毒を食らわば、皿まで。

 そんな言葉が意識の向こうで、音を立てて制御(フューズ)を弾き飛ばした。

 誘われたのは、果たしてどちらだったのか。

 

 


 

 

Sweet Trap. -side M-

 

 


 

 

「……なんだ、それは。 そんなことでいいのか?」
「…え……」
 不審もあらわなゲオリクからの応えは、しかしダッシュウッドの予想に反して、憤怒とも臆面とも程遠い、意外にも落ち着いたものだった。 今度は話を持ちかけた方が動揺する番、と呼ぶべきか……思わず不躾にも、まじまじと客の顔を覗き込んでしまったのも、或いは致し方ないことといえたろう。
「あの、…旦那。 えーっと……オレの言った意味、…通じてます、よね?」
 言ってから、しまったと思った。 まずい言い方だったかもしれない。 案の定、伯爵位の男は気分を害したように柳眉をひそめ、お前は俺を馬鹿にしてるのか、と無礼な物言いをする取立人を睨んだ。
「まったく……いつにも増してベタベタしてきやがるかと思えば、そういう了見か。 つくづく、分からん男だ」
「…そ、それじゃあ…」
 棚から牡丹餅、ならぬ、むしろ至上の宝石。 遅れてついてきたその実感に、ダッシュウッドの表情が少しずつほころんでいき……感激のままに、がばっとゲオリクの胸へ飛び込んだ。
「嬉しいですう、旦那〜! 優しくしますからねっ」
「……ぉ、っとッ…」
 咄嗟にその勢いを支えかね、よろめいたゲオリクは、バランスを保とうと思わず背後の棚の端を掴んだ。 無数に陳列された酒瓶がカタカタと揺れて、ひやりとさせられつつ、そちらの体勢も立て直してやる羽目になる。
「危ないだろうが! でかい図体して、こんなところで抱きついてくるなッ」
「へへ、すみません。 オレ、もう、嬉しくって……」
 ここぞとばかりに全身で歓びを体現して、すりすり肩口に額を擦りつけてくる男を、ゲオリクはやれやれと溜息をつきながら宥めた。 ほとんど犬にでも懐かれている気分だ。 さほど―――否、断じて嬉しくないが、その反面、常日頃のような不快感も、ゲオリク自身、不思議なほどに沸いてはこなかった。
「その代わり、だ。 今月分のチップは、きっちりチャラにしてもらうからな」
「ええ、もちろん。 むしろ、こちらからお釣りを払っても引き合うぐらいで……むぐっ」
 会話の合間にも口付けをせがんで寄せられた唇は、しかし無情にもゲオリクの手のひらによって阻まれる。
「待て。 …ここでは落ち着かん。 移動するぞ」
 相手の意見など期待せずとばかりに、言い終わらないうちに踵を返し、ドアの方へ向かうゲオリクを、ダッシュウッドは慌てて追いかけた。
「移動って、どこへですかぃ? オレは別に、ここでも一向に構いませんけど…」
「俺の寝室に決まってるだろう。 お前は良くても、俺が落ち着かないと言って―――ん?」
 がちゃん、と、回したノブが途中で止まり、ゲオリクの眉根が数分前の記憶を手繰るように寄せられる。
「…鍵なんてかけたか…?」
「あ、それさっき、オレがかけといたんです。 へへ、こんなこともあろうかと思いやしてね」
「……お前って奴は……」
 どうしてこう、くだらんことにばかり気が回るんだと呆れ果てながら、ゲオリクは内鍵を外し、ドアを押し開いた。 眩い照明は家主の好むところでないのか、控えめな明度に調節されたシャンデリアが、廊下やホール、そしてその奥にある階段に明かりを投げかけ、輪郭と影を縁取る。 コツコツとブーツの踵を響かせ、ゲオリクの後ろ姿は一歩一歩、ダッシュウッドにとっての未知なる空間へと、(いざな)ってゆく。
 まるで逡巡のないその背中に、男は正直、一抹の不安を覚えた。 …彼は、本当に理解しているのだろうか。 まともな常識の持ち主なら、懐柔されるにしても、その前にもう少しごねそうなものだ。 そもそも一介の取立屋、しかも男を相手に、そうも易々と脚を開いてくれるような、軽々しい人間にはどうしても見えないのだが……。
 階段を上り始めたゲオリクが、ふと、自分の背を見つめて佇んでいる男に気付いて、不審そうに声を荒げた。
「……何をぼんやりしている。 気が変わったわけじゃないなら、さっさと来い!」
「…へ、へい!」
 ―――されど。 嗚呼、されど。
 稀なる魅力的な麗人であることも、紛れない事実なのだ。 こんな人と一夜を共にできる……!
 その思いもかけない一大好機の前には、自身の尻込みなどすべて杞憂として霞んでしまう気がして、ダッシュウッドは自然と弾む足を、ゲオリクの導く魅惑のひとときへと投じていった。

 

 

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 ―――ここが、旦那の……。
 入れ、と鷹揚に促されてドアをくぐると、そこに広がる空間は、この部屋の主の人格がよく表れているといえた。 男一人が寝起きするには充分すぎる広さなのは、貴族の屋敷として何ら奇異はなかったが、不要な装飾を疎むようにシックな色とデザインで纏められた調度品の、しかし重厚な存在感たるや。
 当然のように天蓋込みのベッドは、長身のゲオリクが大の字になって寝たとしてもまだ余裕があろう大きさで、シンプルな色使いのカーペットも、ダッシュウッドの靴の底が浅く沈むほどの分厚さだ。 この寝室、土足で踏み込んだら慰謝料でも請求されないだろうか……といらぬ気を揉みつつ、おっかなびっくりと寝台へ近づいてゆく。 ―――と、
「…わっ」
 どん、といきなり背中を押されて、思いきりつんのめったダッシュウッドを、羽根枕の波面が心地よく出迎えた。 ふわりと鼻腔をくすぐるのは、ゲオリクの寝酒だろうか―――上級なワインの芳香。 知らず知らずのうち、意識をそちらへと吸い寄せられた瞬間、
「とっとと済ませるぞ。 そら、脱いだ脱いだ」
「ひゃ…っ!」
 情緒もへったくれもない無造作な動きで、手を胸元へ突っ込まれて、男の咽喉が悲鳴じみた音を立てた。 そのあまりの性急さに、歓びよりも驚きが先立って、ダッシュウッドは反射的にシーツの上を後じさってしまう。
「仔犬みたいに鳴いてないで、早く脱げ。 …それとも、今頃になって腰が引けたか?」
 静かにキングサイズの寝台へ上がってきたゲオリクの、色艶豊かな唇には微笑がある。 厳かな蒼藍を湛える瞳は、心なしか常より、物騒な攻撃性に満ちているような。
 強さに裏付けられた男の色香を感じさせる双眸に、刹那、うっかり魅入ってしまったりしたのがいけなかった。 ダッシュウッドが動きを止めたと見るや、黒髪の美丈夫はしなやかな身のこなしで男の上へ圧し掛かると、
「それとも……脱がして欲しいのか。 まったく、手のかかる姫君だな」
 などと、鼻歌でも唄い出しそうな気楽さで、組み伏せた獲物のシャツの留め具を外し始めたではないか。
 ぎょっとしたのはダッシュウッドだ。 思わず相手の表情と手元とを交互に見た、自分の顔がみるみる火照っていくのが分かる。 醜態を悟られたくなくて、ゲオリクの身体の下から抜け出そうと身じろぐと、それを制するように脚の間を膝で押し上げられ、焦燥はいや増すばかりだった。 ―――この人、ストイックな顔して、実は経験豊富なのでは…、とでも勘ぐりそうになる。 行動が積極的すぎるというか、妙に手慣れているというか―――。
「この期に及んで、往生際が悪いぞ。 自分から誘っておいて」
「…そ、そうッスけど……お、オレにも、心の準備ってもんがですね…ッ」
「そんなもの、事を進めながらで充分だろう。 お前は単に寝そべっていればいいんだから」
 …その科白にダッシュウッドは引っかかるものを感じた。 先刻からの違和感にいよいよもって拍車がかかる。 美人に押し倒されて奉仕されるシチュエーションに悪い気はしない、むしろ願ったり叶ったりではあるが、そこでなにゆえに姫君呼ばわりされなくてはならないのだろう。 こんな美男に、ベッドの上で女扱いされては、男として立つ瀬が……。
 そこまで考えが及んだとき、ダッシュウッドの思考はハタと止まる。
 ちょっと……微妙に望ましくない……結論が、意識の端を掠めたようで。
「…あ…あの、旦那。 …仰るように寝っ転がってるだけじゃ、オレ、旦那にご奉仕できませんが……」
 こころもち震える声と、引き攣り気味の笑顔。 それをどう捉えたのか、ゲオリクはニヤリと獰猛に目を眇めた。
「奉仕? …なんだ、随分と必死だな。 心配しなくても、約束したからには、ちゃんと抱いてやるよ」


 否定してもらいたかった危惧は、見事なまでに実を結んだ。


 ようやく、すべての合点がいった。 快諾とまではいかずとも、意外なほどすんなりと了承してくれた理由が。
 どうも話が噛み合わないと思っていたら―――あろうことか、この客、『自分が挿れる側』という前提を、端から微塵も疑っていなかったのだ。 なるほど不審げにしてはいても、狼狽はしないはずだ。

 ―――じゃあ、何か。 この人はオレが金の代わりに貴方のナニをくださいと、そう持ちかけたと思ったわけか。
 一気に気勢を削がれて、枕に沈み込んだダッシュウッドだった。
 ―――……そんな割に合わない取引、娼婦だってやんねぇぞ……。

 が、いかに脱力しつつも、既に乗り気になっている客に対し前言撤回、などという愚挙を晒せないのが、商売人の辛いところだった。 …それでも、男として痛む矜持を慰めるために、角立てない程度の陳情は試みておいた。
「…旦那。 …忌憚なく主張させてもらうと、オレも…男なんですがね」
 一応、遠回しにやんわりと。 訴えるように上げた視線は、しかしゲオリクの、珍獣でも眺めるかのごとく怪訝な眼差しに受け止められた。
「当然だろうが。 何を今更、分かりきったことを改まって主張しているんだ、お前は。 髭面の女がいてたまるか」
「…いや、そうじゃなくて…」
 なにか根本的なところで、激しく食い違っている気がする。 やや頭を抱えたくなりながら、ダッシュウッドは意思疎通に悩んだ。 どうも、言葉を額面通りに受け取る人のようだから、身も蓋もないストレートな言い回しのほうがいいんだろうか……と、思案していたそのとき、
「……ああ、なるほど。 つまり、お前は俺を抱くつもりでいたわけか」
 組み敷いた男の真意に思い至ったらしいゲオリクが、くすりと小さな笑みを零した。 艶っぽく伏せられる瞳に、ダッシュウッドが思わず目を奪われた一瞬、彼の指先はさりげなく滑り降りて、獲物の下肢を掌握する。
「あ……っ」
「ほぉ、顔に似合わず、可愛い声出せるじゃないか。 …この程度で頬染めてるようなガキが、俺を抱こうって?」
 揶揄交じりの指摘は悔しいほどに的を得ていた。 不意打ちッスよ! の抗議も、恥辱と快感に顔を赤らめながらでは、さして迫力がない。 ―――そしてゲオリクは、主導権の独占を更に誇示するかのように、まだ何らかの言葉を発しかけたダッシュウッドの喉を捕らえると、泣く子も黙る美貌を近づけ、剣呑に微笑んでみせた。
「これでも医者の端くれだ、甘く見るなよ。 仮にお前が力に任せて俺を押し倒したとしても、生憎、急所はいくらでも知っているんでな。 その気になれば、お前ぐらい、どうにでもできる……」
 凄む美人は、生半可な拷問より恐ろしい。 頚動脈をなぞられて微動だにできなくなった男は、呼吸も憚られる緊張の中で、間近に迫った藍玉の双眸に、数瞬、意識のすべてを支配される。
 深海を思わせる瞳だった。 鮮やかな蒼の、しかしそこに息づく感情の透けない、底知れぬ深淵……。
 無意識にゴクリと喉を鳴らしたきり、硬直しているダッシュウッドを眺めて、脅しの効果に満足したゲオリクの手が、掴んでいた喉から離れていった。
「さて、そろそろ心の準備とやらはできたか? 俺も男相手は初めてで勝手が分からんから、その辺の覚悟もしておいたほうが無難かもしれないぞ」
 さらりと怖いことをのたまいながら、澱みない医者の手つきでダッシュウッドの上着を引っぺがしていく。 もはや悪あがきも無粋に思えてきて、ダッシュウッドはそれこそ患者の心境で身を任せるより他はなく。
「……やっぱ相手が男でも、嵌める方がいいんスか?」
「愚問だな。 俺も男だ。 相手が誰であろうと、抱かれるより抱くほうが遥かにいいに決まっている」
「………オレも……くどいようですが一応、男だったり…します、けど…」
「譲歩しろ」
 消え入りそうな小声の抵抗すら、言下に抹殺される。 ―――それでいて彼の高慢な表情は、ふっとかすかな微笑に和らぐだけで、どうしようもないほどダッシュウッドの鼓動を疼かせるのだ。
 ―――……ああ、駄目だ。 とてもじゃねえけど、この人にはかなわねえ……。
 時間と神経と心肺機能の浪費を悟ったダッシュウッドは、とうとう旗を巻いて伯爵殿の意向に沿うことにした。

 

 

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