「……さっきは、…その。 …悪かった」
―――結局、お前のことを『餌』扱いして。
不器用に繰り返し、口の奥で詫言を転がしながら、ゲオリクはいよいよ渋面を深める。
ぶっきらぼうな、しかし端が震える声色は、紛らわせようのない内側の揺らぎをも伝えてしまっているだろう。
痛感しながらゲオリクは、押し殺す吐息の狭間で、懸命に言葉を探した。 違う、違う、こんな薄っぺらな場繋ぎはいらない。 告げるべき思いは、もっと深い心の底に。
…それだけは、はっきりと分かっているのに。
喉奥からこみ上げてきても、唇を通らずわだかまる。 望む形になってくれないまま、胸をたゆとう、情念。
「生き甲斐、ってヤツですから」
歯がゆさにたまりかね、瞑目するゲオリクの意識を呼んだのは、やはり前置きも何もない、唐突な声だった。
翳りがちになる空気を少しでも浮上させようとしてか、晴れやかに明るい笑顔がそこにある。
瞼の裏の暗がりが開けた刹那、―――ランプの淡い光を溶かし込んだ琥珀色は、小さな小さな、陽だまりに見えた。
「…生き甲斐……」
「そう。 今、こうして旦那といられるから、汚れた仕事でも続けてきて良かったって思えますよ。 ……この世界に生まれてこれて、ホントに良かったって。
旦那に出会って、初めてそう思えるようになったんです。 旦那の存在そのものが……今のオレの生き甲斐。 だから、謝ったりなんてしねえで」
魅入られたかのようにまっすぐ、その瞳を見つめ返しながら、ゲオリクの中で、静かな波紋が拡がってゆく。
生き甲斐。 この世界に生まれて、良かったと思える。
ダッシュウッドの、着飾らぬ裸の言葉たち。 それらが幾粒もの雫となって、さざめきを起こす。
男は血の躍動を、鼓動を感じさせた。
離れて久しい生命の感触、違わぬぬくもりを思い出させた。
そして、生き甲斐を持っているのだと微笑んでみせる。 この世に己があることの充足を、臆せずに肯定する。
―――では、自分は。
その血を啜り、それによって、かりそめのような温かさを繋ぎ留めようとし。
生き甲斐とは何だ、生の実感とはどこにある。 …我が身に問うてみても答えの得られない、今の自分は。
「俺は、今、ここに………本当に『生きている』、のか……」
例えるなら、刑の執行を待つばかりの死刑囚とでも言うべきか。
生きる目的と呼べるものは今や、妹の肉体の復元を遂げることのみで、それを達成した瞬間、この身は契約により悪魔に魂を捧ぐ。
罪状という鎖に繋がれ、閉ざされた牢の奥で生なき生を送るのと、どこにも大差はない。
解れぬ鬱結は、決して立ち止まることの許されない日々の中、じわりと無意識を侵食してゆく、緩やかな絶望が形を変えたものなのかもしれない。
ホムンクルスの血にまみれながら、妹の四肢の縫合―――というよりは、ほとんど大掛かりな裁縫だ―――に明け暮れる間、生きている実感など一度として沸いてきた試しがあろうか。
僅かばかりの背徳の歓び、あとは荒涼とした、なんとも言いがたい虚しさ……人形のような少女の身体が元の形を取り戻してゆくたび、ゲオリクの空洞じみた胸に去来するのはそれがすべてだった。
俺は、生きているのか。 …生きていると誰が断じられるのか、このがらんどうの命を。
虚ろな視線の先、怯えるように細かく痙攣している、自分の手。
自ら作り上げた分身ともいうべき生命体の首を、躊躇なく落としたあの瞬間から、拭えぬ感触が残っている。
…苦しいわけではない、罪悪感もない、後悔すらしていない……けれど、だからこそ。
この手袋の下にあるものは、もはや、人の手などではなくて―――
「…っ…」
ふと、その手を包み込んできた指先に、ゲオリクは一瞬、息を呑んだ。
反射的に引っ込めようとして、柔らかく、しかし思いのほか強い握力によって引き止められる。
「すみません、旦那。 …ちょっと、いいッスか?」
変な真似はしませんので。 安堵を誘うような、おどけた笑みを作りながらダッシュウッドは、まるでゲオリクの胸のうちをそのまま汲み取ったかのように、手袋の口へと指をかける。
そっと抜き取られたのは、ゲオリクがいつも見ているとおりの蒼白い手。 生き物の温度を感じさせない、それ。
刹那、男は眩しげに目を眇め、暗闇に見出した光明を守るように両手で握りしめ……そして、仄白く乾いたその手のひらを、ゲオリクの頬に優しく押し当てた。
饐えた臭いの漂う地下道の冷気に晒され、色をなくしていた肌が、ゆるゆると快い熱を吸ってゆく。
温かい―――そう感じたとき、反対側の頬にはダッシュウッドの手のひらが添えられていた。
「どうですか、旦那」
「………温かい」
「でしょ?」
へら、と相好を崩してみせつつも、まろやかな低音の声は、真摯な響きを失ってはいなかった。
「オレのが体温は高いかもしれませんけど、そんなもん、ただの体質ですから。 旦那だって、ちゃんと生きた血が通ってる。
旦那の温かさならオレ、身をもって知ってるつもりなんで……いろんな意味で、ね」
自分で言っておきながら、含ませた意味にやや顔を赤らめ、照れた目線を右往左往させる男。
ゲオリクはやっと愁眉を開いた、と見えるように小さく、微笑んだ。
否、微笑もうとして失敗した、無様な苦笑になってしまっていたかもしれない。
「……お前の、血だ。 あたたかい、のは、俺ではなくて」
強引に削ぎ取った、お前の生命の一片なんだ。
手袋をはめたままの手のほうで、頬に触れるダッシュウッドの手を外させながら、言外に告げた。
渇きすぎた心が、交われない温もりと分かっていても、身を委ねたくなってしまう前に。
元どおりまた手袋に手を通すゲオリクを、男は痛ましげな瞳で見つめた。
慣れきった手つきで、汚い何かを隠すように。 かたくなに素手では他者と触れ合おうとしない、孤独な獣を。
「…罪なんて、地獄に堕ちてからまとめて償えばいい。 オレは、そう覚悟して生きてますよ」
旦那だって、そうでしょう?
呼びかけられて顔を上げたゲオリクは、わずかに瞠目していた。 …何が自分を憂えさせ、そして本心の底ではどんな言葉を欲しがっているか―――。
この男には、何もかもが筒抜けなのか。
蒼い双眸を正面から捕らえる、その表情にはいつものように、不敵な微笑を薄く湛えて。
ダッシュウッドは慎重に言葉を選びながら、唇を開く。 ゲオリクの奥まで、確かに届くようにと。
「…誰かを殺して、その犠牲の上に生命(を繋いでく。 そうやって世界が循環するものだとしたら、人間の身体があったかいのはきっと、血まみれだから。 ……人間、生きてりゃ、誰しもそういうもんじゃないですか?」
すとん、と。
作りかけのパズルが最後のピースを得たように、男の言葉は驚くほど容易く、内側へと収まり、胸を占めた。
いつしか、霧が晴れていたことに気付く。 ―――己の中での彼の位置が、はっきりと変わっていたことにも。
無論、もっともらしくも支離滅裂な論理に基づいた、下手な慰めに心が動いたわけでは、決して、なかったが。
…この男は、『人間』と呼んだ。
禁じられた研究に手を染め、神に見放され、そして悪魔と契約を取り交わした……人の道に背いた男を。
『人間』と呼んだ。 ひとつの気兼ねもなく、疑いもなく、それが至極当然の事実だと言わんばかりに。
ダッシュウッドは知らない。
“悪魔憑きのザベリスク”の噂が、もはや単なる風評ではないこと。
今この瞬間も、闇に身を隠した悪魔がすぐそこで目を光らせている……などと、知る由もなかろうし、言ったところで一笑に付されるだけだろう。
だから、だとしても。 すべてを知ればこの男も、認識を改めざるを得ないかもしれない、としても。
―――医者でも伯爵でも錬金術師でも、ましてや、地獄の王とやらの魂の器としてでもなく。
何ら肩書きのない、ただの『ゲオリク・ザベリスク』を……認めてくれる誰かを、心の深奥でずっと、求めていて。
「………お前、に…」
「はい?」
「……いや、いい。 なんでもないんだ」
肩を貸してくれ、と手を差し出すゲオリクに頷いたダッシュウッドが、意に沿うべく傍らに屈んで、腕を肩に担ぐ。
…途端、ぐいと強く身体を引き寄せられ、男は否応なしにゲオリクの上へ倒れこみそうになり、慌てて腕を使っておのれを支えた。
「違う。 ……こういう、意味だ」
そのまま隣に座らされる形になったダッシュウッドの、もの言いたげな動揺の視線を無視して、黒髪の伯爵は男の肩口へ、すり寄せるように額をうずめた。
シャツを握りしめる指先が、小刻みに揺れていて……縋りつく赤子にも似た、懸命さを物語る。
およそ似合わぬ姿に驚きを隠せないながらも、ダッシュウッドは宥めるような優しい動きで、ゲオリクの内なる激情が去るまで、何も言わずに黒髪に手櫛を通してやっていた。
………お前に、もっと早く出逢えていたら。
こんな悪夢の闇がまだ蓋を開けていなかった頃、…こんな歪な関係ではなしに、普通の、対等の友人として。
それはいくら願おうとも詮なき、泡沫のような空想にすぎないのだろうけれど。
目を閉じて、じっと意識を注いでみる。 …するとダッシュウッドの心音と吐息、髪を撫でる感触だけが鮮明で。
雑音は、もう、聞こえない―――あんなにもかしがましかった、頭の奥からの囁き声も、血を欲しがる唸りも。
多少、冷静な思考の戻ってきた頭をわずかにずらす。 髪の隙間を滑る指先がびくっと硬直し、視界の隅に映る男の喉の、唾を飲む小さな音。
間近で動いたゲオリクの身体からの香りでも感じて、意識してしまったのだろう。
唇だけで笑うと、ゲオリクは男の服を掴んでいた指に、どこか卑猥めいた手心を加え、首筋をなぞった。
先刻の絡み合いを思い出してか、そこがひくりと震えて、艶のある呻きをたてた。
「……結社とやらでは、さっきみたいな真似を……誰彼構わず許してるのか?」
「ン……誰でもってわけじゃ…ない、ですけど。 ……サンドウィッチ伯爵は……血が大好きなお方ですから」
口ごもり、目を伏せながらも、あくまで応えは正直だ。
眉をしかめて苦笑したゲオリクが、舌を使っての濃厚な口付けを首筋に重ねてやれば、そのたびに男の息遣いは色を強める。
「…ぁ…」
「これからは……俺が相手のときだけにしろ。 ………お前は、」
この俺だけの、ピジョン・ブラッドであればいい。
唇の振動だけで肌に伝えて、ゲオリクは顔を離すと、壁に寄りかかる体勢に戻った。 …そのまま男の肩を枕にしているうちに、自然と瞼が落ちてくる。
どうせ、夜は長い。
あと少しくらいの時間なら、何者も咎めまい。 …否、咎めさせやしない。
今は。
今だけは。
この温もりを誰にも渡すものか。 俺だけのものだ―――。
薄く火照ったダッシュウッドの体温は、しっくりと馴染むような、酔い心地だった。
…なあ、あたたかい、ピジョン・ブラッド。
俺はきっと、色々なものが足りないのだと思う。 肉体だけでなく、生命力だけでなく、もっと根本的な何かが。
だから………少しだけ、分けてはくれないか。 お前の持っている、俺にはない『それ』を。
爵位にありながら贅沢だと、笑ってくれても蔑んでくれても構わないから。
―――どうか。
『生』の感覚が揺らぎそうになるたび、不安の翳りに冷えていくこの手を、この身体を………包んでくれ。
せめて俺がお前の言う、『生きている人間』でいられる、あと僅かの間だけでも。
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