遠く 遠く
 仄暗い湖の水底で
 罪人たちは 永遠を歌う

 ゆら  ゆら   ゆらり
 つかず離れず 時には そっと寄り添って
 波と戯れる藻草のように


 ねえ?
 君に  ずっと
 ずっと伝えたかった言葉があるんだ―――

 

 遠く 遠く
 仄暗い湖の水底で
 罪人たちは


 幸福を  謳う

 


 

 

Welcome back.

 

 


 

 ぱしゃ。


 冷たく凍えた闇の底に、かすかな、ごくかすかな水音が紡がれては消えゆく。
 最下層にこの暗澹の主の魂を抱く、静かなる凍土、コキュートス。
 しんと凍てついた岩肌は、幾万の歳月―――そして幾億の咎人たちの、声なき叫喚や悲嘆のおめきが蝕んだものか、至るところが抉られ、穿たれ、不規則な形をさらしている。 …そうして生まれた空洞(うつろ)には、やはり途方もない鳥兎を経たのであろう、無数の黒い水脈が小さな滝をなし、あるものはルシフェルの眠る氷の褥へと還り、またあるものはそれのみでわだかまって、忍びやかに、昏々と静寂(しじま)を濡らしていた。


 ぱしゃ、ん。 ぱしゃ……。


 ―――何かを、憚ってか、或いは単に、身体活動を試みる気力が尽き果てているだけか。
 魔王の泉からは切り離された水源の一つで、男はひどく気だるげに、…それでも決して手を止めようとはせず、のろのろと身を清め続けていた。 静かな滝の流れを借りて、浸した皮膚を無造作に擦る動きはしかし緩やかで、弱い。 そこには衝動に駆られつつも、物音を高くすまいと苦心しているような、相反する意図が滲んでみえた。

 忍耐の限界だった。 幾日も洗わない身体のままでいるのは何よりも、責め苦などよりもよほど耐えがたい。
 ……でも、アイツの近くでやかましい水音なんか立てていたらまた、何を言われるか……

 

「ブルーーーーノ♪」

 ―――場違いなまでに快活な声が、降り敷く冥昏を裂いた。
 背後から呼ばれた男は一瞬、微かに肩を跳ねさせたが、すぐにそれを隠すかのような物々しさで嘆息すると、いかんとも形容しかねる、とてもとても嫌そうな表情を声の主へとぶつけた。
「拗ねない拗ねない。 ちょっとばかり、以前の君お得意の喋り方を真似てみただけじゃないか」
「揶揄いに来たのなら、今すぐ私の視界から消えてくれ」
 突き放す口調でそれだけ言って、ぷいとあらぬ方へ逸らされるブルーノの仏頂面。 ワイン・ブルネットの髪を今は三つ編みに束ねている男は、愛弟子のつれなさにさほど動じた様子もなく、氷柱だらけの岩壁の隆起を器用にかき分けながら、悠然と水場へ歩み寄った。
「君の潔癖症は昨日今日に始まったことじゃあないが。 何も、毎回水場を変えるほど神経質にならなくてもいいんじゃないか? その水にしたって、長年、この断崖の下にある『モノ』の瘴気を吸い続けた代物だよ」
 洗浄効果は甚だ、君の期待に添えるものでもないと思うがね。
 …とは口に出さず、言外にほのめかす程度に留めるのは、「断崖の下にある『モノ』」をいたずらに刺激し、咎を重くするような愚を避けるためだった。 流石にそこまで耄碌してはいないかと、軽く鼻を鳴らすブルーノだったが、やがて聞こえてきた衣擦れの音に、ぎょっとした顔で振り向いた。
「…おい……何のつもりだ、貴様」
 カーキ色のローブを既に脱ぎ捨てたパラケルススが、いそいそと片脚を水面に突っ込むところだ。
「俺も久しぶりに水浴びしようかと思ってさ。 ついでに君の背中も流してあげるよ」
「断る。 頼んでない。 ……勝手に入ってくるなッ」
「照れなくてもいいのに。 ほら、昔はよく一緒に―――」
「誰が照れるか!!」
 懐古に満ちた口調の男に、恥ずかしい過去を滔々と暴露される寸前で遮って、ブルーノは泉から上がった。
 …否、上がろうとしたところでパラケルススに腕を引っ張られ、平衡を崩しかけた足元に慌てて力を込めた。
「他人の好意には素直に甘えたほうが得するって、教えたはずだよな? ブルーノ」
「……なにが好意だよ。 単に暇を潰せる遊び相手が欲しいだけだろうが、貴様は」
 人間の身体で数百年の刻を過ごした己より、実に三倍以上も年かさの微笑を睨みつけながら、男は悔しげに唇を引き結ぶ。 …深い葡萄酒色の髪、宵に似た藍紫の瞳、そしてこの、猫科の獣を思わせる、こまっしゃくれた笑い方―――同じ、はずなのに。
 かつて『ティモシー』だった男は今、その笑顔のままで易々とブルーノの抵抗を封じる。
 子供じみた力比べならば負けるはずもなかった、体格的な主導権。 それがもはや奪われてしまった現実は、ブルーノの中でいくばくかの警戒、…そしてある種の畏怖をけばだたせるのだ。
 それを悟られるような醜態だけは、晒してなるものか。
 溜息とともに悪あがきを諦めて、ブルーノはふたたび水の中に身を埋めた。

 

 

「せめて火が起こせればなあ。 簡単な界面活性剤でも作って、君にプレゼントできるんだけど」
「……プレゼントしてもらう前に自分で作ってるさ。 そんな新鮮な油脂を垂れ流してくれそうな生身の生き物が、この永久凍土地帯に一匹でもうろついてればな」
 流れ落ちてくる水の下で腕を擦りながら、さも残念といった様子で呟くパラケルススに、男は背を向けたままで軽く肩をすくめてみせた。 死んで地獄へ堕とされてから、あまつさえ石鹸なんぞもらって喜ぶ阿呆がどこにいる、とは突っ込まないところがブルーノらしい。 水音にまぎれて赤毛の男はひっそり吹き出したのだが、幸い視界を外している弟子には気付かれずにすんだようだ。
 横目にブルーノを伺うと、薄闇に溶けそうな褐色の背中。
 白に近いアッシュブロンドの髪が、やけに眩しく目につく。
 ―――どこか夜空を泳ぐ月に似た、それに無意識を誘われてか否かは、パラケルススにも分からなかったが。
「! な、んだよ……」
 無言の指先に頭を引き寄せられ、ブルーノが戸惑った声を発する。 それには微笑だけで応じて、赤毛の男は今まで自分のいた小さな滝口に弟子の身体を屈ませた。
「髪。 洗ってあげるから、じっとしてて」
「な、…だから、誰も頼んでなんか…!」
「俺がそうしたいんだ。 …洗わせてよ、ブルーノ」
 昔みたいに、さ。
 郷愁に訴える柔らかな声を耳の後ろへと注いでやると、銀髪の頭はなぜかびくりと揺れて、おとなしくなった。 それ以上の返答も待たずにパラケルススは、弟子の頭を流れ落ちる水の中へと突っ込み、わしゃわしゃと洗っているのか乱しているのか分からない手先を髪の間に通していった。
「『お湯、熱かったら言ってくださいねぇ。 かゆいとこ、ないですかぁ』」
「……〜〜〜〜」
 おどけてみせると、緩やかな滝の奥からもごもごとドス低い声が響いてくる。 間違いなく抗議の文句だろうが、水音混じりのそれは山犬めいた唸りにしか聞こえず、パラケルススをまた笑わせるだけだった。
「石鹸や香油はないけどさ。 …それでも、誰かに頭洗ってもらうって、悪い感覚じゃないだろう?」
 ちょうど洗髪の最後に活性剤を落とすような仕種で、ざっと頭を洗い流してから、振り向かせて顔を覗き込む。
「はい、できあがり。 ほーら、かわいい♪」
「…か、わ……!?」
「髪。 やっぱりおろしてるほうが可愛いって……あ、こら、言ったそばから上げるなよー」
 たっぷり水気を吸って、ざんばらに落ちた銀髪。
 黙って元どおりに上げようとする弟子の手を、赤毛の男はにこやかに止めてやった。
「そもそも、なんでいつもそんなに引っつめてるのさ。 少しぐらい乱して下ろしたほうが格好いいし、似合うのに」
「ほっといてくれ。 視界が自分の前髪で遮られるの鬱陶しいって昔、言っただろ―――って、そんなことどうでもいい! …お前だって今は人のこと言えるのか、その髪」
「これ?」
 ささやかな嫌味をこめて放られたブルーノの一瞥に、パラケルススは照れたような顔で頭を掻いた。 よくぞ話を振ってくれました、とでも言いたげな朗らかさに声を弾ませて。
「これね、昔は君と同じく、研究や読書に差し障りがないようにってだけで上げてたの。 今はその差し障る対象もないから上げなくていいんだけど……ホラ、君とおそろい! と思うとね、なんだか嬉しくってやめられなくてさ」
 もちろん意図あっての科白だったが、果たしてその意図のとおりに、髪をかき上げるブルーノの手が止まる。
 『かわいい』呼ばわりと、『おそろい』。 甘んじて受けるのにより屈辱的なのはどちらだろう。
 仏頂面で葛藤している弟子の心情があまりに分かりやすくて、師である男はひたすら爆笑を堪えるのに必死になりながらも、慣れた手つきで褐色の背を流し、やさしく洗い流していく。
 言葉以外の悪ふざけはなかったため、抵抗の糸口も特に見出せず、ブルーノはしばらく無言でされるがままになっていた。
 が、わずかな力の篭もる肩が、未だ気を許してはいないという手応えをパラケルススに伝えてくる。

 ―――簡単に赦してもらえるほど、生ぬるい罪でもないんだよな。 ましてや……。

「……まだ、怒ってる? ゲオリクのこと」
 いきなり切り出すのは躊躇われて、姑息を自覚しつつも、共通の知人である男の名を引き合いにしたのだが。
 言った途端、肩に置いた手がパンと、音が響くほどきつく叩き落された。
「……その名前。 もう一度でも出しやがったら、金輪際、貴様とは口を利かない」
 ブルーノは振り返ろうともしない。 …しかし静かな声音とは裏腹に、燃えるような憎悪をオッドアイに滾らせて、闇の虚空を、記憶の内にある嫌悪の対象を睨んでいるのは、確かめるまでもなく分かる。
 ことごとく私の邪魔ばかりしてくれた。 忌々しい無礼者。 あのくそ生意気な若造……。
 どろりとした黒い感情の沼にみずから嵌まろうとする男を、ふと、後ろから包み込む体温が押しとどめた。
 驚きで我に返ったブルーノの耳のそばで、ぽつりと低い声。
「…やきもち、かな」
「な、…貴様、ふざけるのも…!」
「違うよ、―――今、迂闊に名前出して後悔した。 …すごく、嫉妬した……『彼』に」
 はっきりとその名を避け、パラケルススは、師の言葉の意図に惑うブルーノの肩に額を乗せて目を閉じる。
 ―――ごめん、ゲオリク。 君はとてもいい友人だったけど、…今日限りで君の名は忘れさせてほしい。
 耐えがたいのは今、目の前にいる愛弟子を憎しみが汚していくことか。
 それとも憎しみという激情で、ブルーノの思考すべてをたやすく満たしてしまえる男の存在なのか。
 …些細なことで焦って、身勝手な独占欲にざわついて、きっと己のこの心こそ洗い清められるべき醜悪さだ。

 (子供の姿で、乞うて生きることに慣れすぎたかねぇ。 …もう、偉そうに人に何かを説教できる器じゃないな)

「ティ、モシー…?」
 急に黙り込んだ男を案じるように、控えめなブルーノの声に呼びかけられた。
 気遣ってくれる声音や視線は心地よくて、そのやさしさにつけこんでどこまでも甘えてしまいたくなるけれど。
 しこたま悪戯っぽい笑顔を携えてからパラケルススは顔を上げると、「君がさ…」と用意していた軽口を叩いた。
「君があの国でたいそう浮気に精を出してたの思い出して、なんか今頃妬けてきちゃったなぁ、って。 王女様に、サンジェルマン博士に、確か先代の騎士団長もだったっけ。 …君ってつくづく金髪美人がタイプなんだね?」
 その、脈絡の伺えない話にブルーノは一瞬、面食らい―――次には明らかな動揺を示した。 ハードランドでの乱行がそこまで旧友に筒抜けとは、さすがに想定していなかったのだ。 やり場のない癇癪とも羞恥ともつかない色にうっすら顔を火照らせながら、ぱくぱくと声にならない言葉を発し、やがては眦を吊り上げて開き直った。
「…金髪好きで何が悪い!! 大体、浮気だのと身の毛のよだつ言いがかりはやめてもらおうか。 私は貴様に師事こそしたが、恋人にも伴侶にもなった覚えは断じて、ない!」
「伴侶! …うーん、すばらしい響きだねぇ……伴侶かぁ…」
「……馬鹿にしてるのか、貴様」
 どこ吹く風でしみじみ、論点から外れたところに感嘆している赤毛の男を、一瞬でも心配したおのれこそ愚かだと痛感するブルーノの声の温度は、周囲の空気よりも冷え込んでいる。
 対称的に「とんでもない!」と破顔するパラケルススのほうはと言えば、明るさの内にも熱っぽい、真摯な色を瞳に宿していた。
「君は俺の人生において、もっとも優秀かつ誇るべき弟子だよ、ブルーノ。 ―――『彼』には、居候の代償として乞われたから知識を貸したまでだ。 そして一人の錬金術師として、為すべき義務をまっとうしたまでだ。
 …師弟関係は結ばなかった。 俺にとって、君以上に得がたい弟子は後にも先にもなかったからね」


 ぴちゃ、ん。
 にわかに降りた沈黙の中、地獄の月の巡りに沿って流れを変える水脈の、名残だけが闇に残響を刻む。


「………そんな言葉で。 今更、私が懐柔されるとでも?」
「思わないよ。 でもブルーノは優しいから、こんな俺の弁解にも耳を貸してくれる。 それに甘えて言葉にしてる」
「……っ…」
 穏やかな宵色の双眸が、翳りを含んで微笑む。 それはどこか痛ましく、いたたまれずにブルーノは俯いた。
 ―――お前は、ずるい。
 今更、どんな甜言蜜語で宥めすかされたって、頭から無視を決め込むつもりでいたのに。
 …そんなふうに言われてしまったら、聞かないフリをしている私が、いつまでもぐずる幼児みたいじゃないか。


「大好き、だよ」
 不意にパラケルススが零したのは、遠いむかしに何度も何度も交し合った、短くいとけない言葉。
 野良猫じみた警戒心の塊だったころのブルーノに、忘れかけた安らぎを与えてくれたそのフレーズ。
「俺、やっぱり君が好きだ、ブルーノ。 …愛してる」
 ―――あの頃と異なるのは声の低さ。 そして深く、心臓をも揺さぶるようなその温度。
「……言いたいことは、そんなことか。 他に私に言うことはないのか」
「あるよ、両腕に抱えきれないほどにね。 …でも、これだって今の俺の本心だからさ」
「いい加減にしてくれ!」
 荒々しく腕を払って睨めつけた。 ばしゃり、と叩かれた水面が高い悲鳴とともに飛沫を撒き散らす。
「薄っぺらな俗悪芝居の台詞みたいな、そんな言葉なんぞ聞きたくもない…! 貴様は私をコケにするためだけにわざわざ、こんな地の底にまで堕ちてきたのか!」
 銀髪からしたたる雫をも跳ね除けるように、吼える男の。
 その姿はやはり(いにしえ)の王族の血にふさわしいなにかを感じさせるもので、ああ綺麗だな…、とパラケルススは不謹慎とは思いつつも、感動を禁じえなかった。
「俺は、君から咎めを受けるためにこの地を選んだんだ。 ブルーノ」
 憤怒の形相がぴくりと揺らいだ。 左右非対称の美術品めいた双玉を見上げ、懺悔のような言葉を紡ぐ。
「今になって赦してくれなんて、虫のいいことは言わない。 ただ、気の済むまでなじって、責めてくれればいい。
 …もう、辛い感情をひとりで抱え込まないでほしいんだ。 勝手なこと言ってるって、君はまた怒るだろうけど」


 一瞬、ブルーノは瞠目した。
 何か言いかけて震えた唇は、しかし―――声をなさぬうち、噛み締めるように閉ざされて。
 

 

 

 

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