼ばれる。 甘やかな誘惑の声は二重写しになり、絡み合い、理性へと忍び寄る。
あのまま煽られ続けていれば。 ……己はこの男に、何をしていたかわからない。
薬で正気を失っている? 瑣末なことだ。 この男が求めるものは、どのみち『俺』ではないか。
―――抱いてやればよかろうに。 望みどおり、気が狂れるほど掻き回して、善がらせてやれば―――……
どす黒い、おそろしく傲慢な情動が、まだ身体の奥にくすぶっているような気さえ、する。
眩暈にも似た疲労感があった。 立てた膝の上に肘をつき、うっすら汗の滲む額を、組んだ両手の甲で支える。きつく目を瞑ってしばらくの間、その不快な熱を堪えた。
―――いいかげんにしろ。 今は、俺までおかしくなっている場合じゃない。
長く、長く息を吐いて、それからゆっくりと吸い込んでいく。 肺の中の、体内の空気をすべて入れ替えるように。
こんな場所に閉じ込められているせいで、あの悪趣味な伯爵の醸す毒気に当てられすぎたのかもしれない。 ……そうでないのなら、一体なんだというのか。
規則的に紡がれるダッシュウッドのかすかな寝息を背後に感じながら、ゲオリクはほとんど身じろぎすらせず、ただじっと目に見えぬ何かを睨み続けた。
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