視界が慣れるだけの僅かな灯りさえもない闇に身を浸していたのは、ほんの数秒だったのか、それとも。
 ぱたり、と、天井から落ちてきた水滴が回廊の床に跳ね返り、密やかに静寂を震わせた。
 目を閉じて、まどろむようにじっと温もりを味わっていたゲオリクの意識が引き戻される。
「………、」
 同じようにダッシュウッドも我に返ったのか、きまり悪げに身じろぎした。 腕の中の身体が至近距離で動いた瞬間、忘れかけていた鉄の匂いがかすかに鼻をつく。
 ごく、とまたしても喉に渇いたざわつきを覚え、ゲオリクは理性の働くうちに抱擁を解いた。
 離れた身体の狭間に流れ込む空気を冷たいと感じるのも、きっと今の自分が完璧にいかれているせいだ。
 せめて飢渇をやり過ごそうと唾を飲み下す。 そこへ、大丈夫ですか…? と遠慮がちな小声がかけられた。
「…構うな。 少し、気分が悪くて…胸焼けがするだけだ」
 今はそんな気遣いも煩わしく、そっけなく繕った適当な言い訳を、ダッシュウッドが疑った様子はなかった。
「無理に我慢しねえで。 あまり酷かったら、吐いちまったほうが楽になりますぜ」
 やんわりと含めるような声や、ゲオリクの背をそっと撫でさする手のどこにも、下卑た他意は見えない。 純粋に心を砕いている態度だ。 座りの悪さを感じて、ゲオリクは軽い皮肉の形に口端を上げた。
「今ここで吐いてみろ? お前の膝の上にぶちまけることになるぞ」
「…? 旦那になら、それくらい別に平気ですよ、オレ」
 旦那ので汚いもんなんか、何もありませんし。 さも当然のように、なんでもないことのように、さらりと豪語したダッシュウッドの表情には怪訝すらある。 旦那が苦しんでるときに、どうしてオレがそんなことを気にするのか。 そう問いたげな瞳の直情ぶりに、ゲオリクは返す反応も失って絶句するしかなかった。
「………あー、灯り、つけますね。 ちょっと待っててくだせえ」
 返答どころか相槌まで途切れたことで、なにか失言したものと危ぶんでか、男の話題はぎこちなく脇のカンテラへと逸らされた。 カチン、と小気味よい音の幾度目か、生まれた火種を受け取って、淡い光は再び命を得る。
 ランプに蓋をする刹那、輝きは視界の真ん中の、葡萄色の髪をひときわ真っ赤に染め上げてみせた。

「―――ピジョン・ブラッド…? 何ですか、それ?」

 薄れかけた遠い思い出の切れ端が、思いがけず手の中に落ちてきたのは偶然か。
 ダッシュウッドに首を傾げられて、ゲオリクは己の無意識が胸のうちの呟きを声にしていたことに気付いた。

「、なんでもない。 独り言だ、忘れろ」
「……そんな風に言われたら余計気になりますって。 何のことッスか、そのピジョン・ブラッドって?」
 はっと口をつぐんでも、記憶はことさら鮮明に蘇ってくる。 目の前にいる男の姿と、二重写しになって。
 身を乗り出すようにゲオリクの顔を覗き込む、ダッシュウッドの視線を避けるため……というよりは、その髪の色から自らの意識を背けるために目を伏せて、ゲオリクはゆっくり、ゆっくりと嘆息した。


「…物心つくかつかないかの年の頃、父の書斎で石を見つけたことがあったんだ。 吸い込まれそうに、深い……まるで血の泉のような色をした、赤い石だった。 宝石など硝子と区別がつかなかったのに、それだけは何故か奇妙に惹かれるものがあった。 後で父に尋ねたところ……『鳩の血(ピジョン・ブラッド)』という名の石だと教わった」
「…ひょっとして、紅玉の中でもとびきり高っけぇとかいう、あれのことですかい?」
 宝石の価値には興味も知識も持ち合わせのないゲオリクは、おそらくはな、とだけ頷き、先へと言葉を繋ぐ。
「子どもらしく馬鹿丁寧に解釈して、鳩の血が入ってるんですか? と訊いたら、父は笑って、そうだと答えた。 …彼にしてみれば幼児の感性を尊重した冗談だったのだろうが、ガキの俺はこれまた馬鹿正直にそれを鵜呑みにしてしまった。 ―――生き物の一部を切り取って作った器。 そう考えると特別に美しい、不思議な宝に思えた。 父に無心してそれを貰ってから、ずっと大事に持っていたものだ。 …何年後かに単なる石だと知るまで、な」
 ぽつぽつと独白めいた口調で話し終えると、黒髪の伯爵は僅かに上げた視線をダッシュウッドと合わせた。
「今、灯りにあおられたお前の髪を見て……急にそれを思い出した」
「…へ?」
 聞こうと望めどもめったに聞けないゲオリクの幼少時代のエピソードに、微笑ましさと期待が半々の気分で耳を傾けていた男は、いきなり引き合いに出されたことに驚き、どぎまぎと紅い髪を掻きまぜた。
「…そ、そんな…上等な宝石なんか連想してもらえるほど、大それたもんじゃないッスよぉ。 しかも、旦那が大事にしてたような―――」
「馬鹿か、お前は。 …俺の話をどう聞いていたんだ?」
 低く吐き捨てられた声に、揶揄はない。
 ゲオリクの美貌を暗く歪ませているのは、苦々しげな自嘲だった。
「…俺にとって、ピジョン・ブラッドは『上等な宝石』などではない。 『生き血を収めた容れ物』だ。 …お前をあれに結び付けたということは、……今の俺の目には、間違いなく、お前があれと同じように映っているということだ」
 人間を血肉だけで捉えているのかと、いつかお前を罵ったのはどの口だろうな。
 一言ごとにダッシュウッドを取り巻く、浮ついた空気が収斂していくのを感じる。 それが、訳もなく息苦しくて。

「……俺は、もう、とうに壊れているのかもしれない、お前たちよりも余程……」
 俯きながらもゲオリクは、唇がひとりでに動くような感覚に任せて微笑し、畳み掛けるように喋り続ける。
 やり場のない閉塞感を、そうすることでしか紛らわせる手立てがないとでもいうように。
「今の、悪夢のような現実もすべて、あと少しで終わる。 そうと信じて日々を過ごしている。 …だが、その終焉に近づいていくたび、何か別の……得体の知れない暗闇が口をあけていて、その奥へ踏み込んでいくような感覚が強くなるんだ。 ……血が甘い、そう感じるだけで俺はもう異常なのに、この上、まだ何かが―――」
「旦那」
 熱病に冒される病人の譫言(うわごと)のごとく、一方的に声を絞り出していたゲオリクを、不意に温かな感触が包んだ。 いつしか細かく震え出していた肩を落ち着かせるように、そっと掴んできた両の手はひどく優しい。
「…旦那は妹さんのために、一人で必死に頑張ってるんじゃあないですか。 それは悪いことでも、ましてや異常なんかでもない。 …輸血でいつも血が足りてねえなら、身体がそれを補おうとして血を欲しがるくらいは当然の反応ですよ。 人によっちゃあ生来、血が薄くて、常にそういう衝動を持病みたく抱えてるケースもあるんスから。 旦那だけがおかしいなんてこと、ありません。 絶対に」
「…吸血病、とかいうやつか。 …俺もそれだったらまだ良かった、なんて思うのは不謹慎だろうな…」
 男の静かな声と手のひらに不思議な心地よさを覚えながら、ゲオリクは力なく微笑んで、見つめ返した。
 ダッシュウッドの言葉は彼なりに真剣なのだろうが、所詮は蚊帳の外の他者だ、気休めでしかない。 けれど、まっすぐに見据えてくる瞳の強さは本物だったから、今度は目を逸らすことはしなかった。
「……ねえ、旦那」
 ゲオリクの苦笑を見上げたまま、男はそう呼びかけたきり、言葉を切った。 この意思を果たして、口にすべきか―――決めあぐねているような逡巡が伝わってくる。 ゲオリクはかすかに双眸を眇める仕種で先を促した。 噛み締めた唇を解き、無言でまた噛み、を幾度か繰り返したのちに、男は低く、しかしよく通る美しい声を紡いだ。
「旦那。 ……死ぬのが怖い、って思うこと…あります?」
「…なん、だ? 藪から棒に…」
「答えてください」
 しん…と透明な声色。 ダッシュウッドに表情はなかったが、眼差しは瞞着では(かわ)せない深さをたたえている。 いくぶん気後れしてか、歯切れの冴えない応えを寄越すゲオリク。
「……、ない、な。 例えあったとしても、竦んでいられる余地が俺にはない。 ―――リリスは俺なんぞよりも常に死の気配を近くに感じ、脅かされているはずだ。 それを思うと、俺が恐れてなどいられない。 …否、そのことは別にしろ俺は、死をもってしても贖えぬ罪をいくつも負っているのだから」
 死を厭えるだけの情状など、この身にひとつも赦されてはいまい。
 沈鬱な面持ちで告げるゲオリクに、「旦那ならそう答えると思ってましたよ」と、男はひどく辛そうに苦笑した。 旦那は強くて、誇り高いお人ですから。 琥珀色の瞳が翳りをはらむ。
「……オレは、死ぬのは怖いですよ。 こんな商売してますけど、…だからこそ、怖いです。 死にたくねえ一心でどんな汚い仕事でもしてきたし、これからも這いつくばって泥水すすってでも生き延びてやる、って思う。 …元々オレは泥まみれだったから、今更そうなることに躊躇いなんかありやせん。 ……でも……旦那みたいに、好意で他人に手を差し伸べられるような、綺麗な人は違う」
 ゲオリクは眉を顰め、しばたいた。 ダッシュウッドの言わんとしていることが分からない。 返答を待つつもりはなかったのか、男の言葉は肺の中の息を入れ替える間だけを挟んで、続く。
「正直、ね。 今の旦那を見てると、ハラハラして仕方ねえんスよ。 …死への恐怖心をねじ伏せる強さって、時にとんでもねえ無謀に変わったりもする。 ……そして地獄の火クラブは、この世でもっとも死に近い場所ですよ」
「…お前に無謀を心配される筋合いはないな。 ついさっき、俺のためなら命でも投げ出すとほざいたのは誰だ」
 訴えの意味を遅まきながら解して、苦笑混じりにゲオリクの反論が割り込んだ。 ダッシュウッドはゆるりと首を振る。 自身のために命を捨てることと、大切な誰かのために命を使うことはまったく別物なのだと。
「―――死ぬのを恐れるな、とは絶対言いませんよ、オレ。 むしろその逆で、…何て言やあいいのかな、『死を恐れる自分』を怖がらねえでほしいんです。 そのためなら、オレをもっと酷く利用してくれたっていい。 それが…闇の世界で生きていくための術だから」
 ひとつひとつ、意識の底へ語りかけるように言葉を発しながら、両腕をゲオリクへと伸ばす。 その動きはあまりにも自然な流れを汲んでいて、ゲオリクに身構える警戒を与えなかった―――瞬間、強く抱き寄せられた全身がぎくりと凍てつく。
 密着すれば、身体の奥へと沈めていた飢えはあっさり息を吹き返して、たちまちのうちに疼き始めるのだ。
「旦那、血が足りてないんですよね。 …足りてないせいで、こんなに危なっかしくなっちまってるんですよね?」
「ダッシュ……っ」
 これ以上、浅ましい醜態を晒させないでくれ。 後じさろうとする長身を引き止めるように、男はゲオリクの頭部を自らの首筋に抱え込み、押し付けた。 故意に血の匂いへと近づけさせるも同然の動きだ。
 こいつは一体、何を―――?
 ゲオリクの狼狽とはまるで対称の、穏やかな声が耳のすぐ上から降りてくる。


「…オレの血、あげますよ旦那。 ―――舐めて、ください……」

 

 

 

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