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「そういえば、今思い出したんだけどさ。 君、神話にやたら凝ってた時期があったよね」
「……お前の話に脈絡がないのは今に始まったことじゃないが。 それって今、しなくちゃいけない話か?」
腰の呻きを堪えながら、パラケルススのローブに包まれ抱き込まれる形でくたりと座り込んでいたブルーノは、少しだけ端の掠れた気だるげな声で、ハァと溜息をついた。
水の中で幾度か求め合った影響で、普段は神経質なまでにきっちり纏められている銀髪も無残にばらけてしまったが、いまやそれを直すだけの気力はないらしく、赤毛の男の柔らかな指先が撫でてくるに任せていた。
ローブの裾からのぞく脚も、力なく投げ出したままに。
(セクシーだよ、ブルーノ♪ …とか言ったら、また怒らせちゃうだろうしなぁ)
せっかく胸に収まってくれている、愛しい体温を逃がしたくはないので、あえてそこは口をつぐんでおく。
「まだ君があんまり喋れなかった頃だっけ。 暇つぶしをあげようと思って神話の本を貸したら、もう朝から晩までものすごいハマりようで。
俺、横からちょっかいかけようとして噛み付かれそうになったもんなー」
「………覚えてない」
「そう? まあ昔のことだしね、それはいいとして。 ―――その神話の内容は覚えてるかい?」
かの逸話が語る者の名は、シジフォス。
神々を軽んじた罪で永劫の罰を受ける身となった、古代の王の末路をえがいたものであった。
「彼もこの地獄で、意味も終わりも存在しない、究極の不条理という刑を科せられた。
そんな我が身を客観的に吟味したとき、彼が口にした言葉は」
「…“すべて良しと私は判断する”?」
パラケルススは、生真面目に応じてくれる旧友に苦笑した。
かつてハードランドではどんなとぼけた道化を演じていたものか、人づてに耳に入れてはいるのだが、根っこはあくまで学者肌のブルーノだ。
くだらない睦言もどきの応酬は厭がっても、文学的な話題なら食いつきがいい。 分かりきっていたことを再確認させられて、ついつい笑いが零れてしまいそうになり、不審げなブルーノの視線を浴びながら男は続けた。
「今なら俺、彼に共感できる気がするんだ」
「……シジフォスの神話の最大のテーマって、『人生の価値の是非』だろ。 無益な労働を延々と強いられる環境ならともかく、この氷の谷底に這いつくばってるだけで、いつそんな悟りが開けるんだか」
胡散くさ、と言わんばかりの声で一笑に付されても、パラケルススの微笑は揺るぎない。
「君も俺も、もはや死んだ身だ。 ここで生き死にの是非を鑑みる必要なんて、これっぽちもないんじゃないかな。 大切なのは今、幸せか否かということだけ。 …だろ?」
腕の内にある銀色の髪の、感触を確かめるかのように、唇が軽くその一房を掠める。
「…『人はもっとも満足を得た瞬間、もっとも絶望する』。 つくづく捻じくれた、贅沢な生き物だと思うよ。
だが、それだけに苦境の中で一片の希望を見出したとき、その喜びは何物にも代えがたい」
「…………」
肯も否もおもてに出さず、ただ黙って耳を傾けてくれる友に胸のうちで感謝しながら、男は思いを言葉にする。
「―――今、この地獄で受けている囚役、そして君に対する、これからの償い。
それらこそが俺にとって、安らぎと呼べるもの。 …自己満足にはすぎないが、『すべて良しと私は判断する』さ」
「……お前のふてぶてしい根性の前には、シジフォスも舌を巻くだろうよ…」
溜息とともに応えるブルーノの表情は背中越しで窺えないが、さぞや疲れ果てた顔をしていることだろう。
パラケルススは後ろからそっと腕を回して、いつくしむようにその身体を抱きしめた。
「君が嫌いな回りくどい話になっちゃったけどね。 …要するに俺、今、最高に幸せなんだってこと。
不謹慎な物言いになるけど、ここでずっと君と一緒にいられると思うと嬉しい。 ……君が俺から離れて、遠くへ行ってしまわないことが、他のどんなことよりも嬉しいんだ―――……」
「……勝手に遠くへ行っちまいやがったのは、どこのどいつだよ」
ぽつんと小さく吐き捨てられる、ブルーノの悪態。 それはまだ苦いものを含んでいたが、棘は先刻より幾分は和らいでいた。
赤毛の男の声音が、頼りなく揺れ、やがて囁きのように細くなるにつれて。
「……ごめん、な。 ……俺も、こわかったんだ。
不死の肉体となった君が、いつかそれを悔やんで、君を止めなかった俺を恨むようになるんじゃないか。
……君がいつか、永遠を生きる運命に絶望して、俺を拒絶するようになるんじゃないか……って」
拒絶、のキィワードに。
とても、とても鮮明に覚えている痛みがよみがえるようで。
ブルーノは無意識のうち、腿の上に置かれていた手をぎゅっと握りしめる。
爪先からじわじわと腐蝕が進み、そのうち脚がすべて崩れ落ちて、自力で歩くことすらままならなくなって。
……そんな身体になってからも『彼』をあきらめるのに、あの頃、どれだけの絶望を重ねただろう。
腐敗した肉体で生き永らえることよりも、何よりも恐ろしかったのは。
同情という名の距離でもって、『彼』から異質なモノとして見られるようになること。
―――そして……いつしかその口で、拒絶を申し渡されること。
…きっと最初から、思いは同じだった。 それに気付かないまま道をたがえたとは、なんたる皮肉だろうか。
く、と溢れてくる笑いと。 …潤んだ目を気取られたくなくて、ブルーノは俯きがちに肩の震えをやり過ごす。
まだ当分、赦すことなんかできそうにない、そのつもりもないのだけれど。
…もう、憎み続けることも、自分にはできないのだと分かっていた。
ぱしゃ……―――。
月の傾きで水脈が返ってきたらしかった。 閑寂をふたたび、涼やかな流れが満たし始める。
しばし意識を委ねた後、「あのさ…」と、少し凪(を取り戻した声でパラケルススは口を開く。
「こんなこと言うと憐れみの目で見られそうだから、今までずっと言えなかったんだけど。
…俺、さ。 実を言うと、君が初恋なんだよね」
「は……?」
憐れみの目を注がれはしなかったものの、あまりに突拍子もないその単語は、生前は変態科学者(でならしたブルーノをして、おおいに引かせるだけの威力を発揮した。
「………この期に及んで、ありえない冗談は齢だけにしてくれないか。 気色悪いにも限度がある」
「惨憺たる言われようだなぁ……ホントだってば。 君に会うまでは研究書と薬品ぐらいだったの、俺の恋人は」
だって研究にしか興味なかったんだもん。
しれっとした顔で、探究欲に性欲を凌駕されていたのだとうそぶく男は肩をすくめてみせた。
研究書と薬品の代わりかよ、私は……と少々やるせないブルーノだったが、悲しいかな同じ科学者として共感できなくもなかったので、ひとまずは抗議を取り下げてやることにする。
「もちろん、大してのめり込まないその場限りのお付き合いなら、それなりにこなしたけど」
と、わざわざつけくわえたのは、恋人いない歴数百年だったのだという不名誉な誤解を避けるためというより、その言葉で腕の中の、銀髪の『伴侶』の機嫌が微妙に下降するのが嬉しいから。
悪趣味はたっぷりと自覚しつつのパラケルススの笑顔が、しかし次の瞬間、かすかな翳りをおびる。
「……本気で欲しいと思ったのは、ブルーノが初めてだった。
だから、いつか君に必要とされなくなるときのことを考えると、それだけで足が竦んだよ」
たとえいつの日か、君に、真の意味で背を向けられる日が来たとしても。
それでも死ねない俺は、その先、どうなるのか。 …生ける屍のように一人、永遠を過ごさねばならないのか。
「御為ごかしもいいところだな…。 ティモ……パラケルスス」
まだ慣れない呼び名をぎこちなく紡ぎながら、ブルーノの唇には呆れたようでいて、冷たくはない微笑がある。
これ以上、胸の奥の疼きをそそけ立たせることで、穏やかな温もりを壊してしまいたくない―――その思いは、繋がっているのかもしれなかった。
「結局、お前は自分が傷つきたくなかっただけだろう。
お前とともに永遠を生きる―――そう言った、私の言葉を信じられなかっただけなんだろう」
否定することはできなくて、赤毛の男は小さな苦笑だけを落とすと、幼なじみを抱きしめる腕に力を込める。
永遠を分かち合う、その重すぎる意味を充分に理解したうえでなお、手を差し出してくれたブルーノ。
その覚悟を決して、軽んじていたわけではない。 …ただ、年若い少年の言葉を信じきるには、パラケルススはあまりにも多くの人間を見すぎた。 ゆえに、知りすぎていたのだ。
時の流れの中で必ず移ろいゆく、人間の心の脆さを。
(……でも。 今にして思えば、確かに)
それも言い訳だ。 真剣に向けられた想いから目を側め、結果として踏みにじったことに変わりはないのだから。
「……そう、だね。 御為ごかしだ。 ……俺は、ただの臆病者だ」
―――おずおずと、どこか手探りに似た慎重さで、白い手がブルーノの髪から、頬、顎にかけて触れてゆく。
なにを求められているのかは、その指先の熱でわかった。 ブルーノはあえて拒まず、パラケルススの頭を半ば強引に引き寄せた。
「………ン、ッ」
おびき出した舌の先に軽く歯を立ててやると、驚いたようにパラケルススの喉が攣る。 いくらかの優越を気の済むまで貪ってから、余韻のわだかまり始める前にブルーノは唇を離した。
「……、巧い…ね。 ……まいったな、また妬けてくる」
「貴様が路頭に迷わせてくれたおかげで、色々な場所で色々な経験積んでこれたってだけの話さ」
さして面白くもなさげに鼻を鳴らしたものの、うっすらと色づいた菫色の双眸を至近距離に見るうちに、胸の奥が奇妙なざわめきに乱されるようで、銀髪の錬金術師の視線はにわかに泳ぐ。
―――こんなキスの一つや二つで、ほだされると思われちゃたまらないからな。
小声で口篭もりながらの伴侶の強がりに、ふっとパラケルススは頬を緩め、ささやく。
「なら……これからは、君が俺を絆(してくれる?」
と。
「ずっと、君に繋いでおいて。 臆病な俺が……もう二度と、どこへも逃げ出せないように」
俺の帰りたい『家』は、いつでも君だから。
瞳の先では、新たに岩の裂け目から細く滲み出した水の筋が、ゆっくり、先の流れに合わさろうとしていた。
…ブルーノは果たして聞いていたのか否か、ぼんやりと泉を眺めているだけだったが、やがてローブの下から指先を覗かせると、パラケルススの身体の前で編みこんで垂らしてある赤褐色の髪を弄び出す。
ブルーノ? と怪訝な声が背後で聞こえるのに構わず、銀髪の男はおもむろに三つ編みの尻尾を引っ張った。
「痛…! なにすんの!」
「……地毛か」
「地……って酷いな、当たり前だろー。 俺、爺さんの姿になったときも毛だけは潤沢にあったじゃないか」
「そうだったか? …まあ、いい。 地毛なら……」
するりと指をほどき、相変わらずパラケルススには背だけを見せたまま。 独り言のようにブルーノは呟く。
「―――手綱としちゃ悪くない……と思っただけ、だ」
一瞬、きょとんとまばたき、少しばかり遅れてその意味を理解するに至り。
銀色の頭をわしゃっと抱き竦めるや、嫌がられるのも意に介さず撫でくりしながら、赤毛の男はくつくつ笑った。
「ホント、君って……や、もう最高。 ブルーノ最高。 ダイスキ」
スキスキスキ、と主人に懐く犬っころよろしく鼻面で張り付けば、ブルーノはげんなりした様子で渋々ながらも、三つ編みの男がその児戯に飽きるまで好きにさせてやる。 …それが可笑しいやら嬉しいやら、パラケルススはなかなか引かない顔面の緩みを苦労して収めてから、
「ありがと、ブルーノ………愛してるよ」
吐露したのは正真正銘、まっさらな本心だった。
―――途端、びくっと全身をこわばらせたブルーノには、「……それ、ヤメロ…」と瀕死の蛙(のごとき、くぐもった呻きを返されただけだったが。
「……露骨に鳥肌立てられると傷つくなぁ。 俺に好きとか愛してるとか言われるの、そんなに気持ち悪い?」
違う…、と言いかけて一旦は振り向いたブルーノだが、そこで困ったようなパラケルススの微笑に出くわすと、ぴたりと言葉を飲み込み、信じられないものを見る目でまじまじと凝視した。
と、その瞳にみるみる呆れと苛立ちとがない交ぜに濁っていったかと思うと―――もぎ取らんばかりに視線を外し、ふたたび背を向けてしまう。
「………貴様、わざとか。 ……それとも本気で分かってないのか、どっちだ…」
「ブルーノ…?」
地を這うような低音をわななかせるブルーノ。 …その表情には、怒りとは異なる赤みも差していて。
「……察しろよ! 私が覚えてる貴様は、まだ変声期も終えてない、ティーンのガキなんだよッ!!」
しまいにはヒステリックに喚かれて初めて、パラケルススは自身の背格好をかえりみた。
ブルーノの記憶の中の、まだ幼さを残す15歳の少年ではなく、純然たる28の成人男性の体格、…そして、声。 それが、今の自分であることに。
…思い至ったら、急激な悪戯心が頭をもたげてきて、赤毛の男は意図的に声のトーンを低く抑えてみる。
「―――見知らぬ男から、いきなり熱烈に口説かれてる気分?」
「耳もとで喋るな……!!」
ぶわっと髪も粟立ちそうな勢いで、ブルーノが耳をふさぐ。 今度こそ辛抱たまらず、パラケルススは声を上げて笑った。
警戒させちゃってたんだね、ごめんね〜…と欠片も悪びれぬ口調で肩を叩かれて、まだかすかに紅潮したブルーノの眉間に、いよいよもって皺が寄る。
「何がおかしい!」
「あっはっはっは」
しばらく睨みつけてやったものの、なにがツボに入ったのか爆笑の止まる気配のない男はもう放っておくことにして、ブルーノは自分の衣類をぞんざいに羽織ると、持ち場に移動すべく立ち上がった。
生前の習慣とは侮りがたいもので、たとえ生きた血の通う肉体でなくとも、精神的に疲弊すると人間は眠気を覚えるものらしく―――今も、かりそめの眠りを手にするために。
身を切るような冷たさにもだいぶ慣れてきた凍土の上をひたひたと歩き出すと、笑いすぎて滲んだ目尻を拭いながらパラケルススが、「ちょっと待って、ブルーノ待ってってば」と追いついてくる。
「俺、もうひとつ大事なこと言い忘れてた。 君にもう一度会えたら、必ず言おうと思ってたこと」
「……寒い告白なら、もう唸るほど聞いたからいいよ」
「熱い告白と言ってほしいねぇ……って、そうじゃなくて。 違う違う」
一人ノリツッコミはひとまずそこそこに、赤い手綱の先をしなやかに揺らして歩み寄った男は、チェシャ猫めいた聡明な双眸を伏せて、そっと耳打ちした。
「――――」
ひた…、とブルーノの足が止まった。
「……『家』とやらは、私のほうじゃなかったのか」
「俺の『家』はいつだってブルーノだよ。
…でも、俺があのとき『家』を空けたせいで、君にも永い……本当に永い間、望まない旅を強いてしまったはずだから。
せめて今からでも、俺が君にとっての『家』になれればと思う」
ブルーノが黙りこくっていると、「やっぱり厚かましいかな…?」とパラケルススの声が曇ったが、父親のように深い慈愛のまなざしは、変わらない。
…これまでの長い年月における、あらゆる感情が交錯して。
もつれる舌で「すきにしろ」、ブルーノにはそう返すのが精一杯で。
ただ、地を見つめて立ち尽くすことしかできないでいる銀髪の男を、パラケルススは静かに抱き寄せて、ずっと伝えたかったのだというその言葉を、もういちど繰り返す。
知らない声。 知らない腕。 けれど……この温かさは、忘れようがない。
ブルーノが涙をこらえているときは、顔を見ずに抱擁だけをくれる。 …その癖も昔のままなのだと気付いたら、不意に泣きじゃくりたいような気分がこみあげて、ブルーノはパラケルススの肩に顔を押しつけた。
いまだ実感は泡沫にも似た軟らかさで、容易には像(を成しえないけれども。
……ようやく、帰ってこれたのだと感じた。
無心に手を握りあった、なにもかもが満ち足りていた、あの頃へと。
「…………ただいま」
<Fin.>
「Welcome back」=「おかえり」
…ということで(どういうことだ)、後書きです。
タイトルは、パラケルススに戻ったティモシーがブルーノに対して言ってくれたらいいなぁ…と思う言葉です。
一人ぼっちで何百年もの旅を生きてきたのはブルーノも同じだし、
「ただいま」より「おかえり」の方が、より温かく包み込んでくれる言葉のようなニュアンスがあるので。^^
初挑戦のパラブルをER企画に投稿という、なんだかとてつもなく無謀な暴挙をかましてしまったわけですが、
主宰者様には寛大に受け止めていただき、心より感謝しております!
二度は書けないCPだと思った結果、書きたいことをゴチャゴチャ詰め込みすぎて主題があやふやという
本末転倒っぷりながら…ツンデレブルーノと変人気味パラケルスス(My設定)、楽しく書かせて頂きました♪
ここまでお読みくださった方へ、最大限の感謝を込めて! 有難うございましたーっ!!(平伏)
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