()っちいー……」
 首筋と腕を露出させた温暖期向けの装いでも、さほど放熱効果は得られないらしく、男は襟ぐりでぱたぱたと胸元を扇ぎながら、冷たい岩壁にくたりと身を投げ出していた。 締まりなく地べたに座り込んでいるように見える体勢の、しかし片膝をさりげなく立てて隠しているあたり、頭の中まで弛緩してはいないようだったが。
 蒼藍の眼が何の気なしに、を装って一瞥する。 首の噛み傷は既に跡形もなく消えていた、ゲオリクの懐にあるアクア・ウィータの一滴によって。 驚くべき効能と即効性に今しがたまで感銘をあらわにし、薬とよく似た色の瞳を輝かせる男を、可愛い…などとうっかり好ましく見てしまっていたせいかもしれない―――今、無傷の首筋の無防備さまでもが、やたらと目に付くのは。
「日頃、ところ構わず盛ってばかりいるからそうなるのさ。 懲りたのなら、普段から自重することだな」
「…他人事みてぇに。 旦那が半端に煽ったせいじゃないッスか」
 流石にぶすくれて唇を尖らせるダッシュウッドの頬が赤いのは、不機嫌による紅潮だけではなかった。 延々と生殺しのぬるま湯に溺れさせられ、肉体は否応なく完全燃焼を欲しがって騒ぐのに、黒髪の男は我が身だけでひとしきり満足したかと思えば、いつもの淡白さで『ごちそうさま』とばかりに放り出してしまったのだ。
 干だるい獣はなるほど腹を満たせば、それで事足りるに違いない。 しかし、その獣にただならぬ想いを抱く餌のほうはどうだ。 睦み合いと錯覚しても仕方のない歓楽に、いっそ一度くらい達してしまいたくて、けれど意識に根気強くしがみつく含羞が許してはくれなくて―――畢竟、食事を終えるや否や身を起こしかけたゲオリクの腕に慌てて取りすがり、「待ってくだせえ……今、歩けません」などと、恥ずかしい白状をせねばならない始末だ。
 ダッシュウッドの訴えももっとも、という決まりの悪さからか、あるいは単にこの男なしには目的地に辿り着けぬ実情ゆえか。 どうとも悟らせない態度でゲオリクはひとつ肩をすくめると、赤毛の男とカンテラを挟み合う位置へ腰を落とした。
 その貌は既にいつもの、済ました湖面のような空気をまといつつある。 補った血気が沈着をも取り戻してくれたらしかった。 闇へと続く道の先に視線を投げるゲオリクの涼しい無表情を、乱れた前髪の隙間から掠め見ながらダッシュウッドは、やはり若干、恨めしい気分になる。
 …自分は別に、ひもじくなどはない。 どこかが飢えて、渇いているとすれば、それは……今の今まで切なげに抱きしめてくれていた、荒々しく求めてくれていた、彼の腕の熱さに…だ。
 (―――熱、さ?)
 はっと双眸を開いて、ダッシュウッドは思わず、隣の男を凝視する。
 食い入るような視線に気付いたゲオリクが振り返り、琥珀の瞳とぶつかると、その白皙はたっぷりと思うところありげな様子で、薄く相好を崩した。
「なんだ、その顔……えらく物欲しそうな。 …俺に何かして欲しいのか?」
 え…、と面食らう男の双眸から、首、胸…と舐めるようにゲオリクの目線が撫で下りていき、熱の残滓の滞っているであろう箇所へ行き着くと、すっと細められる。 刹那の、際どい野性味を見え隠れさせて。
「…充血、しているんだろうな……さぞや。 ……今なら、銜えてやるのも難しくなさそうだ」
 艶麗に舌を舐めずってみせる、美しい魔物の笑み―――と映ったのは、きっと錯視だ。 ただ、それを生むのが揺らめく灯りか、はたまた心の奥底の過剰な期待なのかは分からないが、とダッシュウッドは、妖しげな挑発を吐く黒い獣を見つめ返し、苦笑した。
「…ここを噛まれんのは、流石にご勘弁を………しかし、旦那にしちゃあ珍しく生々しいジョークですね」
「そうか? …お前の血なんぞ貰ったから、下品が伝染ったかもな」
「そりゃねえッスよ旦那ぁ…」
 他愛もない応酬に、二人してくつくつ笑う。 不思議なひとときだった。 あの地獄絵図のごとき黒ミサの総本山、結社を目指しているはずの道すがら、先刻までの重い緊張感が嘘のような、この穏やかさはどうしたことだろう。 自然体で笑える感覚に、ゲオリクは本心からの懐かしさを覚えた。 もうだいぶ長いこと、こんな風に憎まれ口でからかう相手も、品のない冗談で笑い合える相手もいなかったように思う。

「でも……ホッとしましたよ。 旦那の身体がちゃんと元どおり、あったかくなってくれて」
 さっきまではすっげぇ冷えてて、こりゃ只事じゃねえって、心配しちまいやしたぜ。

 ―――言いながら頬に触れてきたダッシュウッドの手の感触に、一瞬、どう反応したものか判断つきかねて。
 いつもながら行動の唐突な男の、ひどく切なる物言いとまなざしが、にわかな困惑をゲオリクにもたらす。

「これからは寒くなったら、いつでも呼んでくだせえ。 …ご覧のとおりお世辞にも綺麗じゃないし、触り心地なんか特に最悪ですけど、暖を取るには問題ないと思いますから。 不肖ダッシュウッド、誠意を尽くして旦那の毛布を務めさせていただきまさぁ」
 ね。 ゲオリクの瞳を覗き込んで、和やかに笑む。 なにがそんなにも喜ばしいのか、訝しく感じるほど屈託なく。 こいつお得意の軽口がまた始まった、そう受け流すのも容易いはずだったのに、何故か。 …とても離しがたい、離してしまってはいけないもののように思えて。
 カンテラを脇にのけ、空いた隙間を素直に『毛布』でもって、埋めてみる。
 首元に顔を近づけても、あのぞくぞくするような血の香りはもう、しなかった、けれど。

「……そう、だな。 ……お前は、…あたたかい、な…」
 まだ戸惑いがちの両腕でかき抱きながら、ゲオリクはうっすらと睫毛を伏せて、呟く。
 手のひらに伝わる、確かな温もり。 …こうして他人の体温をはっきりと、愚直に意識したのは何年ぶりだろう。 王宮での二度目の職を退き、研究に没頭したこの数ヶ月に至っては、普通の人間と触れ合うことすら稀有だったのだ。
 ピジョン・ブラッドは小さな骸のように冷たかった。 …この男は温かい。 同じ『血の器』でも、こんなにも対極だ。
 そして、おそらくは―――これこそが、命あるものの証。
 赤子でも本能的に知っているはずの、当たり前すぎる事実から、この身はどれほど遠ざかっていた?

「温かい、でしょ。 …へへ、オレね…昔から平熱が高いらしくて、」
 皮肉のない、少しぎこちなくもまっさらな、触れ合い。 それには驚き以上に嬉しさが先立って、ダッシュウッドは知らず知らずのうちに、常ならば衣服のごとく自然にまとえているはずの、最低限の構えまでも解いていた。
「冬場とか、重宝されたりもしたんスよ。 おかげでリュースにも、いつまでもガキ体温だって馬鹿にされ―――」
 何気なく口にしてしまった名前に、はっと言葉を切ったが、いったん取りこぼしたものは戻らない。
「…リュー、ス?」
「あ…、いえ。 個人的な知り合いの奴の名前で……」
 咄嗟に拵えた笑顔のポーカーフェイスの下、ダッシュウッドは己の失態に舌打ちしたくなった。 数時間後には同胞になるとはいえ、今はまだ部外者のゲオリクの前で、よりにもよってあの保守的な会員の名を出そうなど。 あとで悶着の種にならないことを祈るばかりだ…、と、結社の一員である男は立場を思い出し、緩みきっていた気分をやにわに締め直した。
 数秒、ゲオリクの表情が思案の色に翳った。 聞いたことがあるようなないような…と曖昧な記憶を辿り、しかし応えを見出せなかった思考は、代わりに別の、胸の底にずっと澱んでいた、靄のような引っかかりを爪繰る。
「…以前、言っていた女性のことか?」
「? 女性……と仰いますと」
「王宮でお前と会ったときだ。 話していただろう、花に例えて」
「……あ」
 それで合点を得たように瞬いてから、ダッシュウッドは慌ててゲオリクの、らしからぬ詮索を否定した。 あの星の一夜のあらましは、今も鮮烈な思い出として記憶と手のひらに熱く焼きついているが、―――いささかゲオリクの行動が鮮烈すぎて、自身が語った与太話などの微細はすでに霞んでしまっている。 …のもあるけれど、まず意外だったのは、そんな瑣末な言葉がゲオリクの中に、いまだ形を残していたという事実。
「いや、あの話の人とは全然無関係の奴でさ。 …そりゃ確かに、男にしとくには勿体ねえ美人スけど……って、んなこたぁどうでもいいですけど! …あー、その…」
 一度しくじると、それからも蹴っつまずく癖がついてしまうらしい。 何をいらねえことまでぺらぺら喋ってんだ、と内心で頭を掻きむしった。 気まずさもあらわに視線を泳がす男の相貌をひたと見据えたまま、ゲオリクの眉根が微かに、ひそめられる。
「話しにくいことなら、無理に話せとは言わん。 俺も別にそこまで興味はない」
 突き放すかのごとく感情の篭もらない口調に、ダッシュウッドの心が少しだけ沈降した……次の、刹那。
「ッ、…!?」
 ひゅ、と音をなさない悲鳴があがる。 …先刻まで餌食になっていた、そして今はもうないはずの傷の部分へ、ゲオリクの滑らかな唇を押し当てられ、跡の残りそうな強さでもって、吸われたために。
「……ただ、な。 俺しかいないこの場で、俺の知らない男の話を持ち出すな。 …気分のいいものじゃない」
 幾度か、そこに残る余熱を咀嚼しながら、黒髪の伯爵は不遜に言い放つ。 その、不快を持て余しているのが明らかな眼光ははじめ、ダッシュウッドを当惑させた。 言われた意味をよくよく吟味してみて、戸惑いは驚きへと変わり、―――しまいには、気恥ずかしさを伴うほどの歓喜を呼ぶ。
「…旦那……そんな、可愛いこと言わねえで。 …襲いたくなっちまいますよ……」
 今のゲオリクの言動は、さも己の知らないダッシュウッドの交友関係を勘ぐる、嫉妬の発露であるかのようだ。 今度こそおめでたい妄想の勘違いではない、今のは誰が聞いても、そうと聞こえるに違いなかった。
 昂揚してゆく愛しさを抑えられない。 目前の丹花の唇に許されているような心地さえ感じて、ダッシュウッドはほとんど無意識のうちに、口付けを試みた。
 ゲオリクに、抵抗のそぶりはなかった。
 眉ひとつ寄せることもせず、すんなりと、男の唇を受け入れる。 どころか―――

「…、んッ…、…ぅ……っふ、」
 情の薄そうな、常時の鋭い気高さとは真逆の苛烈をむき出しに、差し込まれる舌を捕らえ、口腔を蹂躙した。 熱っぽい吐息が絡み合う中、ふと脳裏をかすめたのは、いつだったか何度だったか、この唇と交わした感触。
 …あの時とは比べようもなく、甘い、柔らかい、離したくない……嗚呼、また血の後味にかき乱されている。
 狂おしい衝動の波が和らいで、ゆっくりと口付けを解くにも、たまらない名残惜しさがつきまとった。 さして寒くもない地下回廊で、しかし触れる温度をなくした身体の内側は、震えながら貪欲に先を希求する。
 視線を吸い寄せられれば。 縫いとめられた羽虫の、対なる琥珀色の奥に、悦楽を乞う自分の姿が見えた。


 今、この場でいい。 この男が……、


 欲しい―――と。
 呆然たる思いでゲオリクは、胸に灯った感情の吐露を聞く。
 突発的な気の迷い、とも違う、もっと意識の深淵に根ざした、確かな手応えをそこに感じて。

 …闇の世界の住人、なのだ。 好んで関わりたい人種では、決してないはずなのだ。
 なのに、どうして。 …これも或いは、一部を欠いた不安定な身体が闇雲に吐き散らす、欲望なのか?


 地に組み伏せた、いつの間にか組み伏せていた男の上から退くと、ゲオリクは石壁に背を投げ出すように荒く座り込んだ。 深呼吸とも喘ぎともつかない吐息をひとつ。 くしゃくしゃと黒髪をかき回す似合わない仕種の中で、蒼い双眸が混乱に揺らいでいた。
「……旦那?」
 上体を起こしながら、訝るように上げられるダッシュウッドの瞳。 それと交わるのを避けた方向へ俯いたまま、ゲオリクはただ黙然と佇む。 今、真っ向から向き合っては、おのが理解を超えた激情に流されていきそうで。
 感情が、意思の及ばないところで動き出している。 …否、もはや、当の昔に変わり果ててしまっていたのやもしれぬ、自分で気付かなかっただけで、―――気付こうとしなかっただけで。


「………悪かった…、な」

 浅くついた息に紛らわせて、ようやく一端を引きずり出せたと思えば、味気のない謝罪だ。
 心を覆うこの霧が晴れたら、そこには―――。 …漠然とした懼れはあったが、目を逸らすな、と言い聞かせた。

 

 

 

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