「………ひとつだけ、訊かせろ」
言葉にするのをひどく迷ったような、長い沈黙のあと。
手近な岩に背を貸して座りなおしたブルーノが、赤毛の男から視線はそむけたまま、ぽつんと呟いた。
「……あの、とき。 お前は……本当に自分の意思で、自発的に、」
私のもとを、去ったのか。
なんらかの不可抗力や、避けがたい要因が絡んでのことではなく、自身の意志ひとつに基づいた決断で。
その問いに答えるには、パラケルススもまだ、苦痛をともなった。
清けき至福に充ちた日々。 只ひたむきな、信頼のまなざし。
―――それらすべて、一方的に裏切るかたちで後にしてからの数百年は、まるで色彩の抜け落ちた世界に生きていたかのように、渇いて、感覚さえも朧で。
「……そうだよ」
けれどもはや欺瞞で、あの無垢だった銀髪の少年の心をこれ以上、いびつに手折ってしまいたくはなかった。
「俺の意志だった。 君に永遠という、俺と同じ業を負わせるべきじゃないと。 君の未来を奪うべきじゃないと」
―――くす。
「…そういうところ。 変わってないな、ティモシー…」
肉づきの芳しくない、細い肩をすくめて、銀の髪の男はかすかな忍び笑いを噛み砕いている。
硝子玉のように透明な、無感動な瞳に、黒々と揺らめく水底だけを映して。
「昔からそうだった。 なにもかも私を思ってのこと、みたいな顔して、優しい言葉ではぐらかしてばかり。
そうして私を安心させて。 結局、本心なんかひとつも見せちゃくれなかったよな」
「…ブルーノ、」
「お前のそういうところが。 今でも気持ち悪くて、ムカついて、大ッ嫌いなんだよティモシー」
ぽたり。
完全に止まった水流の跡を背に、俯いたブルーノの髪から零れる水滴が、夜色の泉へと消えてゆく。
「おれの、未来? おれのため…?
…ならお前、ある日いきなり置いてかれたおれの気持ちは。 一度だって真剣に考えてくれたことあるのかよ」
叫ぶでもなしに。 ただただ、低く淡々と。
幾星霜が固めた分厚い仮面の奥、垣間見えた素顔はいまだ、静かな悲憤にまみれて傷だらけで。
その表情にも言葉にも、強く頬を張られたかのような痛みで、パラケルススは一切の言葉を失う他なかった。
「……初めのうちは」
立てた片膝をみずからの懐に抱くようにしながら、どこを見ているのかおぼつかない、虚無の眼(がうつろう。
「二、三日もすれば戻ってくるものと思ってたよ。 どうせいつもみたいに珍しい薬草にでも夢中になって、遠くまで行っちまったんだろう。 待ってればそのうち帰ってくる、ってな」
曇った水流に遊ばせている手足の、ゆらゆらと危うげに波打つ輪郭。
「一週間たって、半月たって、何の連絡もないから流石に心配になってきた。 途中で何かあったんじゃ、って。
…ひと月が過ぎたあたりから、それははっきりと不安に変わった。
お前は死なない身体だって言ってたけど、ひょっとしたら、何かの事件に巻き込まれたのかもしれない。 誰かに連れ去られたかもしれない。
今もどこかに閉じ込められてるのかも。 …そんなことばかり考え出したら、夜もろくに眠れなくて」
―――ぱしゃ…っ。
不意に、ゆるく湖面を掻いたブルーノの両手が、慰みのように水をすくい取る。
「余計なこと考えなくて済むように、毎日、研究に没頭した。 エリキサーもその頃、見よう見まねで作れるようになった。
…仮にお前がこのまま戻らなかったとしても、おれが必ずお前を見つけてみせる。 この薬(さえあれば、何百年かかったって探せるんだから―――……そう思えば、ひとりの時間も辛くなかった」
かつてその手の中にあったものは、古びた書物とフラスコと、ちいさな手のひらのぬくもりと。
―――水は少しずつ、けれど密やかに、確実に、指の隙間をすりぬけて。
「………あの頃は、思いもしなかったよ」
やがてブルーノが無造作に両の手のひらを開けば、ばしゃん、と悲鳴にも似た音を立てて、砕け散る。
「お前が自分の意思で私から離れていった、なんて。 …私を騙して、見捨てて、勝手に出て行った…、なんて。
思わなかった。 ……思いたく、なかった。 あまりにも……自分が、惨め、で」
「……ブルー…」
「さわる、な」
震えにかき消えそうな独白を聞いていられず、衝動的に伸ばした指先はしかし、銀色の髪に触れる寸前で強く撥ねつけられた。
「……さわるな、…汚、い。 …せっかく洗ったばかりだってのに」
逃れるように縮こまる身体を前にしては、もはやどこへも届かなくて、宙だけを掴むパラケルススの手。
―――それでも、せめてこの痛みを抱きしめることが、今の自分にできるただひとつの贖罪だと。
近寄れば怯えた表情で後ずさる、そんな旧友の姿に詫びたくとも詫びきれぬ苦しさを自覚しながら、赤い髪の錬金術師は泉の底を踏みしめ、ともすれば踵を返してしまいそうになる己の足を叱責した。
「……すまない、付け入るみたいな真似ばかりして。 …けど、もう…俺は君から逃げたくないんだよ。 だから…」
「うるさい。 こっち、見るな」
重石でも乗せられたように頭を上げようとしない銀髪の男は、最前から一心に、水に浸した脚の垢を擦る動きを繰り返している。
だが動揺のせいなのか、それまでと違い、おこりのように指先が慄えていた。
それで闇雲に掻きむしるものだから、ただでさえ皹(だらけの肌に、無数の引っ掻き傷を刻んでますます荒らしてしまう。
「…ブルーノ、そんなにしたらだめだ。 凍傷が―――」
「見るなって言ってるだろ!!」
癇癪に近い声でブルーノは叫んだ。 真っ赤に血走って潤んだ目が、まるで泣き腫らした幼子のそれのように。
「…汚れた身体でいるのは嫌なんだよ…ッ、また、…また……どこかから腐っていきそうで……!!」
膝にこれでもかと、きつく爪を立て、握りしめる。
「………嫌なんだ……、お前の目の前で、またあんなおぞましい姿を晒したら……って、想像しただけでも、」
「だいじょうぶだよ」
―――俯けた視界に、ふっとワイン色が割り込んで、びくりと、男は取られかけた手を素早く引っ込めた。
それを追うことはせず、パラケルススは褐色の膝に顔を寄せると、めくれた皮膚の部分にそっと唇を落とす。
「今ここにいる君も俺も、肉体(じゃなく魂(だもの。 ほら……こんなふうに、血も流れずに滲むだけだろう?」
「そん…なの、分から、ない。 ここの主は気まぐれで……私たちは、罪人だ」
この谷はコキュートス、世界の闇底。 もっとも静かで、暗く、凍えた永劫の墓場。
今はブルーノもパラケルススも『人間であった最後の瞬間』の姿をとどめているが、それがいつ崩れてゆかないとも限らない。 だからこその、地獄なのだ。
赤毛の男がふたたび、そこへと口付けた。 今度は一度目よりも深く。 ひく、とブルーノの膝がかすかに笑う。
「っ…やめろよ、ティモシー……汚れるぞ」
否、笑ったのは膝のみならず。
遠慮がちの指を髪の編み目へ引っかけられ、反射的に視線だけで応えたのを、
「…慰めなんかいらない、から。 離せよ……私に触ってると、お前まで汚れる」
―――見下ろしてくる、不恰好な笑みの奥に溶けた自嘲が、パラケルススをはっとさせた。
先刻のブルーノが口にした、「汚い」という言葉は、……まさか、裏切者に向けられた罵倒ではなくて。
「……汚くなんか、ない」
激情を押し殺したような突然の声の低さに、思わずブルーノが硬直したのと、足首を掴まれたのがほぼ同時。 蒼ざめる弟子に構わず、パラケルススは捕まえた片脚を自分の肩の上まで曳きずり上げた。
バランスを欠いて傾いだ身体が後ろへひっくり返りかけ、すんでのところで底に手をつく。
「何しやが……っ…!?」
そのまま沈んで溺れる心配のいらない浅瀬なのがせめてもの救いだが、そういう問題ではない。 たちまち泡を食ってブルーノはばしゃばしゃともがいた。
いかに周囲は薄暗い寒氷地獄とはいえ、この近さとこのアングル。 …下半身の、具体的にどこと意識したくないほど恥ずかしい箇所までが丸見えだ。
「俺のことなら、いくらでもなじってくれていいとは言ったけど」
―――戯れには少々度が過ぎる、けれどそんな体勢にあっても、パラケルススの表情を占めているのはただ、澄んだ怒りだった。
「君が、自分で自分を『汚い』なんて勝手に思い込んで、貶めて、傷つけるようなら…俺は黙って見過ごせない。
…俺がいる限り、どんなことがあろうと、君の身体を腐らせたりなんてしない。 そんなこと、許すものか」
こんなにも綺麗な、俺だけのブルーノを。
男の唇はそう謳いながら、浅黒い膝から大腿部の内側へかけて、ゆるりと滑り始める。
「……綺麗……なんか、じゃ」
「綺麗だってば。 自慢じゃないがね、こう見えても年季の入った面食いなんだよ? 俺」
果たしてわざとなのかどうか、口調こそムキになる子供さながらではあるが。
「君がこの脚に膿でも飼ってるっていうなら、俺が今、全部吸い出してやるさ。 …どこからがいい?」
時折、湿った感触に紛れさせて歯を立て、弾力を味わうかのごとく食んでくる、その動きは子供の遊戯などとは呼べない、熱いもの。
狼狽するブルーノに髪を掴まれても、パラケルススはここで離すつもりなどないのだろう、もう一方の脚も優しく割りひらくと、できた空間に自分の身体を押し込んで閉じられなくしてしまった。
「…ッ……ティモ、シー……やめ、」
そんな格好を強いられて、相手の舌と吐息の熱さを意識せずにいられるほど、ブルーノも色に疎くはないのだ。
ちゅ…、と濡れた音に肌を吸われるたび、ざわざわと押し寄せる感覚がより鮮明に、密度を増してゆく。
「敏感だね…、ブルーノ。 ホント可愛くて……俺もどうにかなりそう」
「…っるさい…ッ、……義足だったん…だ、ずっと…!」
「ああ…、だからかな。 …本物の脚だと、やっぱり隅々まで感じてくれるんだ?」
「バ、…ッカやろ……ッ」
自棄になって罵るも、羞恥と悦楽に全身を火照らせながらでは説得力などなく、パラケルススを喜ばせるだけだろう。
分かってはいるものの、おとなしく思うツボに嵌まるだけというのも癪で、ブルーノは精一杯の悪あがきとばかりに、加減も考えず赤毛の男の背中を蹴っ飛ばしてやる。
…どのみちそれも、指先まですっかりこわばってしまっている足で、さしたる効果は見込めなかったはずだが。
「ふ、…ぁ、 ティ……モ、シ…っ……―――」
「………『パラケルスス』」
ふと、愛撫のはざまで聞こえた名前。
ブルーノが視線を下ろすと、「―――って、呼んで?」と宵色の瞳の、柔っこい微笑みが返ってくる。
「ごめん、『ティモシー』に比べたら発音しづらいし、…今更呼びにくいだろうけどさ。
どうしても、本当の名で呼んでもらいたいんだ……君にだけはね」
…ふたりきりの闇に堕ちた今、演じてきた偽りの生をあらわすかつての名とは、そろそろお別れしたいから。
そう言って赤毛の錬金術師は、永い永い年月(を見つめてきた双眸を、穏やかに眇める。
しばし迷うように言いよどんだブルーノだが、不埒な舌先に脚の付け根をなぞられ、甘えるようにねだられると、その焦れったい刺激にたちまち観念してか、「わ、かったから…!」と声をうわずらせた。
「……パラ、ケル…ス、ス」
…別にそう呼ぶのは初めてでもないのに、歓喜をこめた目でじっと注視されながら改めて、だと、どうしてこうも気恥ずかしいのだろうか。
俯くと目が合ってしまうので、ブルーノはきまり悪げに視線を横へとずらす。 ありがとう、と子供のような満面の笑顔を見せる男を間近にしていると、気道が胸腔で塞がったような圧迫感が苦しく、…けれどどこか心地よくて、落ち着かなくて。
「これで名実共に対等だね。 …正直なところ、俺はもう君を弟子だなんて思ってないし、先生ヅラする気もない」
―――どくん、と心臓が大きく、疼いた。 思わず向き直る金銀妖瞳(にくっきりと、隠しようのない不安の影。
それを見つめ返しながら赤毛の男は、一瞬、遠いいつかの小生意気な少年を髣髴とさせる表情を垣間見せ。
「……だって、『伴侶』だし?」
突飛な単語にぽかんと弛緩する一瞬をこそ、狙いすましていたかのごとく、パラケルススの口腔は腿の谷間にうずくまる媚熱の軸を閉じ込めて、ブルーノにあられもない悲鳴を上げさせた。
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